『火刑台のジャンヌ・ダルク』ヘルマン・スティルケ作/1843年

1431年の5月30日は、15世紀の「100年戦争」後半に出現し10代にしてシャルル7世を戴冠に導いたジャンヌ・ダルクが、異端審問の結果火あぶりの刑に処された日である。
農夫の娘として生まれたジャンヌ・ダルクは12歳で「フランスをイングランドから奪還し、フランス王を王座に就かせよ」という聖人の声を聞き、16歳で王宮を訪れた。
無論初めは追い返されたジャンヌであったが、その決心は揺らぐことなく、数々の素養を見せ続けたジャンヌに、フランス王室は一縷の望みを託す。
軍勢を率いることになったジャンヌは、「オルレアン奪還」、「サン・オーギュスタン要塞の攻略」など数々の重要な戦いで戦果を上げ、後のシャルル7世の戴冠に大きく貢献した。
しかし英仏の休戦中にブルゴーニュ公国軍に捕らえられ、イングランドがその身柄を引き取った。
そしてイギリスの占領下の都市ルーアンでジャンヌを処刑するための異端審問が行なわれた。
戦地で男装していたジャンヌはそれだけで異端といえたが、この審問の時には女装をしていたと言われている。
しかし、女装していた時に強姦されていたとも言われ、それを防ぐためにまた男装をしたりもしていたというから滅茶苦茶な話である。
国を率いた末に処刑されそうになってはいたが、その時彼女はまだ19歳の少女だったというから凄まじい。
結局こじつけの審問の結果、衆人環視の元火刑にされたジャンヌ。
その聖性を恐れたイングランド兵は、2度と蘇らぬように焼け焦げた遺体をセーヌ川に放り込んだとされる。
それは、後にローマ・カトリック教会の最も有名な聖人にも列せられ、フランスの国民的英雄となっていった少女が、いかに大きな存在であったかがしのばれる。

(写真はWikipedia Jeanne d'Arcより。Public Domain)

5月30日の不幸

1431年
【処刑】ジャンヌ・ダルク【軍人/フランス】

フランスの国民的英雄、聖女。農夫の娘として生まれたジャンヌ・ダルクは12歳で「フランス領をイングランドから奪還し、フランス王を王座に就かせよ」という聖人の声をに従って志願し、サン・オーギュスタン要塞の攻略など数々の重要な戦いで戦果を上げ、後のシャルル7世の戴冠に大きく貢献した。しかしブルゴーニュ公国軍に捕らえられ、イングランドの捕虜に。そしてイギリスの占領下の都市ルーアンでジャンヌを処刑するための異端審問が行なわれ、その結果、衆人環視の元火刑にされた。没年19歳。

1593年
【殺害】【怪死】【夭逝】クリストファー・マーロウ(Christopher Marlowe)【劇作家・詩人・翻訳家/イングランド】

16世紀エリザベス朝時代に活躍したイギリスの劇作家、詩人および翻訳家。ケンブリッジ大学入学中から『カルタゴの女王ダイドー』といった戯曲執筆や詩人オヴィディウスの『恋愛詩集』などの翻訳を行なう。卒業後は作家生活へ。1587年に発表した戯曲『タンバレイン大王』が成功、続いて代表作となった戯曲『フォースタス博士』を発表し国内で劇作家としての地位を確立。その後も戯曲『パリの虐殺』『エドワード2世』などを発表。作家として活躍中の1593年5月30日、居酒屋の喧嘩に巻き込まれ刺殺された。没年29歳。この死は謀殺が定説となっており、マーロウが学生時代、諜報活動を行なっており口封じのため殺されたとされている。

