『イェーガンの肖像』ジョージ・クルックシャンク画

1833年7月11日は、オーストラリアのヨーロッパ陣による入植と戦った先住民族ヌンガー族の戦士であるイェーガンが、撃ち殺された日である。
逮捕後の脱獄、そして襲撃と、入植者たちに対して度重なる抵抗を見せていたイェーガンには、当時の金額で30ポンドが賭けられていたため、キーツ家の少年達(18歳の兄ウィリアムとと13歳の弟ジェームズ)は、追われていたイェーガンにかくまう旨を伝えて騙し討ちを図り、銃殺することに成功した(兄ウィリアムはイェーガンの槍で死亡)。しかしその卑怯なやり方は入植者たちの間でも非難を集め、キーツ家はほどなくしてオーストラリアから姿を消すことになったという。
そして遺体から切り取られた首はその後、数奇な運命を辿ることに。
歴戦の勇士・イェーガンの首をどこかで展示した方がよいと考えた入植者のジョージ・フレッチャー・モーは、その首を約3カ月間ユーカリのチップでスモークし、燻製とした(クルックシャンクの肖像画は燻製後のもの)。
そして、イギリス陸軍中尉であったロバート・デールによって本国に持ち出された首は、外科医のトーマス・ペティグルーによって《見世物》として公開され、以降、その劣化が激しくなった1964年まで“文化人類学上の珍品”として展示されていたと言われている。
その後は無縁仏としてリヴァプールの地に埋葬されたイェーガンの首であったが、ヌンガー族の訴えによって1997年に返還された。
だが、部族間で論争が分かれたこともあり、再び埋葬をするまでに10年以上の時間の争いがあり、2010年になってようやく埋葬されたのだ。
その戦士としての誇り高い頭部が無事に埋葬されるのには、胴体から切り取られてから、180年もの時間が必用だった。

(画像はWikipedia Yagan より。Public Domain )

7月11日の不幸

1593年
【死去】ジュゼッペ・アルチンボルド(Giuseppe Arcimboldo)【画家/イタリア】

16世紀に活躍したイタリアの画家であり、マニエリスムを代表する作家のひとり。植物や果物、野菜で構成される奇妙な人物ポートレイト作品で知られ、その作品のあまりの珍妙さに後日の研究者たちが、精神異常にあったのではと類推するほどであった。代表作には『Vertumnus(ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ2世)』(1590年)がある。1549年からステンドグラスのデザインを始め、1556年にはフレスコ画を制作。1562年にウィーンのフェルディナント1世付きの宮廷画家となり、1593年に引退。晩年は故郷のミラノで過ごし、1593年7月11日に腎結石で死亡。没年66〜67歳(推定)。

1831年
【死去】ヴァシーリー・ゴロヴニーン(Vasilii Mikhailovich Golovnin)【海軍軍人・探検家/ロシア帝国】

ロシア帝国の海軍軍人・探検家であり、1811年、千島列島の測量ためディアナ号で択捉(えとろふ)島、国後(くなしり)島を訪れるも国後島で江戸幕府により捕縛、函館に幽閉されることに。1813年、ロシア帝国側に拿捕された高田屋嘉兵衛らと引き換えに解放された「ゴローニン事件」(1813年)で知られる人物。帰国後、幽閉生活を本にした『日本幽囚記』を刊行した。晩年はロシア初の蒸気船の造船やフェルディナント・フォン・ウランゲルといったロシア人探検家たちの指導者として活躍した。1831年7月11日、コレラにより死去。没年55歳。

1833年
【暗殺】イェーガン【ヌンガー族の戦士】19世紀初頭のイギリスによるオーストラリア入植に抵抗したアボリジニ、ヌンガー族の戦士。懸賞金のために白人少年の兄弟により射殺された。その後、燻製にされた頭部はイギリスに持ち出され、100年もの間見世物として公開され続けたという。
1971年
【事故死】ペドロ・ロドリゲス(Pedro Rodríguez de la Vega)【レーシングドライバー/メキシコ】

