『「ブラック・トム大爆発」直後のジャージーシティの倉庫』

1916年7月30日は、ドイツ国家の諜報員によるアメリカ本土への攻撃として知られる「ブラック・トム大爆発」の発生した日である。
第一次大戦のさなか、連合国側の軍事物資輸送の拠点であったジャージーシティ、ニューヨーク港のブラック・トム地域には当時約4万5千キログラムのTNT火薬と約90万キログラムもの弾薬が保管されており、そこに目を付けたドイツ軍のスパイ、フランツ・フォン・リンテレンらにより放火が実行されるやいなや、地震かと錯覚するような大爆発が数時間にわたり連鎖的に発生した。
その結果4人が死亡、数百名の負傷者と甚大な軍需物資の損害が発生したのだが、それ以上にアメリカ国民に大きな衝撃を与えることになった。
というのも、この大爆発はブラック・トムからは対岸にあたるリバティ島の「自由の女神像」に甚大な被害を与えたからである。
その損害は現在の通貨に換算して200万ドルともいわれ、その結果として腕とトーチにあった観覧室は塞がれることとなった。
2000年9月11日のアメリカ同時多発テロで標的となったワールドトレードセンターの人的被害には遠く及ばないものの、結果的にアメリカの象徴を攻撃することになったこの事件も、アメリカにとっては忘れられない“不幸な出来事”となったのである。
また、驚くべきことにこの事件は、20世紀以降、アメリカ本土が外国から攻撃された唯一の例なのである。
長きにわたり“世界の警察”として世界中のあらゆる国で戦争を繰り広げてきた大国は、その広大な本土をほぼ完全に守り通している。
「ブラック・トム大爆発」は確かに悲劇である。しかしその事件は同時に、アメリカの絶大な軍事力を雄弁にもの語る記憶でもあるのだ。

(写真はWikipedia Black Tom explosionより。Public Domain)

7月30日の不幸

1811年
【処刑】ミゲル・イダルゴ(Miguel Hidalgo y Costilla)【政治家/メキシコ】

"メキシコ独立の父"と称される、メキシコ独立運動の初期の指導者。1808年に「スペイン独立戦争」をきっかけに政治サークルに参加、1810年に武装蜂起。1811年、副王軍との戦いに敗れアメリカへ逃亡を試みるも逮捕。メキシコの独立を目にすることなく、同年7月30日、銃殺刑の後、晒し首。没年58歳。イダルゴが蜂起した日である9月16日は『メキシコ独立記念日』となっている。

1912年
【死去】明治天皇【天皇】

孝明天皇の第二子であり、1867年に日本の第122代天皇に即位した人物。諱は睦仁。幕末期の混乱期を超えて1868年4月6日に「五箇条の御誓文」を発表。近代国家の君主として政治・経済・軍事に携わり、日清戦争、日露戦争で、直接戦争の指揮官として指導に当り、韓国併合や満州経営にも乗りだした。1912年7月頃から糖尿病が悪化し尿毒症を併発。7月29日22時43分に死亡したが、次代天皇即位の犠のうち当日にしなければならないものがあるために宮内省は崩御日時を7月30日午前0時43分と発表。没年59歳。

1930年
【自殺】ジョアン・ガンペール(Joan Gamper)【サッカー選手・実業家/スイス】

スイス出身のサッカー選手であり、世界最大のフットボールクラブのひとつ、FCバルセロナの創設者のひとり。スイスのバーゼルやFCチューリッヒで活躍したガンペールは、引退後、バルセロナに移住。企業スポンサーを持たない、ソシオ(会員)からの出資のみによって運営されるという、"市民のクラブ"としてのFCバルセロナの発展に注力したが、晩年は金銭問題を抱え、鬱病の果てに自殺。没年52歳。

1947年
【死去】幸田露伴【小説家・随筆家】

明治に活躍した理想派の作家のひとりで写実派の尾崎紅葉とともに人気を博し"紅露時代"と呼ばれた。逓信省官立電信修技学校卒業後、電子技師として北海道に赴任。この時、坪内逍遥の作品に出会い、文学の道を目指すことを決め、1887年に帰京。その後、『風流佛』(1889年)、『五重塔』(1893年)などを発表し、人気作家の地位を確立した。1903年以降、作品の発表は途絶えがちであったが『運命』(1919年)を発表し文壇へ復活。1937年に第1回文化勲章を授与。1947年7月23日、肺炎および狭心症により死去。没年80歳。

1965年
【死去】谷崎潤一郎【小説家】

日本文学界に於けるエロティシズムの大家であり、明治時代から昭和期にかけての耽美派文学を牽引した小説家。代表作に『刺青』『痴人の愛』『卍(まんじ)』『蓼喰ふ虫』『春琴抄』等。エロティシズムの中でも、特にマゾヒズム、女性崇拝ともいえるジャンルに於いて飛び抜けた作品を連発し、ノーベル文学賞の候補に挙げられるほどの活躍をしたため、正統な文学界の後進はいうに及ばず、後にマゾヒズム文学でアンダーグラウンド的に活躍した『家畜人ヤプー』の著者・沼正三にまで、多大なる影響を残した。腎不全に加え心不全を併発し79歳没。

1971年
【航空事故】「全日空機雫石衝突事故」

1971年7月30日、岩手県の雫石町上空を飛行していた旅客機・全日空58便(ボーイング727-281)と航空自衛隊の戦闘機F-86Fが飛行中に接触し両機共に墜落した事故。原因は飛行訓練中のF-86Fが訓練空域を逸脱しての飛行を行なったこと、ボーイングの機長が訓練機を視認していたが接触まで回避操作が行なわれなかったことなどが原因とされている。この事故によりボーイングの乗客乗員併せて162人全員が死亡、F-86Fの乗員1人はパラシュート脱出に成功し唯一の生存者となった。

