『骸骨と火の着いたタバコ』フィンセント・ファン・ゴッホ作

1890年7月29日は、オランダが生んだ不世出の天才画家、ファン・ゴッホの死亡した日である。
37歳という短い人生の中で、数多くの大作を残したポスト印象派の代表的作家であり、現在も世界各国で大いに愛されている画家のひとりであるが、死後その人気が爆発したいわゆる“不遇のアーティスト”の代表格として知られる人物である。
その死後の20世紀に人気を博したのは、その色鮮やかな絵画作品の素晴らしさもさることながら、“耳を切った”というエキセントリックなエピソードや、“精神病院に入院中に描いた”、さらには“銃で自殺した”というファン・ゴッホ自身の奇異なパーソナリティが伝説的に広まったことがその大きな要因である(現在でいうところの統合失調症であったという説が有力)。
そのために、美術業界というよりは大衆によって驚くべきスターダムにのし上げられた作家ともいえ、いまもその作品が多くの日本人にまで親しまれている要因であるといえるだろう。
この『骸骨と火の着いたタバコ』は「学ぶ価値もない」と自ら語っていた学生時代の作品(アントワープのRoyal Academy of Fine Artsに在学中、1885年〜1886年頃の習作)であるが、美術学校の基本的ステップ、「人間の骨格を学ぶ」という授業に退屈しながらも、生涯ずば抜けた色彩的感覚を放ち続けたファン・ゴッホの特長が既に印象的に発揮された作品である。
そして何より、晩年の作品の醸し出す苦悩とは対照的な、まだ生気に溢れたユーモアが眩しい。
晩年の自画像に刻まれた皺よりも、この若きドクロの方が遙かに生命力が感じられるのだから不思議なものである。
《人間の人生とはなんであるか》——ファン・ゴッホの作品、そして人生は、多くの示唆を我々に与えてくれる。

(写真はWikipedia Vincent Van Goghより。Public Domain)

7月29日の不幸

1099年
【死去】ウルバヌス2世(Urbanus II)【ローマ教皇/イタリア】

11世紀イタリアで第159代ローマ教皇(1088年~1099年)となった人物で第1回十字軍を派遣したことでも知られる。フランスのクリュニー修道院院長を経て、イタリアのオスティア司教枢機卿に就任。ローマ教皇グレゴリウス7世のもとで「グレゴリウス改革」で手腕を発揮し1088年にローマ教皇へ就任。1095年に第1回十字軍を派遣。1099年7月29日に死去。推定没年齢57歳。死後の14日後に十字軍がエルサレムを占領。

1644年
【死去】ウルバヌス8世(Urbanus VIII)【ローマ教皇/イタリア】

17世紀イタリアの第235代ローマ教皇(1623年~1644年)で教皇国家の領域を史上最大に拡大させたことで知られる人物。教皇庁に従事した後、シクストゥス5世からグレゴリウス15世といった歴代ローマ教皇の側近として活躍。その後、クレメンス8世の首席書記官に就任。1604年にナザレ司教、1606年に枢機卿に就任。1623年にグレゴリウス15世が急死したためローマ教皇に就任。就任中はプロテスタントとカトリックの対立「三十年戦争」が続く中、ローマ教皇領を拡大に務める。1633年にガリレオ・ガリレイの宗教裁判を行ない異端の判決を下す。1644年7月29日に死去。没年76歳。

1856年
【死去】ロベルト・シューマン(Robert Schumann)【作曲家/ドイツ】

ベートーヴェンやシューベルトの後継者とされるドイツ・ロマン派を代表する作曲家。幅広い分野で作品を残し。特に『謝肉祭』『子供の情景』等に代表されるピアノ曲や『ゲーテのファウストからの情景』『楽園とペリ』に代表される歌曲等ににおいて高い評価を得ている。私生活では精神衰弱や幻聴などの精神障害が30代以降に発症し、残りの人生に大きくのしかかったといわれ、その病状が最も悪化した1854年2月27日には、天使と悪魔、そして猛獣たちが襲い来るような幻覚の中で、問診に来た医師との会話中にガウン姿のままライン川に飛び込み自殺未遂を行なった。目撃者がいたおかげで救出され一命を取り留めたが、そのままボン近郊のエンデニヒの療養所に入院。その中でも症状はさらに悪化し、絶え間ない錯乱状態の中で聴覚、臭覚、味覚を失い、四肢も動かせなくなり、1856年7月29日午後4時に妻クララの介抱の中で死亡した。没年46歳。後年、その症状から梅毒もしくは水銀中毒であった可能性が議論されている。

