『ヘミングウェイ家の家族写真』(1905年撮影右端が6歳時のアーネスト少年)

1961年7月2日は、ノーベル文学賞を受賞した小説家であるアーネスト・ヘミングウェイがショットガン自殺を遂げた日である。
一説には死の直前に二度も飛行機事故に遭ったことで、生気をなくしていたともいわれているが、その真相は明らかではない。
当サイトの前日の記事で孫のマーゴ・ヘミングウェイが7月1日に自殺したと紹介したが、ヘミングウェイ家の自殺の話はそれに止まるものではない。
実は彼の父、クラレンス(写真左から3人目)も、そのまた父親が南北戦争で使った銃で自殺している。
アーネストの左に写る妹のウルスラ、さらにこの後に生まれてくる弟のレスターも自殺を遂げることとなる。
クラレンスは、鉄分を過剰に蓄えてしまう細胞障害“ヘモクロマトーシス”なる遺伝性の病気を持っていたといわれ、それがアーネストの持病であったことも知られているが、このことが一家全員の自殺の原因であったかはわからない。
“呪われている”というにはあまりに栄光に包まれたヘミングウェイ一家ではあるが、自殺に見そめられていた血統であることだけは確かである。

(画像はWikipedia Ernest Hemingwayより。Public Domain)

7月2日の不幸

1298年
【戦死】アドルフ・フォン・ナッサウ(Adolf von Nassau)【貴族・神聖ローマ皇帝/ローマ】

13世紀ローマでナッサウ家唯一神聖ローマ皇帝(1292年〜1298年)となった人物。1291年にハプスブルク家のアルブレヒト1世と王位を争い勝利し、翌年神聖ローマ皇帝に即位。即位後、領土拡大を目指すもドイツ諸侯の反発を招き、1298年に選帝侯らにより廃位される。同年7月2日、アルブレヒト1世と「ゲルハイムの戦い」で敗れ死去。没年43歳。

1566年
【死去】ノストラダムス(Michel Nostradamus)【占星術師・医師・詩人/フランス】

16世紀フランスの占星術師・医師・詩人。著書『Prophéties de M. Michel Nostradamus(ノストラダムスの大予言)』で世界的に知られている人物。15歳でアヴィニヨン大学に入学するが同大学のペストの流行によりモンペリエ大学へ入学。医学を学んだ後、1550年頃から占星術師として活動を開始。1555年に『Prophéties de M. Michel Nostradamus(ノストラダムスの大予言)』を出版。メディチ家といった有権者の支持を得て、1564年にフランス国王シャルル9世から常任侍医兼顧問に任命される。1566年7月2日、長年に渡り苦しんでいた痛風とその合併症のより死去。没年62歳。

1580年
【死去】 山名祐豊【戦国武将】

戦国時代の武将であり現在の兵庫県北部、但馬国の大名であった人物。1528年に家督を継ぎ、韶熙(つぐひろ)から
祐豊(すけとよ)に改名。1542年に生野銀山が発見されたことにより銀山を経営し生野城を改修。山名氏の本拠地・但馬守護所のあった此隅山城を拡大するも、1569年に木下秀吉(豊臣秀吉)の侵攻を受け落城。和泉国堺(現・大阪府南部)まで下るが、堺の豪商であった今井宗久の仲介により、以後、織田信長の加勢することとなる。但馬国の有子山城に復帰後、信長の支援を受け、毛利家と抗争していたが、1579年に重臣であった太田垣輝延が毛利家の吉川元春と突如和睦、このことにより信長と対立。1580年、武将となった羽柴秀吉(豊臣秀吉)の侵攻を受け降伏、有子山城開城へ。同1580年7月2日、老衰により死去。没年70歳。

1582年
【死去】明智光秀【戦国武将】

戦国時代から安土桃山時代の武将・大名。「本能寺の変」で知られる人物。1535年、8歳で家督を相続、1556年に美濃国(現・岐阜県南部)の斎藤義龍から明智城が侵攻を受け、一家は離散、光秀は浪人へ。その後、越前国・朝倉義景に仕えるが、1565年に起きた「永禄の変」により朝倉義景から離れ、1968年から織田信長に仕える。以後、織田信長の家臣となり、1572年に近江国志賀郡(現・滋賀県)に5万石を与えられ坂本城城主に。1582年、毛利との対決のため信長から中国地方への出馬命令を受けるも「本能寺の変」を起こし信長を自害に追い込む。その後、中国地方から引き返してきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対決し敗戦、1582年7月2日に死去。落人狩り、または、自害したとされるも真相は不明。没年55歳。

