『銀座「ルパン」での太宰治』(1964年/林忠彦撮影)

1943年6月13日は『人間失格』等の著作で知られる小説家の太宰治が、愛人の山崎富栄とともに玉川上水で心中した日である。
太宰は作家として知られる前から自殺未遂を繰り返しており、20歳の時にカルモチンで自殺未遂、21歳の時にカフェの女給であった人妻・田部シメ子と鎌倉の小動岬の海で入水心中未遂(田部シメ子のみ死亡)、26歳で東京新聞社の就職試験に落ちて首吊り自殺未遂、27歳で内縁の妻であった小山初代が浮気していたことを知って心中未遂と、4回の自殺未遂を起こしており、この5回目でやっと死亡することとなった。
まさに《自殺に支配されたような人生》を送った太宰。
発見されたその遺体は、山崎富栄と赤い糸で繋がっていたという。
一説には、自殺未遂の果てに自殺した先人である芥川龍之介の自殺に影響を受けたとされるが、大作家の自殺は、芥川だけに止まらず、決して珍しいものではない。
ならば、先立った多くの文豪たちもまた、太宰とは“赤い糸”で繋がっていたというのだろうか。

(写真はともにWikipedia Osamu Dazaiより。Public Domain)

6月13日の不幸

1645年
【死去】宮本武蔵【剣術家】生涯不敗を謳われた伝説の剣豪。二本の刀を同時に使用する「二天一流兵法」の開祖。その極意を『五輪の書』として遺した。肺ガンのため61歳没。
1886年
【怪死】ルートヴィヒ2世(Ludwig II)【王族/バイエルン】

19世紀に第4代バイエルン国王(1864年〜1886年)となった人物で浪費を繰り返し“狂王”の異名をとったことで知られる。第3代バイエルン国王マクシミリアン2世の長男として生まれ、1864年に第4代バイエルン国王に即位。即位後はノイシュヴァンシュタイン城、ヘレンキームゼー城、リンダーホーフ城、バイロイト祝祭劇場などを建設。1866年「普墺戦争」が勃発、オーストリア帝国側で参戦するも敗戦しプロイセンに多額の賠償金を支払うことに。その後、浪費を繰り返すルートヴィヒ2世に対し家臣たちが廃位を計画。精神病を理由に1886年6月12日に逮捕・廃位となりベルク城へ送られるも、翌13日に医師ベルンハルト・フォン・グッデンとともにシュタルンベルク湖で水死体となって発見された。没年40歳。

1931年
【死去】北里柴三郎【医学者・細菌学者】

世界で初めてペスト菌や破傷風の治療法を発見し医学の向上に絶大な貢献を果たした”日本における細菌学の父”。 ドイツへ留学し”近代細菌学の開祖”ロベルト・コッホに師事し、帰国後に伝染病研究所を設立。そのほかにも慶應義塾大学医学部の創立に携わり初代学部長を務めたほか、 日本医師会を創設し初代会長に就任するなど、日本の医学の発展に寄与し続けた。6月13日早朝5時に脳溢血で死去。没年78歳。

1948年
【自殺】【心中】太宰治【小説家】『走れメロス』『人間失格』等数々のヒット作で知られる小説家。幾度の自殺未遂の果てに、愛人の山崎富栄とともに玉川上水で心中した。発見された遺体は、山崎富栄医と赤い糸で繋がっていたという。37歳没。
1952年
【航空事故】【冷戦】「DC-3行方不明事件(カタリナ事件)」

1952年6月13日、スウェーデン軍の軍用輸送機DC-3(通称スカイライン)がスウェーデンのゴツカ・サンド島東側で行方不明となった事件。この事件により搭乗員8人全員が死亡したとされた。その後、1956年にソビエト連邦の指導者ニキータ・フルシチョフがソ連の戦闘機MiG-15で機体を撃墜したことを認めた。また、1990年代に入りスウェーデン当局は撃墜された同機体がNATOのスパイ活動を行なっていたことも認めている。

1954年
【監禁事件】「カービン銃ギャング事件」

1954年6月13日、保安庁元隊員の大津健一(当時28歳)が仲間3人と共謀し、保安庁技術研究所会計係長夫妻をカービン銃で脅し、新宿区四谷の大津の兄宅へ監禁した事件。翌日夫妻に7枚の小切手で1,750万円相当をつくらせ、横浜興銀川崎支店でおよそ95万円の現金化に成功。同月16日、夫妻が監禁先からの脱出し事件が明るみとなった。事件後、大津は元女優の中田みさおと逃走し、同年7月21日大分県湯平温泉で逮捕され、共犯者2人もその後逮捕された。逮捕後、大津は元会社社長の殺害(マンホール事件)も自供、1958年に無期懲役となり1978年に仮釈放されている。事件当時、アプレゲール犯罪のひとつとして取り上げられ、新東宝で映画化されるなど世間を騒がせた。