1890年
【自殺】フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh)【画家/オランダ】

オランダのポスト印象派を代表する人物であり、19世紀の西洋美術を代表する画家。鮮やかな色使いと力強い描画で、20世紀の美術へ絶大的な影響を及ぼしたが、生前に売れた作品は『赤い葡萄畑』の一点だけであったとされるように、その才能に相応しい評価を得られないまま死んでいった”不遇なアーティスト”の代名詞的存在である。死後その作品の記録的高騰が美術界の常識を破ったことで知られ、どちらも日本人が入札に関わった代表作『ひまわり』は3950万ドル(当時約58億円)、『医師ガジェの肖像』は8250万ドル(当時約124億5000万円)で取引された。私生活では、統合失調症等の精神病やてんかんの発作に生涯苛まれていたために悲痛なものが多く、娼館で自ら耳たぶを切り落とした事件や、精神病院への収監を繰り返すなど、激しすぎる私生活で有名な作家でもあった。7月27日、フランス・オーヴェルのラヴー旅館に、左胸に銃創を負ったまま戻り、銃弾は心臓をそれていたものの、29日午前1時に死亡。銃弾の角度が不自然なために誰かをかばったとされる他殺説もあるが、ゴッホ自身は自殺であると語った。没年37歳。急遽駆けつけた弟に語った最後の言葉は、「The sadness will last forever(この悲しみが最後だろう)」だったという。

1894年
【日清戦争】【夭逝】白神源次郎【軍人】

「日清戦争」の日本陸軍ラッパ手として知られる人物。1894年に歩兵第21連隊へラッパ手として入営。1894年に「日清戦争」が勃発、同年7月29日に戦死。没年27歳。死後に死んでも口からラッパを離さなかったというラッパ手が話題となり、白神の名が上がったため一躍有名となった。その後、このラッパ手は白神から木口小平へと訂正されている。

1894年
【日清戦争】木口小平【軍人】

「日清戦争」の日本陸軍ラッパ手として知られる人物。1892年に歩兵第21連隊へ入営し歩兵二等卒を経て1894年に「日清戦争」へラッパ手として従軍。同年7月29日に戦死。没年21歳。死後に死んでも口からラッパを離さなかったというラッパ手が話題となり、白神源次郎であるとされたがその1年後に木口へと訂正された。

1900年
【暗殺】ウンベルト1世(Umberto I)【王族/イタリア】

19世紀イタリアで第2代イタリア王(1878年~1900年)となった人物。イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の息子として生まれ、1858年にサルデーニャ国王軍に陸軍将校として入隊。1859年に「イタリア統一戦争」が再戦し父エマヌエーレ2世とともに参加。1878年にエマヌエーレ2世が死去したため国王に即位。同年、即位を記念したパレード中に無政府主義者ジョヴァンニ・パッサンナンテに襲われ、同行していたベネディット・カイローリ首相が重症を負う。1882年にドイツ、オーストリアと三国同盟を結成。1885年「エリトリア戦争」を起こし、エチオピアに初の植民地を獲得。1897年に再び共和主義者で鍛冶屋のピエトロ・アッキアリートによる暗殺計画が発覚。1898年、パンの価格高騰に対する大規模な暴動が国内で発生し「ババベッカリス大虐殺」へと進展。国民からの反感が続く中、1900年7月29日に無政府主義者ガエタノ・ブレーシにより銃で撃たれ死去。没年56歳。

1900年
【死去】ブルーノ・クライスキー(Bruno Kreisky)【政治家/オーストリア】

20世紀オーストリアでユダヤ人として初のオーストリア首相(1970年〜1983年)となった人物。1926年にオーストリア社会民主労働党青年組織に参加。大学で法律を学びながら政治活動を開始。1934年「2月事件」が勃発し反ファシスト活動に参加し1935年に逮捕され翌年に釈放される。同年ナチス党政権によりオーストリアがドイツと併合されるとスウェーデンへ亡命。1946年に帰国後、駐スウェーデン・オーストリア公使館員に就任。1951年に再び帰国すると首席補佐官および政治顧問、1953年に外務次官に就任。1956年に国民議会議員へ選出され、社会党の党代表のひとりに選任される。1959年に外務大臣に就任し、第三世界の国々へ向け「マーシャル・プラン」を提案。1970年に首相に就任、1976年に人権分野業績のためのブルーノ・クライスキー財団を設立。1983年に首相を辞職。晩年は社会党の名誉会長として活動し1990年7月29日にうっ血性心不全で死去。没年79歳。

