『日本航空115便接触事故』

1978年6月2日は、日本航空115便の大阪・伊丹空港着陸時に機体の尾翼が滑走路に接触してしまうという不良着陸の事故が発生した日である。
バウンドした機体の揺れで、3人の負傷者を出すだけにとどまったために、社会的にはあまり記憶に残っている航空事故ではないだろう。
しかし、ボーイング社が行なったこの機体の修理が原因となり、後の1985年8月12日に乗員乗客524人のうち死亡者数は520人、生存者4人という単独機での世界最多死亡者を出した航空事故——「日本航空123便墜落事故」を引き起こすことに繋がってしまったのである。
史上空前の墜落事故の原因となったといわれる機体の後部圧力隔壁の亀裂は、この年の6月2日の“小さな”事故で生じたものだったといわれている。
《不幸》は、突然起きるものばかりではなく、様々な繋がりと物語を持っているのである。

(写真はWikipedia 日本航空115便しりもち事故より)

6月2日の不幸

1年
【第二次世界大戦】【クレタ島の戦い】【大量虐殺】【ジェノサイド】「コンドマリの虐殺」

1941年6月2日「クレタ島の戦い」の報復としてギリシャ・クレタ島コンドマリでドイツ降下猟兵がコンドマリ村の男性およそ25人を虐殺。

1941年
【死去】ルー・ゲーリッグ(Henry Louis “Lou” Gehrig)【プロ野球選手/アメリカ合衆国】

ベーブ・ルースに次ぐ看板選手としてニューヨーク・ヤンキースで活躍した強打のメジャーリーガー。故障をいとわない頑丈さから”アイアン・ホース”と呼ばれ、2,130試合連続出場の大記録を誇る(後に衣笠祥雄、カル・リプケンJr.が更新)左投げ左打ちの一塁手。2度のリーグMVP、三冠王1回、本塁打王3回、打点王5回、生涯打率.340、生涯出塁率は歴代5位の.447という見事な数字を残した。しかし、35歳頃からどこか体の不調を感じるようになり、やがて日常生活にも支障が出るレベルにまで悪化。1939年5月2日に自ら不出場を直訴、連続記録は止まった。その後の診断により、当時まだ珍しかった筋萎縮性側索硬化症(ALS)であることが発覚、現役引退となった。このことからALSは”ルー・ゲーリッグ病”とも呼ばれている。引退の2年後に37歳で死亡。引退セレモニーでのスピーチ、「(難病に冒されていても)私は今地球上で最も幸せな男です」はアメリカの歴史上でも最も有名なスピーチのひとつとして知られている。

1948年
【処刑】カール・ブラント( Karl Franz Friedrich Brandt)【医師/ドイツ】

ナチスドイツの総統付医師としてヒトラーに仕え、フィリップ・ボウラーとともに第二次世界大戦期の障害者・病人を安楽死させる「T4作戦」を監督・主導した医師。人体実験などを積極的に行なっていたことでも知られている。しかし戦局の悪化した1944年10月5日にヒトラーの怒りを買い解任、すぐさまゲシュタポに捕らえられ死刑を宣告されたが、ヒトラーの後を継いだデニッツにより釈放。終戦後アメリカ軍により行なわれたニュルンベルク継続裁判の医者裁判で非人道的犯罪などの罪状により死刑に。ランツベルク刑務所で他の6人のナチス・ドイツ関係者とともに絞首刑に処された。没年44歳。

1952年
【冤罪事件】【赤狩り】【警察不祥事】菅生事件が発生。

1952年6月2日に大分県直入郡菅生村の駐在所が何者かよって爆発される事件が発生。この事件により日本共産党員ら5人が逮捕・有罪となるもその後、公安警察による日本共産党を弾圧するための自作自演であったことが発覚。被告全員が無罪となり公安警察に協力した警察官Aは有罪となるも、その後Aは刑を免除され警察官へ復職、警視長まで昇任している。