1743年
【死去】スペンサー・コンプトン(Spencer Compton・1st Earl of Wilmington)【貴族・政治家/イギリス】

18世紀イギリスの貴族および政治家でイギリス首相(1742年〜1743年)および初代ウィルミントン伯となった人物。第3代ノーサンプトン伯爵ジェイムズ・コンプトン伯爵の3男として生まれ、1698年にホイッグ党所属庶民院議員に選出される。1715年に庶民院議長、1716年に枢密顧問官へ就任。1722年に陸軍支払長官に就任。1728年に貴族院議員となり、初代ウィルミントン伯爵に叙せられる。1730年に王璽尚書(おうじしょうしょ)に就任、同年に枢密院議長へ就任。1733年にガーター勲章授賞。1742年にイギリス首相となるも在職中の1743年7月2日、病により死去。没年70歳。

1778年
【急死】ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)【哲学者・思想家/フランス】

18世紀フランスで活躍した哲学者および思想家。1722年、時計職人であった父イザーク・ルソーが貴族との喧嘩がもとで逃亡、10歳で孤児同然に。その後、書記見習い、徒弟奉公などを経て1728年に放浪生活へ。同年、カトリック司祭に保護され、フランソワーズ=ルイーズ・ド・ラ・トゥール・ド・ヴァランス男爵夫人のもとへ。以後、職を転々とした後ヴァランス男爵夫人のもとへ戻るも再び放浪生活に。1731年に夫人と再会、愛人生活を送り教育を受ける。1737年に夫人の元を離れ、家庭教師、秘書、作曲家を経て1750年に執筆活動を開始し論文『学問芸術論』がディジョン科学アカデミーに入選。1753年『人間不平等起源論』を発表。1762年に教育論『エミール、または教育について』、政治哲学書『社会契約論』を発表。同年『エミール〜』が物議を醸し、ルソーに逮捕状が出されたためにドイツ、フランスを転々とした後、1766年にイギリスへ渡る。1782年に回想録『告白』を執筆。晩年は精神疾患に悩まされ、1778年7月2日に脳卒中で急死。没年66歳。

1850年
【事故死】ロバート・ピール(Sir Robert Peel・2nd Baronet)【政治家/イギリス】

19世紀イギリスの政治家でイギリス首相(1834年〜1835年・1841年〜1846年)となった人物。准男爵の家に生まれ、1809年にトーリー党庶民院議員に選出される。1812年にアイルランド担当大臣、1821年に内務大臣に就任。1828年に内務大臣兼庶民院院内総務となり入閣、ロンドン警視庁を創設。1830年に准男爵位を継承。1834年に首相へ就任しマニフェストの先駆けとなる書簡『タムワース・マニフェスト』を発表。1839年「寝室女官事件」が発生、ヴィクトリア女王との確執により政権交代が阻止されるも1841年に再び首相に就任。就任後はピール銀行条例、穀物法廃止法案などを制定。1846年に辞職し以後、保守党党首としてピール派を率い1850年7月2日、乗馬事故で負った傷により死去。没年62歳。

1881年
【暗殺事件】「ガーフィールド大統領暗殺事件」

1881年7月2日、アメリカのワシントンD.C.で聖職者で政治活動家であったチャールズ・J・ギトーがジェームス・ガーフィールド大統領を銃撃し重傷を負わせた事件。ギトーはガーフィールドの大統領就任は自分の功績と信じておりガーフィールドをストーキングしていたが、国務長官ジェイムズ・G・ブレインから二度と来ないよう直接言われたため、ガーフィールドの暗殺を決行。銃撃後ガーフィールドは同年9月19日に死亡した。その後、ギトーは1882年に殺人罪での有罪が確定、同年6月に刑が執行された。

