『ヘミングウェイ家の家族写真』(1905年撮影右端が6歳時のアーネスト少年)

1961年7月2日は、ノーベル文学賞を受賞した小説家であるアーネスト・ヘミングウェイがショットガン自殺を遂げた日である。
一説には死の直前に二度も飛行機事故に遭ったことで、生気をなくしていたともいわれているが、その真相は明らかではない。
当サイトの前日の記事で孫のマーゴ・ヘミングウェイが7月1日に自殺したと紹介したが、ヘミングウェイ家の自殺の話はそれに止まるものではない。
実は彼の父、クラレンス(写真左から3人目)も、そのまた父親が南北戦争で使った銃で自殺している。
アーネストの左に写る妹のウルスラ、さらにこの後に生まれてくる弟のレスターも自殺を遂げることとなる。
クラレンスは、鉄分を過剰に蓄えてしまう細胞障害“ヘモクロマトーシス”なる遺伝性の病気を持っていたといわれ、それがアーネストの持病であったことも知られているが、このことが一家全員の自殺の原因であったかはわからない。
“呪われている”というにはあまりに栄光に包まれたヘミングウェイ一家ではあるが、自殺に見そめられていた血統であることだけは確かである。

(画像はWikipedia Ernest Hemingwayより。Public Domain)

7月2日の不幸

1566年
【死去】ノストラダムス(Michel Nostradamus)【占星術師・医師・詩人/フランス】

16世紀フランスの占星術師・医師・詩人。著書『Prophéties de M. Michel Nostradamus(ノストラダムスの大予言)』で世界的に知られている人物。15歳でアヴィニヨン大学に入学するが同大学のペストの流行によりモンペリエ大学へ入学。医学を学んだ後、1550年頃から占星術師として活動を開始。1555年に『Prophéties de M. Michel Nostradamus(ノストラダムスの大予言)』を出版。メディチ家といった有権者の支持を得て、1564年にフランス国王シャルル9世から常任侍医兼顧問に任命される。1566年7月2日、長年に渡り苦しんでいた痛風とその合併症のより死去。没年62歳。

1580年
【死去】 山名祐豊【戦国武将】

戦国時代の武将であり現在の兵庫県北部、但馬国の大名であった人物。1528年に家督を継ぎ、韶熙(つぐひろ)から
祐豊(すけとよ)に改名。1542年に生野銀山が発見されたことにより銀山を経営し生野城を改修。山名氏の本拠地・但馬守護所のあった此隅山城を拡大するも、1569年に木下秀吉(豊臣秀吉)の侵攻を受け落城。和泉国堺(現・大阪府南部)まで下るが、堺の豪商であった今井宗久の仲介により、以後、織田信長の加勢することとなる。但馬国の有子山城に復帰後、信長の支援を受け、毛利家と抗争していたが、1579年に重臣であった太田垣輝延が毛利家の吉川元春と突如和睦、このことにより信長と対立。1580年、武将となった羽柴秀吉(豊臣秀吉)の侵攻を受け降伏、有子山城開城へ。同1580年7月2日、老衰により死去。没年70歳。

1582年
【死去】明智光秀【戦国武将】

戦国時代から安土桃山時代の武将・大名。「本能寺の変」で知られる人物。1535年、8歳で家督を相続、1556年に美濃国(現・岐阜県南部)の斎藤義龍から明智城が侵攻を受け、一家は離散、光秀は浪人へ。その後、越前国・朝倉義景に仕えるが、1565年に起きた「永禄の変」により朝倉義景から離れ、1968年から織田信長に仕える。以後、織田信長の家臣となり、1572年に近江国志賀郡(現・滋賀県)に5万石を与えられ坂本城城主に。1582年、毛利との対決のため信長から中国地方への出馬命令を受けるも「本能寺の変」を起こし信長を自害に追い込む。その後、中国地方から引き返してきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対決し敗戦、1582年7月2日に死去。落人狩り、または、自害したとされるも真相は不明。没年55歳。

1961年
【自殺】アーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway)【作家/アメリカ合衆国】

『誰がために鐘は鳴る』『武器よさらば』等の代表作で知られるアメリカを代表する小説家。1952年の小説『老人と海』が世界的な評価を獲得し、1954年にノーベル文学賞を受賞した。1961年7月2日にショットガン自殺。没年61歳。一説には死の直前に二度も飛行機事故に遭ったことで生気をなくしていたともいわれ、細胞障害"ヘモクロマトーシス"なる遺伝性の持病を持っていたことも知られているがているが、その真相は明らかではない。

1977年
【死去】ウラジーミル・ナボコフ(Vladimir Vladimirovich Nabokov)【作家/ロシア】

少女偏愛を描いた問題作『ロリータ』で世界的成功を収めたロシア出身の小説家。ロシアを亡命し、ヨーロッパ、アメリカで活動していたことでも知られ、昆虫学者、チェス・プロブレム作家としても著名である。気管支炎で78歳没。

