『1953年のモーリーン・コノリー』

1969年6月21日は、女子テニス界で史上初めて年間グランドスラムを達成した名選手、モーリーン・コノリーが死亡した日である。
15歳でテニスを始めたコノリーは、たった2年で全米選手権優勝を果たし、翌年1552年からはウィンブルドンを3連覇(全米選手権も3連覇)。
そして、1953年、わずか19歳の年に、女子テニス界で史上初となる年間グランドスラムを達成した。
それは、身長165センチという、当時のテニス界に於いても小さなサイズで走り回るその可憐な姿から、“Little Mo”と呼ばれ世界中から愛される小さなチャンピオンの誕生だった。
しかし、その翌年の全米選手権直前の1954年7月20日、乗馬をしていたコノリーはコンクリートミキサー車にはねられ、馬とミキサー車に挟まるようにして複雑骨折を負った。その瞬間、輝かしいキャリアを約束されていた彼女の選手生活は、終わりとなった。
翌年、アメリカの馬術代表チームに所属していたノーマン・ブリンカーと結婚し、やがて歩行できるところまで回復したコノリーは、テニスの指導も始めたが、1966年に卵巣ガンと診断され、わずか39歳でこの世を去った。
コノリーの場合だけにかかわらず、我々一般人の身体能力を遙かに凌ぐトップアスリートが満足な日常生活すらできなくなるということは度々起こるケースであるが、本人にとっては我々からは想像できないほどの衝撃であろう。
ましてや、平均寿命を遙かに下回る死を遂げたコノリーのような例は、人間の生命力というものを考える際に、不思議な影を落とす。
たった19歳ですべての光を放ち終えたようなその人生は、幸か不幸か、これからも記憶されてゆくべきである。

(写真はWikipedia Maureen Connollyより使用。Public Domain)

6月21日の不幸

1582年
【自殺】【切腹】織田信長【戦国大名】

尾張出身の戦国大名。街道一と言われた今川義元を破り、足利義昭を追放し室町幕府を消滅させた。"天下布武"の名の下に、延暦寺焼き討ちなど、強硬で斬新な戦略で領地を拡大。天下人となる直前に、家臣の明智光秀による謀反「本能寺の変」で自害した。49歳没。

1852年
【死去】フリードリヒ・フレーベル(Friedrich Wilhelm August Fröbel)【教育学者/ドイツ】

18世紀から19世紀にかけて活躍した"幼児教育の祖"と言われたドイツの教育学者。初めて幼稚園(Kindergarten)を作った人物。1805年に教師となった後、スイスの教育思想家ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチに出会い強い影響を受ける。1816年にテューリンゲン・グリースハイムに学校を開設、翌年、カイルハウに移り「一般ドイツ教育舎」と改称。1826年に『人の教育』刊行、その後、1837年に世界初の「一般ドイツ幼稚園」を開設した。1852年6月21日、老衰により死去。没年70歳。

1893年
【死去】リーランド・スタンフォード(Leland Stanford)【実業家・政治家/アメリカ合衆国】

アメリカの実業家であり、スタンフォード大学の創設者。ゴールドラッシュ時代に鉱夫を客とした雑貨商を営み成功。1861年、共和党としてカリフォルニア州知事に当選。同年、大陸横断鉄道の1つであるセントラル・パシフィック鉄道を設立・社長に就任。1891年にチフスで亡くなった息子の名前からとったリーランド・スタンフォード・ジュニア大学を設立。1893年6月21日、心不全により死去。没年70歳。

1901年
【暗殺】星亨【政治家・弁護士】

弁護士から自由党に加わり政治家に転身。逓信大臣、第2代衆議院議長等を歴任した人物。東京市会議長として活動していた1901年6月2日の15時頃、私塾私塾文友館館長であり心形刀流剣術第10代の剣術家、伊庭想太郎により刺殺された。没年51歳。

1920年
【死去】 ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)【建築家/イギリス】

イギリスの建築家。代表的な建築物として三菱一号館や鹿鳴館などがある。1876年、優れた建築家に贈られるソーン賞を受賞、翌1877年に日本政府と契約し来日。同年、工部大学校造家学科教授・工部省営繕局顧問に就任。1888年、2年間におよぶ帝国大学工科大学講師を辞任し、建築事務所を設立。1894年に勲三等瑞宝章、1914年には工学博士号を授与。1920年6月21日、麻布の自宅にて脳軟化症により死去。没年67歳。

