『ヒューゴ・シンベリ作「Kuolema kuuntelee(Death Listens)」(1897年)』

1917年7月12日は死をテーマにした独特の作品群で知られるフィンランドの国民的画家・ヒューゴ・シンベリが死亡した日である。
骸骨に象徴される“死”と“憂鬱な少年”をテーマにした作品で知られる象徴主義の画家であり、その陰鬱な美しさは1年の多くを豪雪と凍土に囲まれたフィンランドという国を象徴するものといわれている。
その代表作である『Haavoittunut enkeli(The Wounded Angel/傷ついた天使)』は、陰鬱な少年たちが負傷した天使を搬送するというネガティブ的かつ幻想的な作品であるが、2006年に行なわれた『国民の絵』として選出されているほどに、その作品は同国の精神性に根ざしたものなのである。
1897年の『Kuolema kuuntelee(Death Listens/死が聴く)』も、「老婆を迎えに来た死神が、その仕事を行なう前に(息子の?)バイオリンの演奏に聴き入っている」という“人間的な”死神像を描いた不思議な作品である。
人間が決して避けることのできない“死”をどのように解釈するのか——シンベリの作品は、我々とは場所も時間も異なる場所ではぐくまれた、異国の“死文化”を垣間見せてくれる数少ない財産といえるだろう。

(画像はヒューゴ・シンベリ作『Kuolema kuuntelee(Death Listens)』1897年/Public Domain)

7月12日の不幸

1910年
【事故死】【夭折】チャールズ・ロールズ(Charles Stewart Rolls)【実業家/イギリス】

自動車製造会社「ロールス・ロイス」を設立したイギリスの実業家。航空機の先駆者としても知られ、イギリス人として2人目に飛行ライセンスを取った人物であり、また、飛行機事故で亡くなった初めてのイギリス人でもある。1903年に自動車販売店「C.S.Rolls & Co.」を開業。1906年、フレデリック・ヘンリー・ロイスと共に自動車製造会社「ロールス・ロイス」を設立へ。航空機に関心があったロールズは、1903年に飛行ライセンスを取得、当時の最長単独飛行時間を打ち出し、ゴードン・ベネット金メダルを取得。その後、1909年に飛行機を購入。1910年6月に無着陸でイギリス海峡を往復し、ロイヤル・エアロ・クラブの金メダルを授与されるも、同年7月、飛行場での実演飛行中に機体の尾部が破断し墜落死。没年32歳。

1917年
【死去】ヒューゴ・シンベリ(Hugo Gerhard Simberg)【画家/フィンランド】

死をテーマにした独特の作品群で知られるフィンランド象徴主義を代表する国民的画家。骸骨に象徴される"死"と"憂鬱な少年"をテーマにした作品で知られ、その陰鬱な美しさは1年の多くを豪雪と凍土に囲まれたフィンランドという国を象徴するものといわれている。その代表作である『Haavoittunut enkeli(The Wounded Angel/傷ついた天使)』は、陰鬱な少年たちが負傷した天使を搬送するというネガティブ的かつ幻想的な作品であるが、2006年に行なわれた『国民の絵』として選出されている。フィンランド・エステリにて44歳没。

1926年
【薬物過剰摂取】【怪死】【自殺】ガートルード・ベル(Gertrude Margaret Lowthian Bell)【考古学者・情報員/イギリス】

"砂漠の女王"の異名を取ったイギリスの考古学者で、イラク王国建国に尽力を注いだ人物。大学卒業後、1892年にペルシャ大使としてテヘランに赴任していた叔父を訪ね、イランへ。1894年に初のエッセイ集『ペルシャの情景』を出版。その後、中東に魅せられ、アラビア語を学ぶ傍ら登山も行ない、1900年に未踏であったエッドゥルーズ山地・第5峰に登頂。同峰は「ガートルード峰」と呼称されている。1905年からユーフラテス川を巡るたびに出発、1911年にはメソポタミア、シリアへと出発、この時"アラビアのロレンス"と呼ばれる考古学者T・E・ロレンスと出会う。第一次世界大戦が始まると、赤十字に勤務、1915年からカイロに儲けられたイギリスの諜報機関の情報員としてアラブ反乱に参加。中東の専門知識などから1919年にイラク民生長官・東方書記に就任。再び考古学に打ち込んでいた最中の1926年7月12日、致死量の睡眠薬を摂取し死去。没年58歳。睡眠薬の大量摂取の理由は自殺か事故かなのかは判明していない。

1935年
【死去】アルフレド・ドレフュス(Alfred Dreyfus)【軍人/フランス】

フランスの陸軍軍人であり、「ドレフュス事件」により冤罪を受けた人物。1894年、陸軍参謀本部の大尉であったドレフュスはスパイ容疑で逮捕。翌年、軍籍を剥奪されフランス領ギアナの監獄島「デビルズ島」で終身刑を宣告。その後、1899年に釈放され、1906年に免責。免責後、軍へ戻り少佐へ昇進、レジオン・ドヌール勲章を受章、さらに砲兵部隊・司令官に就任するも、翌年、服役生活が原因による健康面の悪化から退役。第一次大戦が勃発すると再び招集を受けパリに配属。1908年に、式典に参加中、不満を持つジャーナリスト・ルイス・グレゴリに銃撃され腕を負傷。1935年7月12日、老衰により死去、没年75歳。