1915年
【死去】ポルフィリオ・ディアス(José de la Cruz Porfirio Díaz Mori)【軍人・政治家/メキシコ】

19世紀メキシコの軍人および政治家でメキシコ大統領(1876年・1877年〜1880年・1884年〜1911年)を長期務めたことで知られる人物。1846年「米墨戦争」が起こり軍入隊。1855年にナヤリット州イストラン町長に就任。1861年「メキシコ出兵」に陸軍士官として従軍、翌年「プエブラの戦い」で騎兵隊を指揮する。1863年、メキシコシティがフランス軍に占領されるも抵抗活動を続け、オアハカを占領。1867年に大統領選挙へ出馬するも敗北し軍を退役。その後も大統領を目指すも敗北し1871年に武装反乱を起こし逮捕される。1872年に釈放されアメリカへ亡命。1876年に三度目の大統領選挙へ出馬するも敗北、再び武装蜂起し成功したため、1876年に自ら大統領へ就任。1887年に無期限の大統領再選を可能とするよう憲法を改正。以後、独裁政権を続けるも1910年に「メキシコ革命」が勃発。1911年に大統領を辞任しフランスへ亡命。1915年7月2日、亡命先のフランスで死去。没年84歳。

1924年
【死去】松方正義【武士・政治家】

江戸時代から明治時代にかけての武士および政治家で第4代・第6代内閣総理大臣(1891年〜1892年・1896年〜1898年)および大蔵大臣を長期間務め、日本銀行を設立したことで知られる人物。1850年に御勘定所出物問合方へ出仕し大番頭座書役となる。その後、島津久光の側近となり藩政立案組織の一員へ。1866年に軍務局海軍方が設置され、1867年に軍賦役兼勤に就任。「明治維新」後は日田県知事に就任し太政官札の偽札流通を発見、この功績により民部大丞租税権領に就任し大蔵省官僚へ。1877年に財政方針を巡り大隈重信と対立したことで内務卿へ転出することに。1877年にヨーロッパへ渡り、翌年の「パリ万国博覧会」で日本の総裁を務める。帰国後、1881年に日本銀行を創設。1885年に初代大蔵大臣へ就任、1988年に大蔵大臣および内務大臣を兼任。1891年に内閣総理大臣兼大蔵大臣に就任するも翌年辞任。以後、内務大臣、大蔵大臣を務め1896年に再び内閣総理大臣に就任。1902年に日本赤十字社社長に就任、翌年に枢密顧問官へ就任。1917年に内大臣に就任。晩年も政治家として活動を続け、1924年7月2日に呼吸不全により死去。没年90歳。

1931年
【社会事件】【軍事事件】「万宝山事件」

1931年7月2日、日本政府が「間島共産党暴動」で追われた朝鮮人200人を中国・長春北西の万宝山へ入植させ水路のための工事を開始。このことに現地の中国人農民が反発し、日本の警察と中国人農民が衝突。事件は中国の警察の介入により収まり負傷者のみであったが、その後朝鮮半島ではこの事件により多数の朝鮮人が亡くなったと報じたため、中国人排斥運動が起こることとなった。

1932年
【急死】マヌエル2世(Manuel II)【王族/ポルトガル王国】

20世紀ポルトガル王国最後の国王(1908年〜1910年)として知られる人物。国王カルロス1世の息子として生まれ、1908年に父・兄が暗殺されたことにより国王に即位。1910年に「1910年10月5日革命」が起こり王政が廃止され共和政が樹立したため、イギリスへ亡命。亡命後は『Livros Antigos Portuguezes』といったポルトガル文学についての本を執筆。1932年7月2日、気管浮腫により急死。没年43歳。