1965年
【拳銃乱射事件】【殺人事件】「少年ライフル魔事件」

1965年7月29日、当時18歳の少年・片桐操が起こしたライフル乱射事件。事件当日、山林内でスズメをライフルで撃っていた片桐を警察官が訊問したところ、ライフルで警察官を銃撃し殺害。そのまま通りかかった車に乗り込み、警察官から奪ったピストルで運転手を脅すなどして車を4台乗り継ぎ、東京都渋谷区北谷町の「ロイヤル銃砲火薬店」へ。店内から武器弾薬を奪うと従業員3人を人質に立てこもり、警官隊との銃撃戦へと発展した。結果的には催涙弾が投げ込まれ、人質を盾にし出てきたところを逮捕されることとなった。片桐は犯行当時は未成年であり、殺人したのは1人であったが、死刑判決が下ることとなった。また、この事件発生時「ロイヤル銃砲火薬店」の近くで後に連続射殺事件を起こす永山則夫が働いており、この銃撃戦を目撃している。

1973年
【競技中事故死】【夭折】 ロジャー・ウィリアムソン(Roger Williamson)【レーシングドライバー/イギリス】

1973年に25歳でF1デビューを果たし、将来を嘱望されていたイギリスのF1ドライバー。1972年にイギリス・F3選手権を制覇し、翌年、F2に参戦していたが、マーチF1のドライバー・ジャン=ピエール・ジャリエの代役としてイギリスグランプリでF1デビュー。しかし、2戦目となったオランダグランプリでタイヤトラブルによりコースアウト、ガードレールにクラッシュしマシンは横転炎上した。同僚のデビッド・パーレイがウィリアムソンを助け出そうと駆けつけると「ここから出してくれ!」と叫び声を聞いたが救出は果たせず、焼死していくウィリアムソンを見ているしかなかった。没年25歳。

1974年
【死去】エーリッヒ・ケストナー【詩人・小説家/ドイツ】

20世紀ドイツの詩人および小説家で主に児童文学で知られる人物。大学在学中に詩や舞台批評などを発表し1928年に詩集『腰の上の心臓』を刊行。翌1929年に小説『エーミールと探偵たち』を刊行、同作はドイツ国内で人気となり以後『飛ぶ教室』(1933年)などの児童文学を発表。『第二次世界大戦』中はファシズムを批判したためナチス政府から執筆を禁止されも偽名を使い『ふたりのロッテ』などを出版。1951年に西ドイツペンクラブ会長へ就任。1960年に児童書『わたしが子どもだったころ』を出版し同作で国際アンデルセン賞を受賞。1974年7月29日、食道ガンにより死去。没年75歳。

1980年
【死去】木部シゲノ【パロット・実業家】

大正から昭和にかけて活躍したパイロットで女性パイロットのパイオニアとして知られる人物。1923年に第一航空学校に入学しながら運送会社の職員として従事。この頃から男装を始める。同校卒業後の1925年に三等飛行機操縦士免状取得、講演会などを行ない“男装の麗人”として人気を博す。1927年に日本女性初の二等飛行機操縦士免状を取得。1927年に曲技飛行の資格を取得し平壌などでアブロ504Kでデモ飛行を開催。翌年に小倉市などでも飛行を開催するもニューポール24C1戦闘機を操縦した際に墜落事故に遭い、以後は第一航空学校の助教官として勤務。1933年に操縦士を引退しタクシー会社を経営。その後、中国・北京に移住しグライダーの航空教育を行なう。「第二次世界大戦」後に帰国、1952年に日本婦人航空協会(現・日本女性航空協会)を設立し協会理事に就任。1966年に勲六等宝冠章受賞。晩年は羽田空港内協会事務所責任者に就任。1980年7月29日に死去。没年76歳。

1980年
【死去】ルイス・ブニュエル(Luis Buñuel)【映画監督/スペイン・メキシコ】

20世紀に活躍したスペインおよびメキシコの映画監督で主にシュルレアリスムやエロティシズムを描いた耽美的な作品で知られる人物。1925年にフランス・パリへ行き映画撮影所に出入りし助監督の職を得る。スペインに一時帰国しサルバドール・ダリと出会い、1928年に短編映画『アンダルシアの犬』を共同撮影。直後に撮影した『黄金時代』、『糧なき土地』(1933年)は国辱などの理由で公開禁止となりブニュエルは指名手配犯に。「スペイン内戦」中はフランス大使のスタッフとして参加。1949年にメキシコへ渡りコメディ映画『のんき大将』を発表し同国でヒット、翌年には社会主義リアリズム映画『忘れられた人々』でカンヌ映画祭監督賞を受賞。以後はメキシコで『エル』(1953年)などを発表。1961年にスペインに招かれ『ビリディアナ』を撮影、同作はスペイン映画として初のカンヌ国際映画祭グランプリを受賞。1962年に『皆殺しの天使』を発表し、その後はフランスに招かれ『小間使いの日記』(1964年)『昼顔』(1967年)『哀しみのトリスターナ』(1970年)などを撮影。1972年に『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』を発表しアカデミー賞外国語映画賞受賞。1980年7月29日、膵臓ガンにより死去。没年83歳。