1770年
【死去】フランソワ・ブーシェ(François Boucher)【画家/フランス】

18世紀フランスで活躍したロココを代表する画家のひとり。画家の家に生まれ幼少期に絵画の手ほどきを受ける。その後、画家フランソワ・ルモワーヌへ師事し、版画の素描やエッチング作品の制作に数多く携わる。1723年、ローマ賞受賞。絵画『レベッカとエゼキエル』(1725頃)を発表。1731年、王立絵画彫刻アカデミーの準会員となる。1734年絵画『リナルドとアルミダ』を発表し同アカデミーの正会員へ。1750年代はルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人の依頼で『ヴィーナスの化粧』などの作品を発表する傍ら夫人に素描、エッチングを教える。1755年、タピスリ製作所の監察官に就任、翌年に同製作所長官に就任。1765年、ルイ15世の国王の筆頭画家となり王立絵画彫刻アカデミー院長に就任。 1770年5月30日に死去。没年66歳。

1778年
【死去】ヴォルテール(Voltaire)【哲学者・詩人・文学者/フランス】

啓蒙思想で知られる18世紀フランスの哲学者および詩人、文学者。裕福なブルジョワの家に生まれ、多くの文学者たちと交流を行なう。イエズス会ルイ=ル=グラン学院卒業後、詩人になることを決意。1714年、法律事務所の書記に従事する傍ら詩を書き、アカデミー・フランセーズで詩の賞を受賞。1717年、政治批判の詩を流布したためバスティーユ牢獄へ投獄される。1718年、戯曲『エディップ』(1718年)が公演され成功を収め、作家としての地位を確立。1726年、イギリスへ渡り哲学者ジョン・ロック、アイザック・ニュートンなどから影響を受ける。1728年にフランスへ戻り、1733年に随筆『哲学書簡』を発表。1738年ニュートンの『自然哲学の数学的原理』翻訳したことを機にニュートン科学を紹介した『ニュートン哲学要綱』を発表。1745年、史料編纂官となり、1746年にアカデミー・フランセーズ会員へ選出。1750年、プロイセン・フリードリヒ大王の侍従となるも1753年に辞職した後再びフランスへ戻る。その後、作家活動を再開し、辞書『百科全書』(1756年)、コント『カンディード』(1759年)を発表。フランス・フェルネに移住すると地元の殖産興業に参加しながら代表作となった哲学書『寛容論』(1763年)『哲学辞典』(1764年)などを発表。1778年、戯曲『イレーヌ』の上演に伴い、パリへ移住するも同年5月30日に死去。没年83歳。

1907年
【死去】オットマール・アンシュッツ(Ottomar Anschütz)【写真家・発明家/ドイツ】

帝政ドイツ時代に活躍した写真家でセルフキャッピング式フォーカルプレーンシャッターを発明したことで知られる人物。1887年、セルフキャッピング式フォーカルプレーンシャッターを開発し特許を取得。1889年、ゾートロープを改良した電気式『シュネルゼーアー』考案。1891年、このカメラを元にレンズメーカー・ゲルシュがカメラ『アンシュッツ・クラップカメラ』を開発。 1907年5月30日に死去。没年61歳。

1912年
【死去】ウィルバー・ライト(Wilbur Wright)【飛行機技師・パイロット/アメリカ合衆国】

牧師のミルトン・ライト家に生まれた三男で、動力飛行機の発明者として知られるライト兄弟の兄(もう一人は四男・オーヴィル)。自転車屋を続けながら、世界初の有人動力飛行に成功した世界初の飛行機パイロット。1912年5月30日に腸チフスで死去。没年45歳。兄弟共に独身でこの世を去った。

1947年
【航空事故】「イースタン航空605便墜落事故」

1947年5月30日、アメリカのニューアークからマイアミへ向かうイースタン航空605便(ダグラスC-54Bスカイマスター)がメリーランド州ベインブリッジ付近で突然垂直降下し反転後墜落した事故。この事故により乗員乗客合わせて53人全員が死亡。事故原因は未だ不明のままである。

1951年
【死去】ヘルマン・ブロッホ(Hermann Broch)【小説家/オーストリア】

小説家ロベルト・ムージルと並ぶオーストリアを代表する作家のひとり。紡績工場の家に生まれ家業を営む傍らウィーン大学で哲学を学ぶ。卒業後の1930年代に長編小説の1作『夢遊の人々』を発表。1938年、ナチスからの迫害を避けるため、アメリカへ亡命。1945年、大作『ウェルギリウスの死』を発表。作家活動を続ける1951年5月30日、急性心筋梗塞により死去。没年64歳。

