『ジェーン・マンスフィールド主演映画「Promises! Promises!」の宣伝ポスター」

1967年6月29日は、1950年代にセックス・アイコンとして活躍した女優、ジェーン・マンスフィールドが、34歳で交通事故死した日である。
舞台女優から映画女優に進出し、金髪とグラマラスな体でセクシーな役どころで人気を博したマンスフィールドは、同時期に活躍したマリリン・モンローのように“金髪女は頭が弱い”というような偏見を表わす代名詞的存在であったが、高いIQと5カ国語を操る言語能力を持つ、極めて聡明な人物であったといわれ、そのイメージを払拭するような意欲的な作品にも数多く出演していた。
しかし、求められるのは“従来の金髪女的な”演技ばかりであり、女優としての人気絶頂期を過ぎた30代頃になると、彼女が望むような作品からのオファーはやってこなくなった。
そして人生の晩年(といっても30代前半であるが)に、そのイメージを決定づける作品への出演が決定する。
その作品、1963年公開の映画『Promises! Promises!』で、マンスフィールドはハリウッド製作で初めてフル・ヌードのシーンを演じ、オハイオ州で公開禁止となるなど議論を呼んだが、映画自体は爆発的な興行収益を上げる作品となったのだ。
果たして、そのポルノスターとしての大ヒットが彼女にとっての《幸》か《不幸》かはわからないが、その作品からたった4年後の1967年6月29日に、家族と恋人と同乗した車で大型トレーラーに激突。
後部座席の子供たちはその命を取り留めたが、前の座席に座るマンスフィールドとその恋人は即死した。

(画像はWikipedia Jayne Mansfieldより。Public Domain)

6月29日の不幸

1575年
【戦死】 内藤昌豊【戦国武将】

戦国時代の武将で武田四天王のひとりとして知られる人物。武田信玄の父・武田信虎の重臣であった工藤虎豊の息子として生まれ、その後信玄の側近として活躍。1561年に第4次「川中島の戦い」に参加。1566年に信濃国深志城(現・松本城)の城代、上野国衆の取次などに就任。1570年に箕輪城代に就任、武田家譜代の内藤家を継承し、内藤姓に改名。1573年に信玄が死去すると、信玄の息子・武田勝頼に仕える。1575年6月29日「長篠の戦い」で戦死。没年54歳。

1575年
【戦死】馬場信春【戦国武将】

戦国時代の武将で武田四天王のひとりとして知られる人物。武田信玄の父・武田信虎に仕え、1536年に「海ノ口城攻め」に参加。その後信玄に仕え「諏訪・伊那攻め」に参加。1546年に活躍が認められ甲斐武田氏譜代の名門・馬場氏を継承し侍大将に昇進。1559年に譜代家老衆となる。1561年に「川中島の戦い」に参加。翌年に馬場美濃守信春と改名。以降も「駿河攻め」(1568年)、「三増峠の戦い」(1569年)、「三方ヶ原の戦い」(1573年)などで活躍。1573年に信玄が死去すると、重臣筆頭として信玄の息子・武田勝頼に仕える。1575年6月29日「長篠の戦い」で戦死。没年61歳。

1575年
【戦死】山県昌景【戦国武将】

武田家の譜代家老・飯富虎昌の弟(甥の説もあり)として生まれ、武田信玄に仕える。1552年に「信濃攻め」の功績により侍大将となる。1565年に虎昌が謀反を起こし死去すると、虎昌の赤備え部隊を引き継ぎ、飯富源四郎から山県昌景へ改名。その後も「西上野侵攻」「駿河侵攻」などに参加し活躍、1569年に駿河江尻城代に就任。1572年に「三方ヶ原の戦い」に参加。翌年に信玄が死去すると、重臣筆頭として信玄の息子・武田勝頼に仕える。1575年6月29日「長篠の戦い」で戦死。推定没年齢60歳。

1575年
【合戦】「長篠の戦い」

1575年6月29日に織田信長・徳川家康連合軍(およそ3万8千人)と武田勝頼軍(およそ1万5千人)が三河国長篠城(現・愛知県新城市長篠)を巡り合戦を行ない、織田・徳川連合軍が勝利。