1977年
【夭折】マシュー・ガーバー(Matthew Garber)【俳優/イギリス】

子役として8歳で映画『メリー・ポピンズ』に出演し、ジョージ・バンクスの息子、マイケル・バンクス役を好演。その後は1967年に1本の映画に出演し引退。膵炎による昏睡を経て死去。没年21歳。

1982年
【競技中事故死】リカルド・パレッティ(Riccardo Paletti)【レーシングドライバー/イタリア】

イタリアF3、ヨーロッパF2を経て1982年第4戦サンマリノGPでオゼッラからF1デビューを果たしたF1レーサー。同年の第8戦カナダGPdで3度目の決勝進出を果たしたが、決勝スタート時にポールポジションのディディエ・ピローニ(フェラーリ)がエンジンをストールさせ停止状態に。後続車は挙手で合図するピローニを避けてスタートしたが、23位という最後方から発車したパレッティは合図に気付くのが遅れて激突。車体前方の運転席が押し潰されて、両足を骨折。胸部をハンドルで圧迫されたまま車体が炎上し、救出に時間を要した。その後病院に搬送されたが胸郭破裂で死亡。没年23歳。ちなみにピローニは、ほぼ無傷であった。その死後、故郷であるパルマのサーキットは「リカルド・パレッティ・サーキット」と改名された。

1983年
【イジメ】【教育問題】「戸塚ヨットスクール事件」

不登校児や非行少年の受け入れ先として話題となっていた愛知県知多郡美浜町のヨットスクール「戸塚ヨットスクール」の校長の戸塚宏が傷害致死容疑で逮捕された。同校では訓練中の傷害事件や死亡事件が多発していた。19年にわたる裁判の結果、戸塚の懲役6年と起訴されたコーチら15人全員が有罪となった。

1986年
【死去】ベニー・グッドマン(Benny Goodman)【ミュージシャン/アメリカ合衆国】

スウィング・ジャズの第一人者で“キング・オブ・スウィング”と称される20世紀アメリカのクラリネット奏者。地元の音楽教室でクラリネットを学び、1921年にプロデビュー。1922年の高校入学後はコルネット奏者ビックス・バイダーベックと共演。1925年にベン・ポラック楽団入団。1928年から拠点をニューヨークへ移し、翌年からソロ活動へ。1932年に楽団を結成、1935年のダンスホール・パロマーボールルームでの演奏が成功し全米で人気を博すことに。1936年代表曲『シング・シング・シング』を発表。1938年、カーネギー・ホールで史上初のジャズ・コンサートを開催、以降“キング・オブ・スウィング”と称される。以後、クラシック音楽も手がけ、モーツァルトの『クラリネット協奏曲』などを発表。1955年、前半生を描いた映画『ベニイ・グッドマン物語』が公開。晩年も活動を続け、1986年6月13日に心臓発作で死去。没年77歳。

1996年
【航空事故】「福岡空港ガルーダ航空機離陸事故」

福岡空港からインドネシア・バリ島デンパサール経由で、同国の首都ジャカルタに向かう予定のガルーダ・インドネシア航空865便が、離陸滑走中に右翼第3エンジンが故障。既に機体が僅かに浮いていたために滑走路をオーバーランし不時着し、その衝撃で炎上。乗客260人のうち3名が死亡した。エンジン故障の原因はエンジン内の高圧タービンブレードが製造メーカーの推奨期間を超えた使用による疲労で破断したことであった。

2002年
【死去】 村田英雄【歌手】

浪曲歌手から演歌歌手に転身し、国民的人気を博した昭和を代表する歌手。『王将』『無法松の一生』等のヒット曲で知られ、NHK紅白歌合戦に27回出場するなど長きにわたり活躍を見せた。晩年は35歳の頃から発症した糖尿病が悪化し、合併症のため視力障害や両脚を切断するまでに至り、最終的には糖尿病の合併症からの肺炎で死亡。没年73歳。

2002年
【社会事件】【軍事事故】【殺人事件】「議政府米軍装甲車女子中学生轢死事件」

2002年6月13日、大韓民国の京畿道楊州市(キョンギドヤンジュし)で、議政府市の駐韓米軍基地に戻っていたアメリカ軍所属の装甲車M88が、公道で女子中学生2人を轢き殺した事件。アメリカは当初、不慮の事故としていたが事態が深刻化したため、操縦手と管制官を過失致死罪でアメリカ軍事法院に起訴した。その後、遺族がアメリカ軍の責任者6人を業務上過失致死容疑で議政府地方検察庁へ告訴、アメリカ側の裁判権放棄を要請。アメリカ側がこれを拒否したため、大韓民国法務部はアメリカへ史上初の裁判権放棄要請書を送付。以降もアメリカは裁判権放棄を拒否し続け、起訴されていた操縦手と管制官2人に無罪評決が言い渡されることとなった。事件後、同年11月に韓国では大規模な反米運動が起こることとなった。