1960年
【死去】ボリス・パステルナーク(Boris Leonidovich Pasternak)【小説家・詩人・翻訳者/ソビエト連邦・ロシア】

ノーベル文学賞を受賞した20世紀ロシアを代表する詩人、小説家および文学翻訳者。レフ・トルストイといった作家たちと親交の深かった画家レオニード・パステルナークの家に生まれる。作曲家アレクサンドル・スクリャービンに師事しモスクワ音楽院で学ぶが音楽を諦め、1910年からドイツ・マールブルク大学で新カント派ヘルマン・コーエンといった哲学者の下で学ぶ。1917年、詩『マールブルク』を発表。1914年に「第一次世界大戦」が勃発しロシアへ帰郷。同年に詩集『雲の中の双生児』発表。大戦後はシェークスピアの『ファウスト』などの翻訳を手がける。1957年、ソビエト連邦での刊行が拒否されたためイタリアで代表作『ドクトル・ジバゴ』を刊行。1958年にノーベル文学賞受賞。晩年も活動を続け、未完となった戯曲『The Blind Beauty』を執筆中の1960年5月30日、肺ガンで死去。没年70歳。

1961年
【暗殺】ラファエル・トルヒーヨ(Rafael Leónidas Trujillo Molina)【政治家・軍人/ドミニカ共和国】

国家警察から陸軍参謀総長に。その後大統領選で軍部を脅しのために動員するなどしてドミニカ共和国大統領に。31年間の独裁政権を手にしたが、自宅から海岸沿いの高速道路走行中に側近のひとりフアン・トマス・ディアス将軍他7名の兵士たちによりに銃撃され、27発の銃弾を撃ち込まれて死亡。その暗殺は米CIAに支援されていたといわれている。没年69歳。

1972年
【怪死】【夭逝】奥平剛士【活動家】

日本の新左翼の活動家で日本赤軍創設メンバーおよび最高幹部として知られる人物。戸籍上の妻は日本赤軍メンバー・重信房子。1964年に京都大学へ入学し、日本民主青年同盟(民青同盟)に参加、セツルメント活動を行なう。民青同盟をやめた後、全共闘運動へ参加。1971年、赤軍派・重信房子と偽装結婚しレバノンのベイルートへ。1972年5月30日、岡本公三らと「テルアビブ空港乱射事件」を起こし空港警備隊により射殺された、または岡本公三らと自害したとされる。没年26歳。

1972年
【テロ】「テルアビブ空港乱射事件」

1972年5月30日、イスラエル・テルアビブ・ロッドにあるロッド国際空港(現ベン・グリオン国際空港)で日本人極左過激派組織(後の日本赤軍)の奥平剛士(当時27歳)、安田安之(当時25歳)、岡本公三(当時25歳)ら3人が起こしたテロ事件。別名「ロッド空港乱射事件」。3人は乗降客、空港警備隊に向けて無差別に小型小銃を乱射。さらに乗客を乗せて駐機していたエル・アル航空の旅客機に向けて手榴弾2発を投げつけた。このテロにより犯人2人含むを26人が死亡、73人が負傷した。実行犯である奥平、安田は死亡したが、岡本は逮捕されている。岡本はイスラエルで終身刑となった後、捕虜交換で釈放されレバノン郊外のアパートで暮らしている。

1978年
【死去】片山哲【政治家・弁護士】

初代社会民衆党書記長、初代日本社会党書記長、初代日本社会党委員長を歴任し1947年5月24日にに第46代内閣総理大臣に就任した人物。東京帝国大学法学部独法科卒業後弁護士として活動した後に社会民衆党の結成に加わり、書記長に就任。1930年より衆議院議員に初当選すると、以降12期にわたり活躍した。日本社会党、日本社会党の結成にも中心人物として関わり、終戦直後の1947年には日本社会党が最多議席を獲得し内閣総理大臣に就任。就任時に閣僚が決まらずすべてを自らが兼任したために”1人内閣”と呼ばれ、GHQの圧力を受けた混乱の中、翌年の辞任を迎えた短命政権となった。退任後も衆議院議員に復帰し、1963年の落選を機に政界引退。1978年5月30日に90歳没。