1697年
【交通事故死】【夭折】ジェーン・マンスフィールド(Jayne Mansfield)【女優・モデル/アメリカ合衆国】

舞台女優から映画女優に進出し、同時期に活躍したマリリン・モンロー同様、金髪とグラマラスな体で1950年代のセックスアイコンとなったひとり。『The Girl Can’t Help It(女はそれを我慢できない)』(1956年)等多くのヒット作に恵まれた意欲的な作品にも数多く出演していた。963年公開の映画『Promises! Promises!』でマンスフィールドはハリウッド製作で初めてフル・ヌードのシーンを演じ、オハイオ州で公開禁止となるなど議論を呼び、同時に『PLAYBOY』誌でヌードグラビアを掲載し社会的な話題となった。私生活ではケネディ兄弟を始め数多くの著名人と交際するなど、奔放な異性関係で知られ、3回の結婚で5人の子供を設けた。4年後の1967年6月29日に、家族と恋人と同乗した車で大型トレーラーに激突。後部座席の子供たちはその命を取り留めたが、前の座席に座るマンスフィールドとその恋人は即死した。没年34歳。

1725年
【死去】新井白石【武士・儒学者】

江戸時代中期の旗本および儒学者。上総久留里藩の士官の家に生まれ、1675年に儒学者・中江藤樹の『翁問答』を読んだことで儒学者を志す。1677年に藩主・土屋直樹に出仕しなかったことから土屋家を追われることに。その後、1683年に大老・堀田正俊に仕えるも藩財政が悪化し浪人生活を送りながら独学で儒学を学ぶ。1686年に儒学者・木下順庵に入門、1693年に甲府藩主・甲府徳川家への仕官となる。1710年に第6代将軍・徳川家宣の側近となり「正徳の治」と呼ばれる政治改革を行なう。家宣の死後は第7代将軍・徳川家継のもとで政権を運営するも1716年に家継が夭逝。同年に第8代将軍として徳川吉宗が就任し失脚。晩年は著作活動に励み、日本最初の組織的世界地理書『采覧異言』(1725年)などを著し1725年6月29日に死去。没年68歳。

1875年
【死去】フェルディナント1世(Ferdinand I.)【王族/オーストリア・神聖ローマ帝国】

19世紀オーストリア皇帝(1835年〜1848年12月2日)およびハンガリー国王(1830年〜1848年)となった人物。神聖ローマ帝国最後の皇帝フランツ2世およびオーストリア初代皇帝フランツ1世の息子として生まれ、1830年にハンガリー国王、クロアチア国王に即位。その後、1835年にオーストリア皇帝に即位し、翌年にボヘミア国王、1838年にロンバルド=ヴェネト国王となる。病弱であったため、フェルディナント1世を補佐する機関として秘密国家会議が設置される。1848年に「3月革命」が勃発すると宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒを罷免し同年に退位。退位後はプラハ城で過ごし、1875年6月29日に死去。没年82歳。

1895年
【死去】トマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley)【生物学者/イギリス】

“ダーウィンの番犬”の異名を持つ19世紀イギリスの生物学者。ロンドン大学で解剖学と生理学などを学び、1845年に毛包の内根鞘に新たな層(ハクスリー層)を発見・証明する論文を発表。1846年にイギリス海軍のHMSラトルスネーク号の外科医の職を得る。その後、Medusae、Hydroid、ウミシバ族といった海の無脊椎動物の研究に従事。1850年にイギリスに帰国、翌年に王立協会フェロー、1852年に王立協会評議会議員に選出される。1854年に海軍の職を辞し王立鉱山学校(現:インペリアル・カレッジ・ロンドン)の講師に就任。翌年に英国地質調査所の博物学者に就任。1860年にチャールズ・ダーウィンの『種の起源』(1859年)を支持し、1863年に『自然界における人間の位置についての証拠(Evidence as to Man’s Place in Nature)』を発表。晩年も生物学の研究を続けながら王立協会事務局長、王立協会総裁、枢密委員などを歴任。1895年6月29日に病で死去。没年70歳。

