『「相模原障害者施設殺傷事件」を伝える産経新聞の号外』

2016年7月26日は、神奈川県相模原市の知的障害者施設・津久井やまゆり園に元施設職員の植松聖が侵入し、施設に収容されている19人の入所者を刺殺した「相模原障害者施設殺傷事件」が発生した日である。
2016年7月26日午前2時頃に侵入した植松は、寝ていた入所者を次々と刺し殺し、止めに入った職員を含む26人に重軽傷を負わせて逃走。そのまま午前3時過ぎに津久井署に自首をした。
19人という大量殺人は戦後最悪の規模であったが、植松は殺害した障害者たちを殺すに値するという持論を常々持っており、事件発生前の同年2月14日には衆議院議長宛に障害者470人の殺害する許可を得るための手紙を渡しにきていた。
そのため、この殺人は障害者を対象にした“ヘイトクライム”といえ、犯人は自らの独善的な良心に基づいて大量殺人を犯したといえる。
逮捕後もその供述で「人ではないから殺人ではない」と述べるなど、全く罪の意識は感じていないようだ。
今月20日にはその手記も発売されるなど、植松の衝撃的な発言はこれからも社会に発信され続けるであろうが、果たして、その発言が自らの罪を悔い改める日がくるのであろうか。
その迷いのない発言を聞く度に、その持論を広く喧伝するための機会を得ただけのように感じられてしまう。
果たして、殺人者はその権利を持つべきなのか否か——「相模原障害者施設殺傷事件」の今後を見守る上で、我々が考えるべきことは余りに多い。

(写真は『産経新聞』2016年7月26日版号外)

7月26日の不幸

1863年
【死去】サミュエル・ヒューストン(Samuel "Sam" Houston)【軍人・政治家/アメリカ合衆国】

19世紀に起きた「テキサス革命」の指導者およびアメリカ史上唯一、異なった州で知事に就任した人物。1812年、陸軍に入隊し米英戦争に従軍。1818年に辞職後、法律を学び司法試験に合格、同年ナッシュビル地区・検事総長および州市民軍の司令官へ就任した。1822年に政治家としてテネシー州の連邦会員議員に選出、1823年から1827年まで下院議員を務める。1827年、テネシー州知事選に当選し1829年まで務めた。1835年に「テキサス革命」が起きるとテキサス軍を率いてメキシコ軍と戦い、独立に成功。テキサス共和国の初代大統領(1836年〜1838年)に選出された。1845年にテキサス共和国がアメリカに合併されると、上院議員を務め、1859年にテキサス州知事へ。しかし、1861年に起きた南北戦争によるアメリカ連合国へのテキサス州の参加に反対し知事を辞職。辞職後は、アラバマ州のハンツビルに退き、1863年7月26日、肺炎により死去した。没年70歳。

1937年
【夭折】【事故死】ゲルダ・タロー(Gerta Taro)【写真家/ドイツ】

史上初めて戦場の最前線で死んだ女性カメラマンとして知られる人物。1910年にユダヤ系ポーランド人の家庭に生まれ、1934年にナチスから逃れて渡仏。パリで出会った写真家のアンドレ・フリードマン(後のロバート・キャパ)のアシスタントとなり、私生活でもパートナーとなり、共同制作者として架空のアメリカ人写真家、ロバート・キャパ名義の写真を発表した。「スペイン内戦」での取材でキャパの代表的な写真を撮影した後、1937年にキャパからのプロポーズを断り、写真家としてもタロー名義の作品を発表し始め、激化するスペイン内戦の「バレンシア爆発事件」で数々のタローとしての代表作を撮影。1937年7月25日にスペイン内戦の「ブルネテの戦い」の取材中に共和軍の戦車に轢かれ重傷を負い、緊急手術の甲斐もなく翌日死亡した。没年26歳。ちなみに「Taro」の名は交遊のあった岡本太郎とスウェーデン女優のグレタ・カルボにちなんで付けられたものであり、本名は「Gerta Pohorylle」。