1934年
【処刑】エルンスト・レーム(Ernst Julius Günther Röhm)【軍人・政治家/ドイツ】

20世紀ドイツの軍人および政治家でナチス突撃隊(SA)創始者として知られる人物。1906年にバイエルン王国陸軍に入隊。1908年に士官学校へ入り少尉となる。「第一次世界大戦」中は「西部戦線」などに従軍し陸軍大尉に昇進。終戦後はミュンヘン総司令部の政治保安部参謀長を務める。1919年に「赤色革命」が起こり義勇軍として参加。同年に政治団体「鉄拳団」を設立したことでアドルフ・ヒトラーと出会う。1920年に右翼政党ドイツ労働者党(DAP)に入党。翌年に義勇軍などを集めた「国旗防衛団」「ニーダーバイエルン闘争団」を設立。1923年、ナチス党の準軍事組織突撃隊を率いてヒトラーらと一揆を起こすも鎮圧され逮捕される。翌年に釈放されヒトラーから突撃隊の総指揮に委任される。同年、国会議員選挙に当選、突撃隊幹部を招集し準軍事組織「フロントバン」を結成。1925年、ヒトラーが突撃隊の独立を認めなかったため、突撃隊司令官を辞職、政界からも引退することに。1929年にボリビア陸軍の軍事顧問、歩兵連隊監査官へ就任。1930年、ヒトラーと突撃隊との対立が深まり、ヒトラーの打診によりドイツへ帰国、ナチ党に再入党し突撃隊幕僚長へ就任。1932年、ハインリヒ・ブリューニング首相およびパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領から突撃隊および親衛隊(SS)の活動禁止命令が出されるも内閣を総辞職へ追い込み禁止令を解除。1933年にナチ党政権が樹立すると突撃隊最高指導部特別委員を設置。同年、ヒトラーが突撃隊への警察権限を認めなかったため突撃隊による暴動が発生、突撃隊最高指導部特別委員制度を廃止しドイツの各州に突撃隊特別全権官などを設置。突撃隊と正規軍との確執が深まる中、1934年に逮捕されダッハウ強制収容所へ収容され後同年7月2日に銃殺された。没年46歳。

1937年
【航空事故】アメリア・イアハート(Amelia Mary Earhart)【飛行士/アメリカ合衆国】

1937年7月2日、大西洋単独横断飛行を成し遂げたアメリカの女性飛行士アメリア・イアハートが赤道世界一周飛行の途中のパプアニューギニアを出発後、ナビゲーターのフレッド・ヌーナンとともに太平洋上空で消息を絶った事件。事件後アメリカは大規模な捜索活動を実施するも発見されることはなかった。その後、航空機の捜索などを行なっている研究グループ「タイガー」により2007年に再び捜索が行なわれ、1940年にニクマロロ島で発見されその後紛失したとされる人骨がアメリア・イアハートのものであると結論づけた。

1950年
【放火事件】「金閣寺放火事件」

1950年7月2日、京都府京都市上京区金閣寺町にある鹿苑寺(通称・金閣寺)が同寺の見習い僧侶で大谷大学学生の林承賢(本名・林養賢)により放火された事件。この事件により国宝の舎利殿が全焼、足利義満の木像など6点が焼失した。事件後、林は左大文字山山中でカルモチンを飲み切腹し倒れていることろを発見され放火の容疑で逮捕。一命をとりとめた林は事件について「世間を騒がせたかった」「社会への復讐のため」などと語っておりアプレゲール犯罪のひとつとされた。林は服役中に結核と統合失調症が進行し1956年3月7日に獄中で死去。その後、三島由紀夫や水上勉によりこの事件を題材にした小説が書かれている。

1961年
【自殺】アーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway)【作家/アメリカ合衆国】

『誰がために鐘は鳴る』『武器よさらば』等の代表作で知られるアメリカを代表する小説家。1952年の小説『老人と海』が世界的な評価を獲得し、1954年にノーベル文学賞を受賞した。1961年7月2日にショットガン自殺。没年61歳。一説には死の直前に二度も飛行機事故に遭ったことで生気をなくしていたともいわれ、細胞障害”ヘモクロマトーシス”なる遺伝性の持病を持っていたことも知られているがているが、その真相は明らかではない。