1903年
【夭折】滝廉太郎【作曲家】

明治時代に日本人オリジナルの作曲をいち早く手がけたクラシックの作曲家。代表曲『荒城の月』『お正月』『雪やこんこん』等で幅広い年齢層に親しまれた。ドイツのベルリンに留学したが、5カ月後に肺結核が発症し帰国。帰国後は父の故郷である大分で療養したが23歳で夭折した。結核の伝染を考慮し、死後多くの作品が焼却されたという。

1929年
【死去】内田魯庵【小説家・文芸評論家・翻訳家】

明治時代に活躍した小説家・文芸評論家および翻訳家。文部省編輯局翻訳係であった叔父の井上勤の下で編集など行ない、1888年に山田美妙の『夏木立』の批評を女性誌『女学雑誌』に掲載し作家デビュー。1889年に小説「藤野一本』の連載を開始。1894年に三文字屋金平の名で硯友社の遊戯文学を批判する『文学者となる法』を発表。1892年にドストエフスキーの『罪と罰』の前半部分の翻訳を行ない翻訳家デビュー。以後ヴォルテール、ハンス・クリスチャン・アンデルセン、オスカー・ワイルド、レフ・トルストイなどの翻訳を行なう。1894年に『文学者となる法』を三文字屋金平名義で発表。1902年に社会小説『社会百面相』を発表。1901年に丸善の書籍部門顧問に就任。翌年にロンドン・タイムズ社と共に百科事典『ブリタニカ』を刊行。以後、丸善のPR誌『学燈』の編集に携わりながら翻訳『馬鹿者イワン(イワンのばか)』(1906年)、回想録『思ひ出す人々』(1925年)など執筆。1929年に随筆『下谷広小路』執筆中に脳溢血で倒れ失語症を患い、同年6月29日に大腸カタルで死去。没年61歳。

1940年
【死去】パウル・クレー(Paul Klee)【画家・美術理論家/スイス・ドイツ】

20世紀スイスの画家および美術理論家。音楽一家に生まれ、11歳でベルンのオーケストラに所属するも関心のあった絵画の道へ進むことを決心し1898年にドイツ・ミュンヘンの美術学校へ入学。象徴主義の画家フランツ・フォン・シュトゥックの指導を受けるも1901年に退学。1906年にミュンヘン分離派展に銅版画を出品、1910年に個展を開催。1912年に画家フランツ・マルクの「青騎士」展に参加。1914年から抽象絵画を取り入れ1919年に『R荘』を発表。1920年に大回顧展を開催しエッセイ『創造的信条告白』を刊行。1921年から1931年までバウハウスで講義を行なう。1925年に「シュルレアリスム展」へ参加。バウハウス退職後は美術学校の教授に就任。1933年にナチス政権が樹立すると前衛芸術への弾圧が激化しスイスへ帰国。1935年に皮膚硬化症を発症。1937年から再び作品制作を意欲的に行ない、『Heroische Rosen』(1938年)『Tod und Feuer』(1940年)などを発表。 1940年6月29日に同病により死去。没年60歳。

1941年
【死去】イグナツィ・パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski)【ピアニスト・作曲家・政治家/ポーランド】

1980年末から1990年代前半にかけて、パリ、ロンドン、アメリカで絶大な成功を収めた天才ピアニストであり、演奏活動をしなくなった1900年以降は政治活動に身を投じ、第一次世界大戦後の新生ポーランド政府において、ポーランド第二共和制第3代首相兼外務大臣となった人物。1922年に政治活動を引退した演奏活動に戻ったが、1940年にポーランド国家評議会なるポーランド亡命政府の指導者として復帰。演奏活動でその活動資金を得ていたが、公演先のニューヨークで死亡した。80歳没。