1944年
【死去】レザー・シャー(Rezā Shāh Pahlavi)【軍人・政治家/イラン】

19世紀イランの首相(1924年〜1925年)およびイラン最後の王朝であるパフラヴィー朝の皇帝(1925年〜1941年)となった人物。1921年、ペルシアの軍人であったレザーはクーデターを起こし、イラン立憲革命後からイギリスが介入していたテヘランを奪取。イギリス・イラン協定による治外法権を撤廃し、イラン国軍の司令官・首相に就任。就任後、カージャール朝を廃止し、パフラヴィー朝を建て皇帝へ。1935年、ペルシアからイランに国号を改名しイランの近代化を図った。第二次世界大戦が勃発すると中立の立場をとるも、枢軸国寄りであったため1941年にイギリス、ソ連の侵攻に遭い退位。マダガスカルのモーリシャス島に亡命した後に、南アフリカのヨハネスブルグに移住し、1944年7月26日、心筋梗塞により死去した。没年67歳。

1952年
【夭折】エヴァ・ペロン(Eva Perón)【女優・モデル・大統領夫人/アルゼンチン】

1946年にアルゼンチンの大統領に就任したファン・ペロン大統領夫人として国民的な人気を博した人物。愛称の"エヴィータ"はラジオドラマに出演した際に使われ始めた。私生児として生まれ、一時は売春婦として生計を立てるなど貧しい身の上ながらにグラビアモデル、女優として出世し、ペロンの政治宣伝を担当すると、生来の魅力溢れる人となりとそのスピーチの才能で貧しい労働者層を中心に国民の爆発的な人気を獲得。夫からの信頼を背景に国政にも積極に参加し続けた。1952年7月26日に子宮ガンで死亡。没年33歳。ブエノスアイレスで行なわれた葬儀には、300万人の国民が詰めかけた。

1971年
【自殺】ダイアン・アーバス(Diane Arbus)【写真家/アメリカ合衆国】

ファッションフォトグラファーとしてキャリアをスタートし、その後、フリークス、奇形や性的マイノリティの人々ををテーマに撮り続けた写真家。晩年は鬱病により心身を病み、1971年7月26日に浴室で両手首を切って自殺しているところをアートディレクターのマーヴィン・イスラエルにより発見された。没年48歳。その日記には"最後の晩餐"とだけ書き残されていた。

1993年
【航空事故】「アシアナ航空733便墜落事故」

1993年7月26日に韓国の木浦空港(モクポクウコウ)で発生した墜落事故。事故はアナシア航空733便が木浦空港への着陸進入中に発生し、機体は空港南西の海南郡の山中へ墜落。事故原因は空港付近の悪天候によるものであった。この事故による死者は乗客乗員併せて68人となっているが、66人とする資料もあり死者の数は定まっていない。

1994年
【死去】吉行淳之介【小説家】

戦後期を代表する小説家。東京帝国大学在学中から新太陽社で編集のアルバイトをし、同大学を学費未納で除籍後、そのまま入社。雑誌『モダン日本』などの編集に携わりながら、同人誌に自身の作品を発表。1954年、『驟雨』が第31回芥川賞を受賞し、作家生活へ。1979年、日本芸術院賞受賞、1981年に日本芸術院会員に選出。晩年も執筆活動を続け、1994年7月26日、肝臓ガンのため死去。没年70歳。

2004年
【事故死】中島らも【小説家・劇作家・俳優・ミュージシャン】

兵庫県尼崎市出身で重度の飲酒、薬物なども辞さない荒唐無稽な人生から生み出される強烈なユーモアと独特な美学でカリスマ的人気を獲得し、生涯関西から文化を発信し続けた多才な表現者。代表作に小説『頭の中がカユいんだ』『今夜、すべてのバーで』『ガダラの豚』等。その他に「笑殺軍団リリパットアーミー」を結成し脚本を手がけ、松尾貴史、鮫肌文殊ら自らも出演し演劇活動も行なった。2003年2月4日に麻薬及び向精神薬取締法違反、大麻取締法違反で逮捕されたことも。晩年はアルコール依存症と躁鬱病、ナルコレプシーに苛まれ、目のかすみから執筆不能な状態になり、口述筆記で仕事を続けた。2004年7月15日に神戸で開催された三上寛とあふりらんぽのライブに参加し、出演後に飲酒して出演者と別れた直後、翌16日未明に飲食店の階段から転落し頭部を強打。脳挫傷による外傷性脳内血腫で手術を受けたまま意識不明となり、本人の希望で7月26日8時16分に人工呼吸器を停止。没年52歳。