1963年にロータスからデビューしたF1ドライバー。その後1967年からクーパーからレギュラー参戦し、開幕戦の南アフリカグランプリでメキシコ人として初優勝。1970年にはBRMで参戦し、第4戦のベルギーグランプリで自身二度目の優勝を果たし、現在でもF1グランプリ史上唯一優勝者となっている。また、フォードで出場した1968年のル・マン24時間レース、1970年、1971年にポルシェで出場したデイトナ24時間レースでも優勝を果たし、スポーツカーレーサーとしても輝かしい業績を残した。先にF1参戦を果たし、1962年に地元開催のメキシコグランプリで事故死した実弟、リカルド・ロドリゲスよりも才能で劣るといわれながらも徐々に世界的な注目を浴び始めた矢先の1971年、ドイツ・ノリスリンクで行なわれたのヨーロッパ・インターセリエ第4戦、ニュルンベルク200マイルのレース中にタイヤがバーストしフェンスに激突。弟と同じくレース中の事故死を遂げた。没年31歳。弟の事故死以来、その舞台となったサーキットは「リカルド・ロドリゲス・サーキット」と名付けられていたが、ペドロの死を受け、「エルマノス・ロドリゲス・サーキット(ロドリゲス兄弟サーキット)」と改められた。

1991年
【暗殺】【未解決事件】「悪魔の詩訳者殺人事件」1988年にイギリスで出版された、サルマン・ラシュディ(イギリス)の小説『悪魔の詩』を翻訳した筑波大学助教授の五十嵐一が大学内のエレベーターホールで刺殺された。ムハンマドの生涯をショッキングに描いた同作品関係者に対しては、1989年2月に、イラン最高指導者ホメイニにより死刑宣告が出されていた。犯人は未だ不明。五十嵐教授の机の中からは殺されることを予見したような書き置きが発見された。
1994年
【自殺】サバンナ(Savannah)【ポルノ女優/アメリカ合衆国】

1990年代のアメリカを代表するポルノスター。10代でオールマンブラザーズバンドのグレッグ・オールマンと交際、その後はミスタービッグのビリー・シーン、モトリー・クルーのヴィンス・ニール、ガンズ・アンド・ローゼズのスラッシュ、俳優のマーク・ウォールバーグ等ロック・スターを中心にド派手な交際関係を誇った。その一方で同業のポルノ女優、ジーナ・ファインとのレズビアン関係も長く続けた。収入も莫大であったが、ドラッグの常習などで財政的には破綻していたという。1994年7月11日の深夜2時頃に車を運転中、自宅近辺の塀に激突事故。顔に大きな傷を負い、マネージャーに電話をしたが、その直後に拳銃自殺。女優としては致命的な顔の傷を気に病んだとも言われている。没年23歳。

2005年
【急死】橋本真也【プロレスラー】猪木・馬場、長州・藤浪世代に続くプロレス第3世代の"闘魂三銃士"として武藤敬司、蝶野正洋らと新日本プロレスで活躍。小川直也戦、トニー・ホーム戦などの連戦で激闘を繰り広げた。新日本離脱後は自らの団体「ZERO-ONE」を立ち上げ、大谷晋二郎らとともに活動したが、経営難もあって団体は崩壊。フリーのレスラーとして再起直後に脳幹出血で急死。没年40歳。死後、息子の橋本大地もプロレスラーの道を選んでいる。
2015年
【死去】岩田聡【プログラマー・経営者】

大学時代にアルバイトしていたHAL研究所にそのまま就職し、ファミリーコンピューターの『ゴルフ』『ピンボール』等のプログラムを担当。同社社長に就任後はプログラマーとしての活動を続けながら『星のカービィ』『MOTHER2 ギーグの逆襲』なるヒット作を世に出し経営危機にあった会社を建て直すことに成功。その手腕を買われ2000年6月に任天堂に入社。2002年6月1日付けで同社の4代目代表取締役社長となり(山内家以外では初)、タッチパネル付き携帯型ゲーム機「ニンテンドーDS」や「Wii」等のヒット作を次々と生み出し、同社を世界的企業に導いた。2014年6月に胆管腫瘍を公表し、すぐさま切除手術を受け8月に復帰。その後も活動を続けたが翌年7月に体調が悪化し入院。そのまま社長在職中に11日に死亡した。55歳没。