1967年
【暴動事件】「ニューアーク暴動」

1967年7月12日にアメリカのニュージャージー州ニューアーク市で起きた暴動。暴動は4日間におよび、暴行や略奪などが行なわれ、26人が死亡、およそ730人の負傷者、1400人以上の逮捕者を出した。暴動の背景には長年の人種差別と貧困があり、白人警察官による黒人のタクシー運転手の暴行問題が引き金となった。

1968年
【事故死】アントニオ・ピエトランジェリ(Antonio Pietrangeli)【映画監督/イタリア】

映画評論家として活動後、映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1942年)などの脚本を手がける。1953年に『Il sole negli occhi (眼の中の太陽)』で映画監督デビュー。1968年7月12日、『Come, quando, perché』の撮影中に自動車事故で死去。没年49歳。

1971年
【死去】山下清【ちぎり絵作家】

"裸の大将"として知られるちぎり絵作家。幼少期に重度の消化不良が原因で言語障害と知的障害の後遺症を患う。1934年に知的障害児施設「八幡学園」でちぎり絵に出会い作品つくりに没頭。1938年に初の個展を開催、翌年には大阪・朝日記念ホールで展覧会開催、作品は高い評価を受けた。1940年から1954年にかけて学園を脱走し放浪の旅へ。学園へと戻る、脱走、放浪という生活を繰り返し、この生活が『放浪日記』として描かれ、戦後は『裸の大将』として映画化およびドラマ化された。1971年7月12日、脳出血のため死去。没年49歳。

1979年
【夭折】ミニー・リパートン(Minnie Riperton)【歌手/アメリカ合衆国】

5オクターヴ半という声域とハイトーン・ボイスで知られる女性シンガーソングライターであり、1975年にリリースした『Lovin' You』が世界的な大ヒットを記録し、多くの歌手が競ってカバーするスタンダードナンバーとなった。1976年8月24日に乳ガンによる乳房切除手術を受けたことを公表し、その時点でリンパに転移しており余命6カ月であったと宣告を受けていた。しかしその後もツアーに出るなど歌手活動を続け、1978-1979年におけるアメリカ・キャンサー・ソサエティーのスポークスマンとして活動したが、1979年に入ると右腕に転移し、最終的には腕を固定をしながらテレビ出演をしていた。同年6月には入院し病床で憧れの存在であり共作者となったスティービー・ワンダーの作った音源を聴きながら7月12日に死亡。31歳没。その墓碑には『Lovin' You』の冒頭の歌詞である"Lovin' you is easy cause you're beautiful."が刻まれている。

1993年
【自然災害】「北海道南西沖地震」

1993年7月12日に北海道奥尻郡奥尻町北方沖で発生した、マグニチュードは7.8の地震。日本海側で起きた地震では近代以降で最大規模となっており、震源地に近い奥尻島付近では202人の死者、28人の行方不明者を出した。

2006年
【死去】ヒューバート・ランポ(Hubert Lampo)【小説家/ベルギー】

20世紀中盤にフランデレンで確立されたマジック・リアリズムの祖といわれる小説家。代表作の『De komst van Joachim Stiller(ヨアヒム・スティラーの到来)』(1960年)などキリスト教、聖杯をテーマにした作品が多い。2006年7月12日に85歳没。

2011年
【死去】宮尾すすむ【タレント】

森進一等の歌謡ショーの司会を経てタレントに転身。『スターどっきりマル秘報告』や『モーニングショー』のコーナー「宮尾すすむのああ日本の社長」等の現場レポーターとして昭和期のテレビで人気を博した。登場時に顔の前で両手を使い独特の見得を切り「ハイ!」と叫ぶ決めポーズが有名である。晩年は病気に見舞われ続け、1992年に顎下腺腫瘍、1994年に腸捻転、2002年に前立腺肥大、2007年5月には東京都内でを運転中に意識を失い追突事故を起こす急性硬膜下血腫。以降はセミリタイア状態となり2011年6月に食道ガンが発覚。余命3カ月と宣告されたが、翌月の7月12日に肺炎で77歳没。

2016年
 【死去】大橋巨泉【タレント・司会者・実業家】

早稲田大学中退後にジャズコンサートの司会者をしていたところ、ジャズ喫茶に出入りしていたテレビ関係者と知り合いタレントに転身。持ち前のトーク術と多趣味な遊び人のキャラクターを活かし、1960年代から1980年代のテレビバラエティに君臨し、『11PM』『クイズダービー』『世界まるごとHOWマッチ』等の高視聴率番組を連発、毒舌も辞さない奔放な芸風の司会者としてテレビ業界で長らく絶大な人気を誇った。「ボイン」「はっぱふみふみ」の造語や「なんてったって」の名フレーズで知られる。1990年3月、56歳の頃に『ギミア・ぶれいく』以外の全ての仕事を降板しセミリタイア宣言。円熟期にもかかわらず引退し、1973年から始めていたギフトショップビジネスを続けながら早々に余生を楽しむという生活は、社会的な話題となった。2001年には民主党から参議院選に出馬し見事当選するも、アメリカ同時多発テロの問題を巡り党内で孤立し、半年で辞職。2005年5月に胃ガンが発覚し6月に摘出手術を受け、2013年11月には中咽頭ガンの摘出手術を受け、さらには2014年11月に縦隔リンパ節が発覚。続く2015年5月18日には肺ガン手術で右肺約3分の1を摘出。
その後も治療を続けたが2016年7月12日午後9時29分に急性呼吸不全で82歳没。