1967年
【射殺事件】【学生運動】【デモ】「大学生ベンノ・オーネゾルク射殺事件」

1967年6月2日に西ベルリンで西ドイツ訪問中であったイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーに抗議するデモに参加していた大学生ベンノ・オーネゾルクが服警官カール=ハインツ・クラスに射殺される。この事件により西ドイツの学生運動が過激化することとなった。

1968年
【航空事故】「九州大学電算センターファントム墜落事故」

1968年6月2日に福岡県福岡市東区箱崎・九州大学箱崎地区内で建設中であった九州大学大型計算機センターへアメリカ空軍RF-4Cファントム偵察機が墜落。パイロット2人は墜落直前にパラシュートで脱出、大型計算機センターは5〜6階が全壊するも建設工事が行われていなかったため、この墜落事件による死者は出ていない。

1972年
【事故死】ブルース・マクラーレン(Bruce Leslie McLaren)【レーシングドライバー・レーシングチーム経営/ニュージーランド】

1959年にクーパーからデビューし、その年に23歳で初優勝を遂げたF1レーサーであり(通算優勝4回・通算獲得ポイント数248)、現役中の1966年には独立し自らのレーシングチーム「マクラーレン」を創始した人物。後の1980年代〜2000年代のF1グランプリで栄光を築くことになる強豪チームの基礎を築いたが、その常勝期を見ることなく、グッドウッド・サーキットでのテスト走行中に事故死した。没年32歳。

1974年
【競技中事故死】鈴木誠一【レーシングドライバー・モータースポーツ選手】

昭和に活躍したレーシングドライバーおよびモータースポーツ選手で東名自動車(現・東名パワード)創設者のひとりとして知られる人物。1956年に2輪スクランブルレース初出場し優勝。その後、城北ライダースクラブ(JRC)を結成し1958年に全日本クラブマンレースに出場。1960年から四輪車および二輪車メーカーのスズキと契約、主に国内モトクロスへ出場し活躍。1962年にスズキワークスライダーとしてロードレース世界選手権に出場。1964年の日本グランプリで4輪デビュー。1965年に日産のドライバーとなり同年のマカオGPに出場し3位入賞を果たす。1968年にチューニングショップ東名自動車を設立し同年からストックカーレースに出場。以後、グランドナショナルストックカー選手権年間チャンピオンを3年連続での獲得やアメリカのストックカーレース派遣選手としても活躍。1970年からはJAF非公認レースへの出場や若手レーサーの育成を行なう。1974年6月2日、富士グランチャンピオンレース出場中に多重クラッシュに巻き込まれ事故死。没年37歳。

1974年
【競技中事故死】【夭逝】風戸裕【レーシングドライバー】

当時“F1に最も近い男”として称された1960年代から1970年代にかけて活躍したレーシングドライバーでノバエンジニアリング創設者としても知られる人物。日本電子創設者の風戸健二の息子として生まれ、1966年にジムカーナに出場し優勝。1967年にA級ライセンスを取得し同年に日刊スポーツJr.チャンピオンレースへ出場し2位入賞。翌年から本格的にレース活動を行ない、富士チャンピオンレース、JAFグランプリに出場し活躍。1970年に風戸レーシングリミテッド、1973年にノバエンジニアリングを設立。国内外のレースで活躍中の1974年6月2日、富士グランチャンピオンレース出場中に多重クラッシュに巻き込まれ事故死。没年25歳。

1977年
【急死】スティーヴン・ボイド(Stephen Boyd)【俳優・北アイルランド】

『ベン・ハー』や『ミクロの決死圏』等の人気映画への出演で知られた俳優。心臓発作で45歳没。

1978年
【死去】サンティアゴ・ベルナベウ(Santiago Bernabéu de Yeste)【サッカー選手・サッカークラブ会長/スペイン】

14歳で入団した”20世紀最大のフットボール・クラブ”レアル・マドリーで活躍した伝説的な点取り屋であり、1943年9月15日からは同クラブの会長として1974年にスペイン最大のスタジアム「ヌエボ・エスタディオ・チャマルティン」を建設、1952年からは前人未踏のUEFAチャンピオンズカップ5連覇に導くなど、同クラブを世界的なビッグクラブへと牽引した人物。て1955年1月4日からはその功績を称えられヌエボ・エスタディオ・チャマルティンは、「エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ」と改名された。82歳没。