1983年
【死去】 デヴィッド・ニーヴン(David Niven)【俳優/イギリス】

20世紀に活躍したイギリスの俳優。サンドハースト王立陸軍士官学校を卒業後、ハイランド軽歩兵師団へ入隊。除隊後はカナダへ渡り職を転々とした後、アメリカへ渡りエキストラ協会へ入会。「第二次世界大戦」中はイギリス陸軍大佐として参加。戦後は再びアメリカへ渡り俳優業を再開、1952年にディック・パウエルらと共にテレビ番組の製作会社フォー・スター・テレビジョン・カンパニーを設立。以降俳優としても成功し始め、1953年に『月蒼くして』でゴールデングローブミュージカル・コメディ部門で主演男優賞を受賞。1958年に『旅路』でアカデミー主演男優賞を受賞。1963年『ピンクの豹』で演じた怪盗ファントムが当たり役となる。1967年『007 カジノ・ロワイヤル』でジェームズ・ボンド役を演じる。晩年は筋萎縮性側索硬化症を患いながら俳優活動を続け、1983年7月29日に同病で死去。没年73歳。死後、敵役で出演した『ピンク・パンサー5 クルーゾーは二度死ぬ』が公開された。

1988年
【死去】ドロシー・ホジキン(Dorothy Crowfoot Hodgkin)【化学者/イギリス】

20世紀イギリスの化学者でX線回折法を発見しノーベル化学賞を受賞したことで知られる人物。10代から結晶学に興味を持ち、1928年にパレスチナの発掘作業に参加。オックスフォード大学入学後は化学と結晶学を学び、その後はX線結晶構造解析のパイオニアであったジョン・デスモンド・バナールのもとで研究を行なう。1935年にバナールとともにペプシンの結晶で回折パターンを発見、1940年代にはコンピュータでX線の実験データを解析しペニシリンの構造決定を、1950年代にはビタミンB12の構造決定を行なう。1965年に女性では2人目のメリット勲章を授章。1969年にインスリンの構造決定を行ない、翌年にブリストル大学名誉総長に就任。1988年7月29日に脳卒中で死去。没年84歳。

1989年
【急死】森敦【小説家】

昭和に活躍した小説家で芥川賞受賞者として知られる人物。1931年頃に菊池寛に見出され、横光利一に師事。1934年に東京日日新聞・大阪毎日新聞で処女作『酩酊舟』が連載される。同年、太宰治や中原中也らと文芸同人誌『青い花』の創刊に参加。その後、地方を転々とし1966年に上京、印刷会社へ勤務する傍ら同人誌『ポリタイア』で『天上の眺め』などの短編を発表。1973年に『月山』で芥川賞を受賞。1987年に発表した『われ逝くもののごとく』が野間文芸賞を受賞。1989年7月29日、急性心不全のため急死。没年77歳。

2003年
【急死】アハメド・フォディ・サンコー(Ahmed Foday Saybana Sankoh)【軍人・活動家・写真家/シエラレオネ共和国】

20世紀シエラレオネの軍人および反政府組織指導者。1956年にイギリス西アフリカ陸軍へ入隊。1971年にクーデター未遂事件を起こし逮捕され、1977年に釈放される。釈放後はガーナへ亡命しその後は写真家として西アフリカ諸国を転々とすることに。1987年にリビアでゲリラ養成訓練に参加、1991年から黒人イスラム教徒を中心に反政府勢力革命統一戦線(RUF)を結成し内戦を指揮。2001年にRUFが武装解除されると裁判にかけられ、公判中の2003年7月29日に心臓発作で急死。没年65歳。

2008年
【死去】メート・パルロフ(Mate Parlov)【ユーゴスラビア・クロアチア/ボクサー】

旧共産圏で初めてボクシングの世界タイトルを獲得したことで知られるプロボクサー。1972年のミュンヘンオリンピックでライトヘビー級金メダリストに輝き、1975年にプロデビューしたサウスポーの技巧派ボクサー。デビュー以来12連勝を飾り、1976年7月10日ドメニコ・アディノルフィに11回KO勝ちを収め、欧州ライトヘビー級王座を獲得。1978年1月7日にミゲル・アンヘル・クエリョを9回KOで沈め、WBC世界ライトヘビー級王者となった。1度の防衛の後に12月2日、マービン・ジョンソン戦で10回KO負けし王座を失った。通算成績27戦24勝(12KO)2敗1引き分け。2008年2月に肺ガンと診断され、そのまま同年7月29日に死亡。没年59歳。