1989年
【死去】フランクリン・J・シャフナー(Franklin James Schaffner)【映画監督/アメリカ合衆国】

映画『猿の惑星』のシリーズ第一作(1968年)、第二作(1970年)などの大作を手がけ、1970年の映画『パットン大戦車軍団』でアカデミー作品賞、監督賞など7部門を受賞したアメリカを代表する映画監督。宣教師を父親に持ったため東京生まれであり、16歳までを日本で過ごした人物としても知られている。肺ガンで69歳没。

1994年
【暗殺】アンドレス・エスコバル(Andrés Escobar Saldarriaga)【サッカー選手/コロンビア】

コロンビアのクラブチームアトレティコ・ナシオナルの主要選手としてとして1989年のコパ・リベルタドーレス優勝に貢献し翌年のトヨタカップにも出場。コロンビアを代表するディフェンダーとして同国代表選手としても活躍した人物。自身2度目のワールドカップ出場となった1994年のアメリカワールドカップに優勝候補として参加したコロンビアであったが、1勝2敗の成績で予選敗退。6月22日に行なわれた第2戦のアメリカ代表戦の前半35分にオウンゴールを自国ゴールに叩き込み、敗戦の原因となった。大会終了後に代表チームメンバーは報復を恐れ帰国を回避したが、キャプテンの一人でもあったエスコバルは説明責任を果たすために帰国。1994年7月2日にメデジン郊外のバーから出てきたところをウンベルト・ムニョス・カストロにより射殺された。没年27歳。その場に居合わせた友人らの証言では、その瞬間、カストロは「Gracias por el auto gol(自殺点をありがとうよ)」と言いながら、12発もの弾丸を連続で発射したといわれている。一説によると違法ギャンブルの恨みを買ったための殺人であったとも言われている。その死後4年間、コロンビア代表チームではエスコバルが付けていた背番号2を欠番にした。また、2006年7月2日にドイツで開催された初のFIFA公認ストリートサッカー大会「street football world festival 2006」は「アンドレス・エスコバル杯 (Copa Andrés Escobar)」 と名付けられた。

1999年
【死去】マリオ・プーゾ(Mario Puzo)【小説家・脚本家/アメリカ合衆国】

イタリア・ナポリ移民の子としてニューヨークに生まれ、1969年の小説『ゴッドファーザー』が大ヒットした小説家。1972年にフランシス・フォード・コッポラにより映画化されたシリーズでは、自ら脚本も手がけた。ニューヨークの自宅にて心臓疾患で死亡。没年78歳。

2000年
【死去】青江三奈【歌手】

高校生の頃から東京・銀座のシャンソン喫茶・銀巴里で歌い始め、高校卒業後、の1966年に『恍惚のブルース』でメジャーデビュー、いきなり80万枚を売り上げる人気歌手となる。1968年には代表曲となる『伊勢佐木町ブルース』が100万枚のセールス、続く『長崎ブルース』が120万枚のセールスを記録し、『伊勢佐木町ブルース』で同年の第10回日本レコード大賞・歌唱賞と第1回日本有線大賞スター賞を受賞。国民的人気歌手として晩年まで活動を続けたが、1998年に膵臓ガンと診断され、翌年1月23日に渋谷公会堂で行なわれたコンサートを最後に、病気療養に専念。翌月2月5日に手術を行ない、4月24日に退院。しかし2000年2月に再入院し、同年7月2日に死亡。没年59歳。葬儀、告別式での弔辞は水前寺清子が担当した。

2013年
【死去】ダグラス・エンゲルバート(Douglas Carl Engelbart)【発明家/アメリカ合衆国】

 SRIインターナショナル(当時のスタンフォード研究所)内にARC( Augmentation Research Center)を創設し、そこでの研究で1970年に、コンピューター用のマウスの特許を取得した発明家。パソコンにとってマウスが必須である前にその特許は失効したために、その発見に見合った経済的成功を収めることはできなかった。腎不全で88歳没。

2015年
【死去】大竹省二【写真家】

人物ポートレイトの大家として戦後昭和期に活躍した写真家。1949年に秋山庄太郎、稲村隆正らと「日本青年写真家協会」を設立するなど、業界内を牽引する人物としても知られた。1992年に「日本写真協会功労賞」を受賞。2015年7月2日に、心原性脳塞栓症で死亡。没年95歳。

2016年
 【死去】エリ・ヴィーゼル(Eliezer "Elie" Wiesel)【作家/ハンガリー・アメリカ合衆国】

1944年にナチスドイツの占領下で強制収容所へ送られたホロコーストの経験を終戦後に体験小説『夜』として発表し、1986年にノーベル平和賞を受賞した人物。1963年からアメリカに移住し、ボストン大学教授等を歴任した。マンハッタンの自宅で朝に死亡。没年87歳。