1987年
【死去】出羽ノ花國市【大相撲力士・指導者】

頭脳明晰さで”角界の弁護士”と呼ばれ第4代日本相撲協会理事長を務めた人物。石川県出身で1925年に出羽ノ海部屋から出羽ノ子として初土俵、1932年の新入幕から出羽ノ花と改名したが、直後に腸チフスを患い休場。完治後の1934年に再入幕し東前頭筆頭まで昇進したが、1940年に現役引退。引退後は年寄・武蔵川として後進の育成に努めていたところ、1957年5月4日に出羽海理事長が自殺未遂を起こした際には、代理で国会答弁に立ち見事な弁舌を見せた。1960年には出羽海の急死を受けて出羽海に改名し出羽ノ海部屋を継承。1968年からは第4代日本相撲協会理事長に就任し、ビデオ判定の導入、中学生入門の禁止の徹底など、大相撲の現代化に大きく貢献し相撲人気の隆盛を導いた。1974年に理事長を退任し、1987年5月30日に78歳没。

1988年
【航空事故】「全日空訓練機下地島離陸失敗事故」

1988年5月30日、沖縄県の下地島空港で離陸訓練を行なっていた日本空輸ボーイング737(200型機)が離陸を失敗し滑走路を逸脱、空港エプロン上で停止。操縦教員・練習生合わせて3人が搭乗していたが死傷者は出なかった。原因は練習生の操縦ミスによるもの。

2000年
【自殺】井上大輔【ミュージシャン】

ジャッキー吉川とブルー・コメッツのリード・ヴォーカル、フルート、サックス。作曲も手がけ、『青い瞳』『ブルー・シャトウ』等多くのヒット曲を手がけた。バンド脱退後は作曲家として活動。代表作に『恋のダイヤル6700』『学園天国』『ランナウェイ』『2億4千万の瞳』『ボヘミアン』等。東京・六本木の自宅の階段の踊り場で首吊り自殺。網膜剥離手術を受けるなどの自身の健康状態と、妻の看病に疲れての自殺だったと言われる。没年58歳。翌年9月15日は妻の井上洋子も自殺対で発見された。

2005年
【死去】貴ノ花利彰【大相撲力士】

元大関貴ノ花。幕内通算578勝406敗、幕内最高優勝2回。兄である第45代横綱若乃花のとの兄弟力士として活躍し、息子の若・貴兄弟(第66代横綱・若乃花、第65代横綱貴乃花)も兄弟力士として横綱に育て上げた。引退後は藤島親方、後に二子山親方として指導にあたり、厳しい指導で若貴兄弟をはじめ、安芸乃島、貴ノ浪、貴闘力等の強力な力士たちを育て上げた。晩年は、長年口内炎と偽っていた口腔底ガンが悪化し死去。没年55歳。

2006年
【死去】今村昌平【映画監督・教育者】

代表作『楢山節考』『うなぎ』でカンヌ国際映画祭のグランプリ、パルム・ドールを2度受賞。世界的知名度を誇る映画監督。横浜放送映画専門学院(現日本映画大学)を開校してその校長・理事長を務め、後進の育成にも努めた。転移性の肝腫瘍で79歳没。

2012年
【死去】 尾崎紀世彦【歌手】

父方の祖父をイギリス人に持つ、パワフルな端正なルックスと、何より桁外れの歌唱力で長きにわたり人気を博した実力派歌手。通称”キーヨ”。代表曲に第13回レコード大賞に輝いた『また遭う日まで』等。『マイ・ウェイ』『帰り来ぬ青春』『明日に架ける橋』等海外のヒットソングをカバーする活動でも知られ、その美しい発音と歌唱力は国境を越え未だに海外ファンからも絶大な支持を受けている。2011年4月に翌月開催のコンサートの中止を発表し、5月30日に肝臓ガンで死亡。没年69歳。