1969年
【死去】成瀬巳喜男【映画監督】

昭和に活躍した映画監督で大衆作品から文芸作品といった幅広いジャンルの作品を発表したことで知られる人物。1920年に松竹蒲田撮影所へ入社、池田義信の助監督などを経て1930年に『チャンバラ夫婦』で監督デビュー。1931年の『腰弁頑張れ』、1932年の『蝕める春』で若手監督として注目を集める。1934年にピー・シー・エル映画製作所へ移籍、1935年に初のトーキー映画『乙女ごころ三人姉妹』を発表。同年発表した『妻よ薔薇のやうに』は『Kimiko』という英題でアメリカで上映された初の日本映画となる。1937年に黒澤明が助監督を務めた『雪崩』を発表。1946年に「東宝争議」が起こると東宝を離れ黒澤らと映画芸術協会を設立。その後、代表作となる『めし』(1951年)『浮雲』(1955年)などを発表。晩年も活動を続け、1969年7月2日に直腸ガンにより死去。没年63歳。

1977年
【死去】ウラジーミル・ナボコフ(Vladimir Vladimirovich Nabokov)【作家/ロシア】

少女偏愛を描いた問題作『ロリータ』で世界的成功を収めたロシア出身の小説家。ロシアを亡命し、ヨーロッパ、アメリカで活動していたことでも知られ、昆虫学者、チェス・プロブレム作家としても著名である。気管支炎で78歳没。

1989年
【死去】フランクリン・J・シャフナー(Franklin James Schaffner)【映画監督/アメリカ合衆国】

映画『猿の惑星』のシリーズ第一作(1968年)、第二作(1970年)などの大作を手がけ、1970年の映画『パットン大戦車軍団』でアカデミー作品賞、監督賞など7部門を受賞したアメリカを代表する映画監督。宣教師を父親に持ったため東京生まれであり、16歳までを日本で過ごした人物としても知られている。肺ガンで69歳没。

1990年
【事故】「1990年メッカトンネル事故」

1990年7月2日、サウジアラビア・マッカ州のメッカ付近の歩行者用トンネル内で巡礼者が将棋倒しになり1,426人が死亡。

1994年
【暗殺】アンドレス・エスコバル(Andrés Escobar Saldarriaga)【サッカー選手/コロンビア】

コロンビアのクラブチームアトレティコ・ナシオナルの主要選手としてとして1989年のコパ・リベルタドーレス優勝に貢献し翌年のトヨタカップにも出場。コロンビアを代表するディフェンダーとして同国代表選手としても活躍した人物。自身2度目のワールドカップ出場となった1994年のアメリカワールドカップに優勝候補として参加したコロンビアであったが、1勝2敗の成績で予選敗退。6月22日に行なわれた第2戦のアメリカ代表戦の前半35分にオウンゴールを自国ゴールに叩き込み、敗戦の原因となった。大会終了後に代表チームメンバーは報復を恐れ帰国を回避したが、キャプテンの一人でもあったエスコバルは説明責任を果たすために帰国。1994年7月2日にメデジン郊外のバーから出てきたところをウンベルト・ムニョス・カストロにより射殺された。没年27歳。その場に居合わせた友人らの証言では、その瞬間、カストロは「Gracias por el auto gol(自殺点をありがとうよ)」と言いながら、12発もの弾丸を連続で発射したといわれている。一説によると違法ギャンブルの恨みを買ったための殺人であったとも言われている。その死後4年間、コロンビア代表チームではエスコバルが付けていた背番号2を欠番にした。また、2006年7月2日にドイツで開催された初のFIFA公認ストリートサッカー大会「street football world festival 2006」は「アンドレス・エスコバル杯 (Copa Andrés Escobar)」 と名付けられた。

1998年
【強盗殺人】「富士銀行行員顧客殺人事件」

1998年7月2日、埼玉県南埼玉郡宮代町でマッサージ店を経営していた福田次郎(当時74歳)と福田ツ子(当時67歳)夫妻が、富士銀行春日部支店に務めていた銀行員・岡藤輝光(当時32歳)に殺害された事件。福田夫妻は岡藤の顧客で定期預金5千万円を運用のために預けたが、岡藤は別の運用業者に融資する不正行為を行ない負債を負ったため、事件発覚を恐れた岡藤は夫婦を殺害。同月4日に遺体が発見され、その後岡藤が犯行を自供したため逮捕された。起訴後、岡藤は無期懲役となっている。

