『1983年の沖雅也』

1983年6月27日は俳優の沖雅也が京王プラザホテルの屋上から飛び降り自殺をした日である。
大ヒット刑事ドラマ『太陽にほえろ!』のスコッチ刑事役、そして主演の麻生雅人役を務めた探偵ドラマ『俺たちは天使だ!』で人気を博した俳優の沖であったが、私生活ではその前半生から暗い影が差しており、家庭の不和で中学時代の15歳で単身上京し、ゲイバーでアルバイトをしながら俳優への道を模索していたのであった。
その時に知り合った年の離れた日景忠男と同姓を開始し、私生活では養子縁組を結び、そして日景の創った芸能プロの所属俳優としてその繊細で都会的なルックスを武器に、華やかなキャリアを歩んでいったのだった。
しかし、商業的な成功を収めた後も、沖の精神は不安定であり続け、容姿の衰えを極端に恐れた菜食の生活を送り、酷い躁鬱状態に苛まれていたという。
1981年に自殺未遂を起こして以降は精神状態が悪化し入退院を繰り返し、31歳となったその月に、突然の最後が訪れた。
東京、新宿の京王プラザホテルに連泊し、その最上階から飛び降り自殺を決行するのだった。
原因は直前に出演したテレビドラマ版『蒲田行進曲』の演出、つかこうへいに演技を酷評されたためとも、事務所社長であり私生活もともにした恩人・日景との
関係(ゲイである日景との肉体関係)に思い悩んでいたためとも、様々な事情が憶測されているが、その真相は定かではない。
そして最後の捨て台詞で有名な遺書を、その場と自宅に二通残した。

「今……プラザホテル様へ 大変申し分けなくおゆるし下さいませ。つかこうへい様 あなたの名、つかを使いし僕をゆるせるものならおゆるし下さい。
人は病む。いつかは老いる。死を免れることはできない。若さも、健康も、生きていることも、どんな意味があるというのか。人間が生きていることは、結局何かを求めていることにほかならない。老いと病と死とを超えた、人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることが、正しいものを求めることと思うが、今の私は誤ったものの方を求めている者。おやじ 涅槃で まってる 沖雅也」

沖のはかない人生観と苦悩が余すところなく詰め込まれた良文といって差し支えないだろう。
自宅に置いたもう一通は、人生の大半ともに過ごしたおやじこと日景への感謝と謝罪が綴られている。
そして自らの希望通り、我々の中の沖雅也は、永遠に美しいままで生きている。
果たして、涅槃にいるはずのその魂は——

(画像は書籍「沖雅也 in 太陽にほえろ」1983年・日本テレビ出版刊)

6月28日の不幸

1836年
【死去】ジェームズ・マディソン(James Madison)【政治家・政治学者/アメリカ合衆国】

“アメリカ合衆国憲法の父”と称される19世紀アメリカの政治家および政治学者で、第4代アメリカ大統領(1809年~1817年)となった人物。弁護士を経て1776年にバージニア邦議会議員を務める。1780年、大陸会議のバージニア州代表となり1784年に再び同邦議会議員を務めることに。1783年に「独立戦争」が終わると新憲法制定を目指し、1787年のフィラデルフィア憲法制定会議いおいてアメリカ合衆国憲法の基礎となった革新的連邦制度を起草。翌1788年に政治家ジョン・ジェイらとともに論文『ザ・フェデラリスト』を執筆。1791年にトーマス・ジェファーソンらと共和党を結成。1793年に下院議員へ選出され、1801年に国務長官へ就任。1809年に大統領へ就任し1812年に「米英戦争」を主導。1817年に政界を引退し隠居生活に入り、1836年6月28日に鬱血性心不全で死去。没年85歳。

1914年
【死去】フランツ・フェルディナント大公(Franz Ferdinand Carl Ludwig Joseph Maria)【オーストリア皇太子/オーストリア=ハンガリー帝国】