2005年
【死亡】岡八朗【喜劇俳優】

昭和の人気漫才師「エンタツ・アチャコ」の花菱アチャコに師事し1959年4月に吉本新喜劇第1期生として入団した喜劇俳優・コメディアン。横山エンタツの次男である花紀京とともに"二大巨星"として長らく吉本新喜劇を牽引し続けた。岡の「ガオー!」「くっさ〜」「えげつな〜」「隙があったらかかってこんかい!」などのギャグは後進の間寛平らに受け継がれ現在も使用されている。私生活では極度のあがり症対策として始めた飲酒がアルコール依存症となり、若くしてその症状に悩まされた。また、30歳で結核、50代で胃ガン、急性膵炎と連続的に病に見舞われ、さらに妻の自殺や実子の急死等不幸な晩年を送ることとなった。1996年の転倒しての脳挫傷は記憶障害が残ったために事実上の引退となったが、2002年12月18日には芸能生活45周年記念リサイタル『岡八我王(ガオー)伝説』を開催。娘の裕子との漫才などを披露した。2005年7月26日に肺炎による呼吸不全で死亡。没年67歳。

2010年
【急死】bice(ビーチェ)【シンガーソングライター】

1990年代から活躍した渋谷系シンガーソングライター。代表作にはアニメ『けいおん!!』の劇中歌『ごはんはおかず』などがある。1994年に中島優子の名義でシンガーソングライターとしてデビュー。デビュー後、自身の活動のほか、CMソング、楽曲提供など幅広く活躍。1998年に「bice」に改名、同年ポニーキャニオンからマキシ・シングル『bice』でメジャーに再び進出。2001年に徳間ジャパンに移籍し、アルバム『Nectar』『let love be your destiny』を発表。その後、小西康陽の誘いでcolumbia * readymadeに移籍、2008年に『かなえられない恋のために』を発表。活動を続けていた2010年7月26日、自宅で心筋梗塞に倒れ急死。没年38歳。

2011年
【死去】小松左京【SF小説家】

日本を代表するSF小説家のひとり。代表作には『復活の日』(1964年)、『日本沈没』(1974年)などがある。1959年、早川書房『SFマガジン』創刊号と出会い、SF小説を書くことを決意。1961年に同社の『第1回空想科学小説コンテスト』に応募し努力賞に入選。翌年、『SFマガジン』に『易仙逃里記』でデビュー。1963年、日本SF作家クラブ創設に参加、また、短編集『地には平和を』を出版し直木賞候補となる。1970年、アメリカ、イギリス、ソ連などからSF作家を招いた「国際SFシンポジウム」を開催。同年、日本万博博覧会のサブ・プロデューサーを務めた。1980年、日本SF作家クラブ会長として「日本SF大賞」を創設。その後も多岐にわたり活躍し、2011年7月26日、肺炎のため死去。没年80歳。

2016年
【大量殺人】【ヘイトクライム】「相模原障害者施設殺傷事件」

2016年7月26日午前2時頃に神奈川県相模原市の知的障害者施設・津久井やまゆり園に元施設職員の植松聖が侵入し寝ていた入所者19人を次々と刺し殺し、止めに入った職員を含む26人に重軽傷を負わせて逃走。そのまま午前3時過ぎに津久井署に自首をした。19人という大量殺人は戦後最悪。植松は殺害した障害者たちを殺すに値するという持論を常々持っており、逮捕後もその供述で「人ではないから殺人ではない」と述べるなど、全く罪の意識は感じていない。