1999年
【死去】マリオ・プーゾ(Mario Puzo)【小説家・脚本家/アメリカ合衆国】

イタリア・ナポリ移民の子としてニューヨークに生まれ、1969年の小説『ゴッドファーザー』が大ヒットした小説家。1972年にフランシス・フォード・コッポラにより映画化されたシリーズでは、自ら脚本も手がけた。ニューヨークの自宅にて心臓疾患で死亡。没年78歳。

2000年
【死去】青江三奈【歌手】

高校生の頃から東京・銀座のシャンソン喫茶・銀巴里で歌い始め、高校卒業後、の1966年に『恍惚のブルース』でメジャーデビュー、いきなり80万枚を売り上げる人気歌手となる。1968年には代表曲となる『伊勢佐木町ブルース』が100万枚のセールス、続く『長崎ブルース』が120万枚のセールスを記録し、『伊勢佐木町ブルース』で同年の第10回日本レコード大賞・歌唱賞と第1回日本有線大賞スター賞を受賞。国民的人気歌手として晩年まで活動を続けたが、1998年に膵臓ガンと診断され、翌年1月23日に渋谷公会堂で行なわれたコンサートを最後に、病気療養に専念。翌月2月5日に手術を行ない、4月24日に退院。しかし2000年2月に再入院し、同年7月2日に死亡。没年59歳。葬儀、告別式での弔辞は水前寺清子が担当した。

2008年
【誘拐事件】「イングリッド・ベタンクール救出」

2002年2月23日にゲリラ軍が常駐しているコロンビアのサン・ビセンテ・デル・カグアンへ大統領アンドレス・パストラーナが制圧に向かったことを機にフランス国籍の女性政治家イングリッド・ベタンクールも同町へ出発。その後、マネージャーのクララ・ロハスとともにコロンビア革命軍(FARC)に拘束・誘拐されたが、2008年7月2日にコロンビア国軍により救出された。

2013年
【死去】ダグラス・エンゲルバート(Douglas Carl Engelbart)【発明家/アメリカ合衆国】

 SRIインターナショナル(当時のスタンフォード研究所)内にARC( Augmentation Research Center)を創設し、そこでの研究で1970年に、コンピューター用のマウスの特許を取得した発明家。パソコンにとってマウスが必須である前にその特許は失効したために、その発見に見合った経済的成功を収めることはできなかった。腎不全で88歳没。

2015年
【死去】大竹省二【写真家】

人物ポートレイトの大家として戦後昭和期に活躍した写真家。1949年に秋山庄太郎、稲村隆正らと「日本青年写真家協会」を設立するなど、業界内を牽引する人物としても知られた。1992年に「日本写真協会功労賞」を受賞。2015年7月2日に、心原性脳塞栓症で死亡。没年95歳。

2016年
 【死去】エリ・ヴィーゼル(Eliezer “Elie” Wiesel)【作家/ハンガリー・アメリカ合衆国】

1944年にナチスドイツの占領下で強制収容所へ送られたホロコーストの経験を終戦後に体験小説『夜』として発表し、1986年にノーベル平和賞を受賞した人物。1963年からアメリカに移住し、ボストン大学教授等を歴任した。マンハッタンの自宅で朝に死亡。没年87歳。

2018年
【死去】桂歌丸【落語家】

昭和から平成にかけて活躍した落語家で演芸番組『笑点』の大喜利メンバーおよび5代目司会者として知られる人物。5代目春風亭柳昇の落語を聴き落語家になることを決意、1951年に5代目古今亭今輔に入門。その後、破門状態となりポーラ化粧品本舗のセールスマンを経て、兄弟子・4代目桂米丸の弟子となり古今亭今児から桂米坊に改名。1964年に桂歌丸に再改名し、翌年『金曜夜席』の第一回から大喜利メンバーとして出演。1966年からは『笑点』大喜利メンバーとして出演。1969年に同番組の司会であった立川談志らとの対立により降板するも同年司会が前田武彦となり復帰。以後、同番組に出演し続け2006年から2016年まで5代目司会者を務め同番組を引退、番組初の終身名誉司会へ就任。同年、文部科学大臣表彰授賞し高座へ復帰。晩年は落語芸術協会5代目会長を務めながら入院と復帰を繰り返し、2018年に国立演芸場での高座を最後に同年7月2日、慢性閉塞性肺疾患のため死去。没年81歳。