第一次世界大戦開戦のきっかけとなった「サラエボ事件」で妻のゾフィーとともにセルビア人民族主義者らによって暗殺された人物。没年50歳。事件後、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に宣戦布告し、世界を巻き込んだ第一次世界大戦へと繋がった。ちなみに、大公がゾフィーと結婚したのが、死亡した日からちょうど14年前の1900年6月28日であった。

1918年
【死去】アルバート・マンセル(Albert Henry Munsell)【教育者・画家/アメリカ合衆国】

19世紀から20世紀にかけてのアメリカの美術教師および画家でマンセル表色系の発案者として知られる人物。マサチューセッツ芸術大学卒業後、同学校の教師として勤務する傍ら色彩理論についての著書『A Color Notation』(1905年)『Atlas of the Munsell Color System』(1915年)を出版。1917年にマンセルカラーカンパニーを設立。画家としても活動を行ないながら1918年6月28日に死去。没年60歳。死後の1921年『A Grammar of Color: Arrangements of Strathmore Papers in a Variety of Printed Color Combinations According to The Munsell Color System』が出版され、マンセル表色系は国際的に受け入れられることに。

1940年
【不審死】【戦死】【第二次世界大戦】 イタロ・バルボ(Italo Balbo)【軍人・探検家・政治家/イタリア】

20世紀イタリアの軍人、政治家で、探検家としても知られる人物。1910年に傭兵部隊に参加し「アルバニア紛争」へ従軍。1914年に「第一次世界大戦」が勃発するとイタリア王国軍に入隊し山岳兵として従軍。終戦後は法律を学び銀行員として勤務しながらイタリア共和党へ入党。1921年に離党しベニート・ムッソリーニらのファシスト党結成に参加し書記に就任。1922年、ムッソリーニがファシスト政権を樹立すると党幹部の役職に就任。1924年、国民経済省次官および民兵部隊である国防義勇軍総監に就任。1926年に空軍大臣へ就任、大西洋横断飛行を成功させハーモン・トロフィー受賞。1933年に北アフリカ軍総司令官、翌年リビア総督へ就任。1939年「ポーランド侵攻」が開始されるとナチスとムッソリーニを批判。その後「第二次世界大戦」が勃発するとリビア総軍司令官としてエジプトに遠征することに。1940年6月28日、搭乗した爆撃機サヴォイア・マルケッティSM.79がイタリア軍に撃墜され、死去。没年44歳。同士討ちによる事故として発表されたが、ムッソリーニの暗殺説が有力視されている。

1948年
【自然災害】「福井地震」

1948年6月28日、福井県坂井郡丸岡町付近を震源とするマグニチュード7.1の都市直下型地震が発生。福井県を中心に死者・行方不明者合わせて3,769人、負傷者およそ22,200人を出すこととなった。

1951年
【急死】 林芙美子【詩人・小説家】

昭和に活躍した詩人および小説家で、波瀾万丈な自伝的小説『放浪記』で知られる人物。1918年、文才を見込まれ尾道市立高等女学校へ進学。1921年、秋沼陽子の名で地方新聞に詩や短歌を投稿。1921年に上京、1923年に関東大震災が起こると四国へ避難。この頃から芙美子の名で執筆活動を行なう。翌年、再び上京し壺井繁治らといった詩人と出会い『二人』等の詩のパンフレットを刊行。1928年、女人芸術誌に自伝的小説『放浪記』が人気となり一躍流行作家へ。1935年に短編小説『牡蠣』を出版。1937年に「南京攻略戦」が起こると毎日新聞の特派員として参加、翌年「武漢作戦」に内閣情報部ペン部隊として参加。1942年、陸軍報道部報道班員としてシンガポールなどに滞在。1945年に帰国後は再び作家生活へ入り短編小説『晩菊』(1949年)『浮雲』(1951年)などを発表。1951年6月28日、連載記事の取材後、心臓麻痺で急死。没年47歳。

1969年
【暴動】「反戦フォークゲリラ」

1969年6月28日、東京都・新宿駅西口地下広場で行なわれていたベ平連主催の反戦フォーク集会が暴動化。その後、機動隊と衝突し64人が逮捕された。この事件以降同広場での集会は禁止され、名称も通路へ変更された。