1939年
【現役引退】「ルー・ゲーリッグ引退」

1925年から14年間にわたりニューヨーク・ヤンキースで活躍した伝説的な強打の一塁手、ルー・ゲーリッグが引退。連続試合出場2,130という記録の最中に体調の異変を感じ自ら欠場。筋萎縮性側索硬化症と診断され、そのまま引退を決意した。

1940年
【死去】エドゥアール・ヴュイヤール(Édouard Vuillard)【画家/フランス】

19世紀から20世紀にかけて活躍したフランスの画家。ポール・セリュジエを中心としたナビ派の一ひとり。室内情景といったモチーフを多く書き、代表作には『公園』(装飾パネル連作)などがある。1940年6月21日、老衰により死去。没年72歳。

1966年
【夭折】モーリーン・コノリー(Maureen Connolly)【テニス選手/アメリカ合衆国】

女子テニス界で史上初めて年間グランドスラムを達成した名選手。15歳でテニスを始めたコノリーは、たった2年で全米選手権優勝を果たし、翌年1552年からはウィンブルドンを3連覇(全米選手権も3連覇)。そして、1953年、わずか19歳の年に、女子テニス界で史上初となる年間グランドスラムを達成した。しかし、その翌年の全米選手権直前の1954年7月20日、乗馬中にコンクリートミキサー車にはねられ、複雑骨折。その事故により選手生命は終了した。やがて歩行できるところまで回復したコノリーは、テニスの指導も始めたが、1966年に卵巣ガンと診断され6月21日に死亡。39歳没。

1970年
【死去】スカルノ(Sukarno)【政治家/インドネシア】

オランダ植民地時代から独立するにあたり頭角を現わし、独立後は初代インドネシア大統領に就任。絶大な権力を得て独裁的な政治を行なったが、軍事クーデター「9月30日事件」で失脚。家族全員が亡命をする中、ジャカルタで死去。死因は腎不全、没年69歳。日本の高級クラブで働いていた根本七保子(後のデヴィ夫人/タレント)を第3夫人として迎え入れたことでも知られる。

1973年
【死去】加賀大介【作詞家】

1948年に朝日新聞が募集した全国高等学校野球選手権大会の大会歌である『栄冠は君に輝く』を作詞した人物。作詞に応募した当時、加賀大介はすでにプロとして文筆活動を行なっていたため、妻の名前を借りて応募。その後、1968年に加賀の公表により「加賀大介作詞」となった。1973年6月21日に死去。没年58歳。都市伝説として、松井秀喜は加賀の生まれ変わりではないかと言われている。その理由として、球児として活躍できなかった加賀の思いを考えると、松井が同郷であることや加賀の死から1年後に松井が誕生していることなどがあげられている。

1974年
【死去】小唄勝太郎【歌手】

昭和初期に活躍した元芸者の歌手。親戚の料亭を手伝っている際に身についた小唄が評判となり、15歳で内芸者へ。レコード黎明期であった当時、オデオンレコードで初めて吹き込みをし、その後、1931年に日本ビクターと契約し歌手デビュー。1932年に出したレコード『柳の雨』がA面の『銀座の柳』とともに大ヒットとなる。さらに、同年の大晦日に放送された『島の娘』が反響を呼び、1933年にレコード化、3カ月で35万枚を売り上げるに至った。その後も『東京音頭』『明日はお立ちか』などヒットを出し続け、死の直前まで活動を続けた。1974年6月21日、肺ガンのため死去。没年69歳。

1995年
【ハイジャック】【航空事故】「全日空857便ハイジャック事件」

羽田発函館行きの全日空857便(ボーイング747SR-100型機)が山形上空あたりを飛行中に、東洋信託銀行行員で、精神病で休職中の小林三郎によりハイジャックされた事件。小林はアイスピックのようなものを持ち、サリンを持っていると言って乗員乗客365人を人質に、数カ月前に逮捕された麻原彰晃容疑者の釈放を要求したが、翌日函館空港で待機中に警察が強行突入し、犯人を逮捕した。結果的に小林はオウム真理教信者ではなく、逮捕翌日に東洋信託銀行を解雇された。後の公判の刑事訴訟によち懲役8年、民事訴訟により全日空へ5,300万円の損害賠償が決定した。