1978年
【航空事故】「日本航空115便接触事故」

大阪・伊丹空港着陸時に機体の尾翼が滑走路に接触してしまうという不良着陸の事故。バウンドした機体の揺れで、3名の負傷者を出すだけにとどまったために、あまり記憶に残っている航空事故ではないが、ボーイング社が行なったこの機体の修理が原因となり、後の1985年8月12日に乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者4名という単独機での世界最多死亡者を出した航空事故、「日本航空123便墜落事故」を引き起こすことに繋がってしまった。機体の後部圧力隔壁に残ったままになっていた亀裂は、この日の小さな事故で生じたものだったといわれている。

1983年
【失神劇】【放送事故】「アントニオ猪木舌出し失神KO事件」

1983年6月2日に東京・蔵前国技館で時間無制限1本勝負で行なわれたIWGP決勝リーグ戦「アントニオ猪木 VS ハルク・ホーガン」でハルク・ホーガンの必殺技アックスボンバー受けたアントニオ猪木がリング下へ転落、舌を出した状態で失神しそのまま病院へ搬送されKO負けへ。

1986年
【解散】「死んだふり解散・寝たふり解散」

第2次中曽根内閣時代の1986年6月2日に議長応接室で解散詔書が読み上げられ突然の衆議院解散へ。参議院選挙と同時に行なわれ、自民党は衆参両院で圧勝することとなった。当時、中曽根がこの解散を「正月からやろうと考えていた。定数是正の周知期間があるから解散は無理だと思わせた。死んだふりをした」と発言したことが名称の由来となっている。

1989年
【贈収賄事件】【リクルート事件】「竹下登内閣・総辞職」

1988年に発覚した「リクルート事件」により1989年6月3日に竹下内閣が総辞職へ。

1990年
【強盗事件】「練馬三億円事件」

1990年6月2日に東京都練馬区の建設会社・内野工務店の社長であった内野三郎さん(当時60歳)の自宅に無職の小田島鐵男(当時47歳)と元同店下請け業者の男性(当時45歳)の2人が押し入り内野さん家族7人を脅迫・監禁。同月4日まで脅迫・監禁を続け3億円を強奪。その後、逮捕された小田島は懲役12年の服役から出所した2002年に「マブチモーター社長宅殺人放火事件」で馬渕さん一家4人を殺害、死刑が確定している。

1992年
【列車事故】「関東鉄道常総線列車衝突事故」

1992年6月2日に関東鉄道常総線の列車(キハ300形)が終点であった同線・取手駅に進入中、ブレーキ故障により停車できず暴走し駅ビル2階の壁を突き破る事故が発生。乗客1人が死亡・250人以上が負傷。

1994年
【死去】神保史郎【マンガ原作者】

マンガ『サインはV』アニメ『花の子ルンルン』等人気少女マンガの原作を手がけたことで知られる人物。同時に、多くの成人マンガの原作も手がけていたことでも知られている。ヘルペス脳炎で46歳没。

1995年
【ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争】【撃墜】「ボスニア・ヘルツェゴビナ・ムルコンジーグラード・米空軍戦闘機墜落事件」

「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」の1995年6月2日に北大西洋条約機構(NATO)の飛行禁止空域であったボスニア・ヘルツェゴビナのムルコンジーグラードをパトロール中のアメリカ空軍F-16戦闘機がスルプスカ共和国軍の地対空ミサイルで撃墜される。撃墜されたパイロットのスコット・オグレイディは脱出し同月8日に救出された。