2006年
【死去】チャールズ・ホーヒー(Charles James Haughey)【政治家/アイルランド】

20世紀アイルランドで第6代首相(1979年〜1981年・1982年3月〜1982年12月・1987年〜1992年)となった人物。ダブリン市議会の地方評議員を経て、1961年に法務大臣、1964年に農業大臣へ就任。以後、財務大臣、厚生大臣に就任後、1979年に首相に就任。同年、フィアナ・フォイル(アイルランド共和党)第4代党首へ就任。1982年、殺人犯でダブリンの社交界で知られていたマルコム・マッカーサーをアイルランドの検事総長パトリック・コノリーが匿ったことが発覚(GUBU事件)、この事件により同年ホーヒーは辞任。その後、1987年に再び首相に就任し、1992年に政界を引退。2006年6月13日、ガンにより死去。没年80歳。

2009年
【競技中事故死】三沢光晴【プロレスラー・実業家】

全日本プロレスに入門、2代目タイガーマスクとして人気を博したレスラー。マスクを脱いだ後はジャンボ鶴田との世代抗争で同団体を牽引し、ジャイアント馬場亡き後はプロレスリング・ノアを立ち上げて独立。名実ともに日本のトップレスラーとしてプロレス界に君臨した。2009年6月13日の試合中に齋藤彰俊のバックドロップを喰らい即死。死因は頸髄離断。業界一受け身の上手いレスラーとして知られた三沢らしからぬ悲劇だった。没年46歳。

2012年
【死去】畑中純【漫画家】

力強い線と、版画もとり入れた作風で知られるマンガ家。代表作に『まんだら屋の良太』等。2007年からは東京工芸大学芸術学部マンガ学科教授にも就任した。腹部大動脈瘤破裂で62歳没。

2013年
【政治事件】【暴露】「スノーデンがアメリカ政府を告発」

NSA(アメリカ国家安全保障局) 、CIA(中央情報局)の元局員であるエドワード・スノーデンが、香港に渡り現地のマスコミ『ガーディアン』『ワシントン・ポスト』『サウスチャイナ・モーニング・ポスト』の取材中に、NSAの個人情報収集を告発。アメリカ政府の犯罪を暴く形となり監視社会の事実が明らかになった。

2013年
【死去】尾崎行雄【プロ野球選手・実業家・指導者】

1960年代から1970年代にかけて活躍したプロ野球選手。1961年、全国高等学校野球選手権大会で優勝投手となり、同年高校を中退し東映フライヤーズへ入団。1962年に初登板し初勝利、同年4月には完封勝利を果たし史上最年少で新人王に選出される。1965年、最多勝を獲得。その後は肩を痛め徐々に登板機会が減少し1973年に引退。プロ通算107勝、夏の甲子園優勝投手として戦後初のプロ通算100勝投手となった。引退後はレストラン経営やスポーツ関係の会社に務める傍ら少年野球の指導を行ない、2013年6月13日肺ガンのために死去。没年68歳。

2013年
【死去】内海賢二【俳優・声優・実業家】

昭和から平成にかけて活躍した声優および俳優で声優事務所・賢プロダクション会長として知られる人物。高校時代の1955年にNHK小倉放送局・専属劇団へ入団し俳優としてラジオドラマや朗読の仕事を開始。その後、九州朝日放送に移籍しKBCラジオ専属声優へ。1958年、上京しナレーターや俳優業を行ないながら1963年にアニメ『狼少年ケン』でアニメ声優デビュー。以後、『魔法使いサリー』(1966年)のサリーちゃんのパパ、『新造人間キャシャーン』(1973年)のブライキングボス、『Dr.スランプ アラレちゃん』(1981年)の則巻千兵衛、『北斗の拳』(1985年〜1988年)のラオウ、カイオウといったアニメキャラの声優や俳優スティーブ・マックイーンの吹替えを担当し人気を博す。1984年、賢プロダクション創設。2009年、声優アワード功労賞を受賞。2013年6月13日、ガン性腹膜炎で死去。没年75歳。死後の翌年に声優アワード「特別功労賞」を受賞した。

2017年
【死去】野際陽子【女優・アナウンサー】

晩年、個性的な姑役として映画、テレビで一世を風靡した女優。元々は立教大学卒業後の1958年にアナウンサーとしてNHKに入社したが、1962年に退社後。『女性専科』の司会者に抜擢され、そのまま女優に転身した。才色兼備のスターとして活躍し、日本人として初めてミニスカート姿を披露したことでも知られる。私生活では人気ドラマ『キーハンター』で競演した千葉真一と結婚。1994年に離婚した。2014年に初期の肺腺ガンと診断を受け、翌年に摘出手術を受けて俳優活動を継続。その後も悪化していったが2017年5月7日まで撮影を続け、翌日肺炎を患い入院。そのまま翌月13日に死亡した。没年81歳。