1995年
【エンターテインメント事件】「エレクトリカルパレード終了」

1995年5月8日から行なわれていた東京ディズニーランドの名物、「エレクトリカルパレード」がこの日をもって終了。このあと、7月21日から「ディズニー・ファンティリュージョン!」に引き継がれ、さらに2001年6月1日からは「東京ディズニーランド・エレクトリカルパレード・ドリームライツ」として復活を果たした。

1995年
【死去】浜村純【俳優】

総映画出演数300本を超えるという日本映画史上に残る名俳優。中でも市村崑監督作品には多数出演し、22本という出演で、代表的な作品には『ビルマの竪琴』『野火』等が挙げられる。急性白血病で89歳没。

1997年
【死去】勝新太郎【俳優・監督】

"勝新"の名で知られる昭和を代表する名俳優。妻は女優の中村玉緒。長唄三味線の杵屋勝東治の次男として生まれ、長男である若山富三郎とともに、時代劇、殺陣の名手として君臨した。代表作は『座頭市』等多数。破天荒なエピソードには事欠かない人生で、マリファナ、コカインをパンツに入れて「勝手に入っていた」という逮捕劇も。下咽頭ガンを1996年に発病するも手術はせず、翌年亡くなるまで人前では平然と喫煙をするパフォーマンスをしてみせる天性のショーマンだった。没年65歳。

1999年
【急死】Kami【ミュージシャン】

ビジュアル系ロックバンド「MALICE MIZER」のドラマーとして知られるミュージシャン。くも膜下出血で急死した。

2000年
【殺人事件】【未成年犯罪】「岡山金属バット母親殺害事件」

岡山県立邑久高等学校に通う当時17歳の3年生生徒が、所属している野球部員4人に金属バットで殴りかかり逃走。そのまま帰宅直後に実母を金属バットで殴打し殺害した。動機は普段からの野球部でのイジメにあったとされ、「部員たちを殺すつもりであった」ことと、母親を殺したのは「殺人者としての自分を見てほしくなかったから」ということを供述した。なお、事件後、邑久高等学校はこの年の夏の高校野球岡山県大会への出場を辞退。

2001年
【死去】ジョン・リー・フッカー (John Lee Hooker)【ブルース・シンガー・ギタリスト/アメリカ合衆国】

"キング・オブ・ブギ"の名で知られるアメリカのブルース・シンガー。1948年にレコード・ディーラであるバーニー・ベスマンの誘いでレコーディングを行なった『Boogie Chillen』が大ヒット。その後、モダン・レーベル、ヴィージェイ・レーベルを経て、1965年にABCレコードへ移籍。1970年代からロック・ミュージシャンとの共演を開始し、ヴァン・モリソンとの共演盤『Never Get Out Of These Blues Alive』などを発表する。1980年に映画『ブルース・ブラザース』に出演。1989年、アルバム『The Healer』を発表し、同アルバムに収録された『I'm In The Mood』がグラミー賞最優秀トラディショナル・ブルース・レコーディング賞を獲得、1991年にロックの殿堂入りを果たした。2001年6月21日、老衰のため死去。没年83歳。

2008年
【海難事故】「プリンセス・オブ・ザ・スターズ沈没」

フィリピンの大型フェリー「プリンセス・オブ・ザ・スターズ」が台風により沈没。死者700人以上を出す大事故となった。ちなみに、「プリンセス・オブ・ザ・スターズ」は2004年に日本から購入したもので、1984年から「フェリーらいらっく」として新日本海フェリーが運行していた。

2008年
【死去】グレート草津【プロレスラー・ラグビー選手】

日本代表歴もある、ラグビー出身の大型プロレスラー。入団した日本プロレス経由で国際プロレスのエースとして目されたが、ルー・テーズとの試合中に失神し、2本目を辞退して負けた「草津バックドロップ失神事件」で失速。国際プロレス消滅後は引退し、営業職のサラリーマンとして過ごした。多臓器不全で66歳没。

2016年
【急死】鳩山邦夫【政治家】

祖父に鳩山一郎元総理大臣、実兄に鳩山由紀夫元総理大臣を持つ政治家であり、本人も文部大臣、労働大臣、法務大臣、総務大臣等の要職を歴任した。現役衆議院議員のまま十二指腸潰瘍で急死。67歳没。