1962年
【自然災害】「1962年北海道・十勝岳噴火」

1962年6月29日に北海道の十勝岳で水蒸気爆発が起こり、翌日にブルカノ式噴火が発生。この噴火により硫黄鉱山鉱員5人が死亡、気象庁技官を含む11人が負傷。

1967年
【死去】プリモ・カルネラ(Primo Carnera)【プロボクサー/イタリア】

205センチ120キロという巨体を活かし、1934年に世界ヘビー級王座を獲得したイタリア人ボクサー。2004年のニコライ・ワルーエフによる王座獲得まで、長きにわたり最重量の世界チャンピオンとして知られた。1941年からはプロレスラーに転身しNWAなどに参戦、ルー・テーズとしのぎを削るなどして米マットで活躍し、ヨーロッパ、日本にも転戦、力道山とも対戦をした。ハンフリー・ボガード主演の映画『殴られる男』の原作、バッド・シュールバーグの小説のモデルとなった人物としても知られている。糖尿病の合併症による肝臓病で死去。没年60歳。

1995年
【崩壊事故】「韓国ソウル・三豊百貨店崩壊」

1995年6月29日に大韓民国・ソウル特別市瑞草区の三豊百貨店が営業中に5階建ての建物の両端の一部を残し突如崩壊。この事故により502人が死亡、937人が負傷、6人が行方不明となった。事故原因は安全性を無視した設計変更や杜撰な建設工事によるものであった。

1999年
【自然災害】「6.29豪雨災害」

1999年6月29日に、北部九州から中部地方にかけて局地的な豪雨が発生。広島県を中心とした中国地方では36人が死亡。

2000年
【交通事故死】【夭逝】服部孝宏【陸上競技選手】

平成に活躍したマラソン選手。1989年カネボウに入社しカネボウ陸上競技部へ所属。1995年に別府大分毎日マラソンで選手デビュー。1997年に東京国際マラソンで2位入賞。1997年に世界陸上アテネ大会の男子マラソン日本代表へ選出される。1998年に東京国際マラソンへ参加、その後カネボウ陸上競技部を退部しマラソン競技から引退。2000年6月29日に交通事故で死去。没年28歳。

2002年
【戦闘】【海戦】【国際問題】「第2延坪海戦」

2002年6月29日に黄海延坪島付近で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)の艦隊による北方限界線を原因とした銃撃戦が発生。この銃撃戦により北朝鮮側13人が死亡、25人が負傷、韓国側6人が死亡、18人が負傷。

2003年
【死去】キャサリン・ヘプバーン【女優/アメリカ合衆国】

『Morning Glory(勝利の朝)』(1933年)、『Guess Who’s Coming to Dinner(招かれざる客)』(1967年)、『The Lion in Winter(冬のライオン)』(1968年)、そして『On Golden Pond(黄昏)』(1981年)で史上唯一の4度のアカデミー賞主演女優賞を獲得した20世紀のアメリカを代表する演技派女優。1962年の『Long Day’s Journey Into Night(夜への長い旅路)』では同年のカンヌ国際映画祭女優賞も獲得している。老衰のため93歳没。

2009年
【死去】エドワード・ヤン(楊德昌/Edward Yang)【映画監督/台湾】

上海で生まれ、台湾に移住。アメリカ留学から帰国後映画監督として活動し、『獨立時代(エドワード・ヤンの恋愛時代)』『麻將(カップルズ)』等の代表作で侯孝賢とともに台湾ニューシネマの旗手といわれた。2000年の『一一(ヤンヤン 夏の想い出)』でカンヌ国際映画祭監督賞を受賞。そのあたりからガンを発症し、療養を続けたが2007年6月29日、アメリカ・ビバリーヒルズの自宅にて結腸ガンの合併症で死亡没年59歳。

2012年
【死去】地井武男【俳優】『北の国から』『太陽にほえろ!』『時間ですよ』等、数多くのテレビドラマで活躍した名脇役。晩年はその趣味を活かし『ちい散歩』なる内容は”ただ散歩するだけ”というテレビ的に画期的な看板組を得て、お茶の間の人気者となった。2012年1月に心臓疾患で入院後は休養、その約半年後に死不全で死亡した。没年70歳。