1971年
【獄中死】フランツ・シュタングル(Franz Paul Stangl)【軍人/ドイツ】

ナチス・ドイツ親衛隊の大尉であり、ソビブル、トレブリンカという2つの絶滅収容所所長を務めた人物。ユダヤ人や障害者を問答無用に毒殺する「T-4安楽死プログラム」の責任者としても知られている。終戦後アメリカ軍の捕虜となったが脱走し、イタリア、シリアを経由してブラジルに潜伏。サイモン・ヴィーゼール・センターにより発見され、1967年2月28日にブラジル警察により逮捕。西ドイツ政府に引き渡され、90万人を虐殺した容疑で有罪判決を受け、無期懲役に。1971年6月28日、デュセルドルフ刑務所内にて心臓麻痺で63歳没。

1981年
【夭折】テリー・フォックス(Terrance Stanley “Terry” Fox)【ランナー・活動家/カナダ】

サイモンフレーザー大学在学時、バスケットボール部で活躍していた頃に骨肉腫が判明し右足を切断。以降、義足のマラソンランナーとして国民的人気を博した人物。ガン活動資金100万ドルを集めるために毎日フルマラソンと同じ距離を走る『希望のマラソン』を開始し、143日目で体調が悪化し中止。肺ガンのため22歳没。

1983年
【自殺】【夭折】沖雅也【俳優】

繊細な二枚目俳優としてドラマ『必殺仕置人』『太陽にほえろ!』『俺たちは天使だ!』等のヒット作で人気を博した俳優。だが商業的な成功を収めた後も、沖の精神は不安定であり続け、1981年に自殺未遂を起こして以降は精神状態が悪化し躁鬱に悩み入退院を繰り返した。31歳となったその月に東京、新宿の京王プラザホテルに連泊し、その最上階から飛び降り自殺。没年31歳。原因は直前に出演したテレビドラマ版『蒲田行進曲』の演出、つかこうへいに演技を酷評されたためとも、事務所社長であり私生活もともにした恩人・日景との関係(ゲイである日景との肉体関係)に思い悩んでいたためとも、様々な事情が憶測されているが、その真相は定かではない。残した遺書での捨て台詞。「おやじ 涅槃で まってる」とともに、若手スターの突然死は社会を騒がせた。

1992年
【死去】ミハイル・タリ(Mikhail Nekhemievich Tal)【チェスプレイヤー/ラトビア・ソビエト連邦】

1950年代から活躍したソビエト連邦のチェスプレイヤー。”チェスの魔術師””チェスの奇術師”の異名を取った、第10代公式世界チャンピオン。7歳から父親にチェスを教わり、1954年にインターナショナルマスターへ。1960年、当時世界最年少で世界チャンピオンとなった。その後、自戦記『Life and Games of Mikhail Tal』を出版し”史上最強のチェスライター”と呼ばれた。1992年6月28日、腎不全により死去。没年55歳。

1993年
【薬物中毒死】【死去】GGアリン(GG Allin)【歌手/アメリカ合衆国】

ステージでの排泄や自傷行為、そして観客席にそれらをまき散らす暴力的な過激なパフォーマンスで知られるパンク・ロッカー。怪我や事故のために公演中止が毎度のように続き、1988年に、翌年のハロウィンの日にステージ上で自殺するという声明を『マキシマム・ロックン・ロール』誌で発表したが、翌年からハロウィンは必ず刑務所に入っており、自殺をすることはなかった。1993年6月28日にマンハッタンの友人宅でヘロインのオーバードースにより死亡。没年36歳。葬式では死化粧もせず汚れたままのアリンがいつも通りのファッションで棺に寝かされ、アリンの音楽がかけられる中、友人たちが遺体と記念写真を繰り返すという生前のアリンのパフォーマンスを地でゆく荒唐無稽なものとなった。