2003年
【死去】フレッド・ブラッシー(Fred Blassie)【プロレスラー/アメリカ合衆国】

1950年代以降、プロレス創生期のアメリカ活躍したプロレスラー。噛みつき攻撃や毒舌などを駆使した典型的なヒールとして大成し、1962年には力道山率いる日本プロレスに初来日。”銀髪鬼””吸血鬼”と呼ばれたその反則も辞さないファイトスタイルで日本国民に衝撃を与え、4月27日に行なわれた6人タッグマッチで、グレート東郷を噛みつき攻撃で大流血させ、テレビ視聴者だった複数の老人をショック死させたことで話題となった。引退後は悪徳マネージャーとして活躍するなど、生涯にわたりプロレスビジネスに携わり続け、心臓疾患、腎臓疾患で85歳没。

2003年
【死去】小鶴誠【プロ野球選手】

大学進学の傍らプロ野球名古屋軍に入団し、すぐさま天才的な打撃で”和製ディマジオ”と呼ばれるほどの活躍を見せた伝説的選手。松竹ロビンス在籍時の1950年に”水爆打線”の要としてプロ野球初の50本塁打を記録し(51本塁打)、同時に143得点、376塁打、161打点という現在でも破られることのない歴代最高記録を打ち立てた。また、その年に「ボールが止まって見えた」という伝説的な言葉を残したことでも知られる。引退後はコーチ・スカウトや、解説者として活動し、プロ野球から離れた後も還暦までバッティングセンターで毎日200本の打ち込みを続けていたという。心室細動で80歳没。

2008年
【死去】ボ・ディドリー(Bo Diddley/Ellas O.B. McDaniel)【ミュージシャン/アメリカ合衆国】

チャック・ベリーやリトルリチャードらとともにロックンロール草創期に活躍した伝説的な歌手。1955年のデビューシングル『Bo Diddley』『I’m a Man』が全米R&Bチャート1位を記録する大ヒットに。同年に当時の大人気音楽番組『エド・サリヴァン・ショー』へ黒人ミュージシャンとしては初めて出演するも、番組側の要請に従わなかったために以降出演することはなかった。晩年まで精力的にライブ活動を続けたが、2007年5月13日に公演先のアイオワ州カウンシルブラフスで脳卒中を起こし入院。すぐさま退院したが後遺症が残り、リハビリを続けたものの翌年フロリダの自宅で心不全のため死亡した。79歳没。

2008年
【死去】 長沼健【サッカー選手・サッカー指導者・日本サッカー協会会長】

中央大学を経て古川電工に入社し、同社のサッカー部のエース・ストライカーとして1部昇格、天皇杯制覇、実業団日本一など数々の栄光に牽引した。1959年からは28歳にして同クラブのプレーイングマネージャーとなり、1962年には現役選手のまま日本代表の監督に就任。ドイツから招聘された戦術コーチのデットマール・クラマー、コーチの岡野俊一郎とともに築いた三頭体制で1968年のメキシコオリンピック銅メダルに導いた。引退後は日本サッカー協会の発足に携わり、役員、会長としてサッカーのプロ化を目指した改革を推し進め、日本サッカー界のトップとして長年にわたり君臨、Jリーグ発足、ワールドカップ初出場にトップとして関わった。晩年は同協会の名誉会長として活動したが、肺炎で77歳没。

2008年
【テロ事件】【ムハンマド風刺漫画掲載問題】「2008年在パキスタン・デンマーク大使館爆発事件」

2008年6月2日にパキスタン・イスラマバード市内のデンマーク大使館前でテロによる爆破事件が発生。爆発物を積んだ車が同大使館へ侵入しようとするも失敗し大使館前で爆発、走行中の自動車や大使館前の建物が巻き込まれ犯人男性1人を含む8人が死亡、およそ30人が負傷した。事件はデンマークの新聞がイスラム教預言者ムハンマドの風刺画を掲載したことに対しイスラム過激派が起こした犯行であった。