1993年
【薬物過剰摂取】GGアリン(GG Allin)【パンク・ロック歌手/アメリカ合衆国】

ライブ中に排泄、自殺予告をするなど悪名高いライブパフォーマンスで有名なアメリカのパンクロック歌手。1970年後半から本格的にバンド活動を始め、バンド「The Jabbers」で1980年にアルバム『Always Was, Is, And Always Shall Be』を発表。しかし、アリンの素行の悪さから「The Jabbers」は活動停止、この頃から薬物を使用し始める。その後、様々なバンドのフロントマンを務めるも1980年代後半から薬物とアルコール中毒となり、ライブ中に排泄をするパフォーマンスを行なうように。1993年6月28日、ヘロインのオーバードースにより死去。没年36歳。

1997年
【傷害事件】【スポーツ事件】「耳噛み付き事件」

1997年6月28日、アメリカのネバダ州ラスベガスMGMグランドで行なわれたボクシングWBA世界ヘビー級タイトルマッチのマイク・タイソン対イベンダー・ホリフィールド戦の第3ラウンドにおいて、タイソンがホリフィールドの右耳を噛み切る事件が発生。試合は一度中断し再開されるも再びタイソンがホリフィールドの左耳に噛み付いたため反則負けとなった。その後もタイソンが暴れ続け、警察が介入。ボクシング界に止まらない社会的な事件に。

1997年
【連続殺人事件】【少年犯罪】「神戸連続児童殺傷事件」

1997年5月27日に発生した「神戸連続児童殺傷事件」の犯人・少年A(酒鬼薔薇聖斗)こと東慎一郎(当時14歳)が警察の捜査により逮捕された。

1999年
【死去】ヴェア・バード(Vere Cornwall Bird)【軍人・政治家/アンティグア・バーブーダ】

カリブ海東部の島アンティグア・バーブーダの政治家で初の首相(1981年~1994年)となった人物。救世軍の将校を経て、1939年にアンティグア貿易労働組合を結成。1946年に植民地議会に選出される。1960年に同国初の首相へ就任。その後、アンティグア自治領初代・第3代首相(1967年~1971年・1976年~1981年)へ就任。1981年、アンティグア自治領からイギリス連邦加盟国のアンティグア・バーブーダとして独立、同年に同国初の首相に就任。首相在任中の1999年6月28日に死去。没年88歳。

1999年
【死去】田中千代【教育者・デザイナー】

昭和に活躍した教育者および服飾デザイナー。外交官・松井慶四郎の長女として生まれ、1928年に夫で地理学者の田中薫に同行しロンドン、パリ、ニューヨークなどに滞在し語学と服飾デザインを学ぶ。1930年、日本人女性として始めて初代バウハウスメンバーのヨハネス・イッテンから美術を学ぶ。1931年に帰国、翌年鐘淵紡績の顧問へ就任。1933年、阪急百貨店婦人服部初代デザイナーとなりドレスを発表。1937年に田中千代洋裁研究所、1947年に田中千代デザインルーム開設。1948年に田中千代学園を開校し理事長および学園長へ就任。1952年に皇后の衣裳相談役となる。1957年に東京田中千代服装学園開校。1958年、皇太子明仁親王成婚の衣装を担当。1969年、婦人自衛官の制服のデザインを担当。その後も教育者、デザイナーとして活躍し1999年6月28日に死去。没年92歳。

2004年
【自殺】野沢尚【脚本家・小説家】

日本大学芸術学部映画学科を経て、1999年のテレビドラマ脚本『眠れる森』『結婚前夜』で第17回向田邦子賞を当時最年少で受賞した脚本家。北野武監督のデビュー作『その男、凶暴につき』の脚本を手がけたことでも知られる人物。小説『破線のマリス』で第43回江戸川乱歩賞を受賞した小説家としても知られている。2004年6月28日に事務所にて首吊り自殺。44歳没。友人に宛てた遺書には「夢はいっぱいあるけど、失礼します」と書かれていた。

2007年
【死去】小野ヤスシ【タレント・俳優・ミュージシャン】

「ザ・ドリフターズ」の初期メンバーとして知られるが、いかりや長介のやり方に馴染めず独立。ジャイアント吉田、飯塚文男、猪熊虎五郎、祝勝とともに「ドンキーカルテット」を結成し人気を博した。1970年に同バンドを解散して以降はタレント、司会者として長きにわたり活躍。代表的な出演にレポーターから司会までを務めた『スターどっきりマル秘報告』等。2010年1月には腎盂腫瘍と診断され右腎臓を全摘出。2010年3月の「芸能生活50周年記念パーティ」の席上でガンを公表し、以降は療養に努めたが、2012年6月28日、腎盂ガンで72歳没。最後の仕事は、2012年3月1日に行なわれた盟友・加藤茶の結婚披露パーティの司会だった。

2007年
【死去】宮澤喜一【官僚・政治家】

東大法学部政治学科卒業後、1942年に大蔵省に入省。津島壽一蔵相、は池田勇人蔵相秘書官を歴任し、1952年に政界入り。参議院議員、衆議院議員、経済企画庁長官、通商産業大臣、外務大臣、内閣官房長官、副総理、大蔵大臣、郵政大臣、農林水産大臣、財務大臣、自由民主党総務会長、自由民主党総裁などを歴任し、第78代内閣総理大臣を務めた人物。独学で学んだ英語力を活かした政界きっての国際派として知られたが、酔った上での失言というエピソードにも事欠かない人間臭い人物でもあった。老衰で87歳没。

2008年
【自殺】【夭折】ルスラナ・コルシュノワ(Ruslana Sergeyevna Korshunova)【ファッションモデル/カザフタン】

15歳でデビューし、すぐさまトップモデルの一人に登り詰めた人物。雑誌『ヴォーグ』等やマーク・ジェイコブス、DKNY等の有名ブランドの広告やショーに起用され活躍をみせたが、ニューヨークの自宅アパート9階の窓から転落死。遺族により不審であるとの訴えが上がったが、警察により自殺と断定された。没年20歳。インターネット上での書き込みに心を痛めていたことが原因ともいわれている。

2017年
【急死】森慎二【プロ野球選手・指導者】

山口県立岩国工業高等学校卒業後、新日鐵光、新日鐵君津を経て1996年にドラフト2位で西武ライオンズに入団。189センチメートルの長身から投げ下ろすストレートとフォークボールを武器に、主にリリーフ投手として活躍した右の速球派投手。2002年からは2年連続でリーグの最優秀中継ぎ投手に。2006年からはポスティングでMLBのタンパベイ・デビルレイズに2年契約で移籍したものの、初登板のオープン戦で投球時に右肩を脱臼。リハビリを続けたが翌年6月11日に解雇された。帰国後の2009年にBCリーグの石川ミリオンスターズで、選手兼任投手コーチとして契約。2010年に選手を引退し、同チームの監督に。指揮を執った5年間全てで北陸地区優勝、BCリーグ優勝3回(2010・2011・2013年)、独立リーグチャンピオンも2回(2011・2013年)という好成績を収めた。2015年より埼玉西武ライオンズの二軍投手コーチに就任し、2016年5月6日からは同球団の一軍投手コーチに転任。しかし2017年6月25日の福岡ソフトバンクホークス戦直前に体調不良で緊急入院。翌日休養が発表された。さらに翌日の28日、福岡市内の病院で死亡。没年42歳。溶連菌の感染を原因とした敗血症(壊死性筋膜炎)と発表された。同年の9月2日、石川ミリオンスターズは富山GRNサンダーバーズ戦を在籍当時に森が着けた背番号34にちなんで『ありがとう森慎二さん 3,400人の集い』というタイトルで開催。全選手が背番号34を着用しその死を偲んだ。試合終了後、石川球団代表により背番号34を同球団の永久欠番とすることが発表された。

2018年
【連載終了】「『ドカベン』連載終了」

2018年6月28日、『週刊少年チャンピオン』に掲載されていた人気野球漫画『ドカベン』が連載終了。1972年から46年続いた長期連載に幕を下ろすこととなった。単行本は203巻まで刊行。