1975年
【行方不明】【未解決事件】「全米トラック運転組合元委員長ジミー・ホッファ失踪事件」

1975年7月30日、全米トラック運転組合元委員長ジミー・ホッファがレストランの駐車場に車を残したまま行方不明となった事件。事件当日、レストランで面会する予定であった人物はマフィア幹部アンソニー・ジアカローネであることが妻の証言でわかっている。ホッファの家族がすぐに捜索届けを出したが、事件は進展せず、1982年に死亡宣告となった。マフィアに暗殺されたと言われているが、現在も事件の真相については不明のままとなっている。

1992年
【航空事故】「トランスワールド航空843便大破事故」

1992年7月30日、トランス・ワールド航空843便(ロッキード L-1011)がアメリカのジョン・F・ケネディ国際空港で離陸時に失敗し胴体後半部が大破した事故。離陸滑走をし車輪が地面に触れた際にスティックシェイカー(失速警報装置)が誤作動し、機長たちが失速警告だと信じたために起きた事故であった。この事故による死者は0人、負傷者は11人となった。

1995年
【未解決事件】【殺人事件】「八王子スーパーナンペイ事件」

1995年7月30日に東京都八王子市にあったスーパーマーケット「ナンペイ」で発生した殺人事件。閉店後の店内2階で何者かに女性従業員3人が拳銃により射殺されているのが発見された。被害者は稲垣則子(当時47歳)、矢吹恵(同17歳)、前田寛美(同16歳)であった。事件は未だ解決されておらず、捜査特別報奨金制度(公的懸賞金制度)の対象事件となっている。警察は強盗説を重視し捜査を続けているが、金庫内の現金や被害者の貴金属などは盗まれていなかったため、強盗説ではなく怨恨説も囁かれている。また、3人とも脳幹を撃ち抜かれ即死状態であったことが確認されたが、事件に使用されていた拳銃は、性能が悪いとされるフィリピン製のスカイヤーズビンガム(リボルバー38口径)であったため、銃に詳しいものの犯行ではないかと言われている。

1997年
【死去】バオ・ダイ(Bao Dai)【皇帝/ベトナム】

ベトナム阮朝(ゲンチョウ)最後の皇帝(1926年〜1945年)。1945年に「ベトナム8月革命」が起こりベトナム民主共和国が成立したため退位。退位後は、ベトナム民主共和国政府の最高顧問となるが、外交代表団として訪れた中国へ亡命。翌年、イギリスの植民地となっていた香港へ移行。1949年、フランスが支援し樹立したベトナム国の元首へ。1955年、ゴ・ディン・ジェムが首相に任命されるとベトナム共和国を樹立させたため、バオ・ダイは廃位させられパリへ亡命。その後、ベトナムに帰国することなく1997年7月30日、脳腫瘍により死去。没年83歳。

2002年
【急逝】岡田正泰【実業家・応援団長】

ヤクルトスワローズの私設応援団「ツバメ軍団」団長として長らく同球団の試合に駆けつけ、『東京音頭』やビニール傘での応援を定着させた人物。本業は看板製作会社を経営。自らフライパンを叩いて応援するなど、等身大のアイデアで国鉄スワローズ創設3年目の1952年からスワローズを熱心に応援し続け、最晩年の2002年7月19日にも札幌での対広島カープ戦に駆けつけて応援していたが、寒暖差で体調を崩し帰京後の7月30日急逝。没年71歳。

2007年
【死去】イングマール・ベルイマン【映画監督/スウェーデン】

20世紀に活躍したスウェーデンを代表する映画監督のひとり。1944年にアルフ・シェーベルイが監督した『もだえ』の脚本を手がけ、翌1945年『Kris(危機)』で監督デビュー。1955年、『Sommarnattens leende(夏の夜は三たび微笑む)』がカンヌ国際映画祭・特設賞「詩的ユーモア賞」を受賞。1950年代後半から1960年代にかけて『Smultronstället(野いちご)』『Jungfrukällan(処女の泉)』『Tystnaden(沈黙)』といった作品を撮り映画監督として不動の地位を築く。1976年、ベルイマンは税務局から告訴されドイツへ亡命、1982年に帰国。同年、超大作『Fanny och Alexander(ファニーとアレクサンデル)』を撮影後、舞台演出家兼脚本家として舞台に専念。2003年、20年ぶりの監督作品『Saraband(サラバンド)』を発表。2007年7月30日、老衰により死去。没年89歳。

2007年
【死亡】ミケランジェロ・アントニオーニ(Michelangelo Antonioni)【映画監督/イタリア】

フェデリコ・フェリーニやルキノ・ヴィスコンティと並び現代イタリア映画の巨匠として活躍した人物。ドキュメンタリー映画数本を手がけた後に、1950年の映画『愛と殺意』で長編劇映画デビュー。1955年の『女ともだち』でヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞。1957年の『さすらい』でロカルノ国際映画祭で金豹賞を受賞するなど、早くも国際的な評価を確立。1960年の『情事』は同年の第13回カンヌ国際映画祭審査員賞を受賞したものの、その上映時にブーイングが鳴り止まない問題作として話題になった。その後『夜』(1961年)で第11回ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞。『太陽はひとりぼっち』(1962年)で第15回カンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞。『赤い砂漠』(1964年)で第25回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞し、『欲望』(1966年)で翌年第20回カンヌ国際映画祭のパルム・ドールを受賞。アンリ=ジョルジュ・クルーゾーに続き、世界三大映画祭全てで最高賞を獲得するという史上2人目の映画監督となった。その後も『砂丘』(1970年)ドキュメンタリー映画『中国』(1972年)等過激な作品を発表し続け、1983年にその功績からヴェネツィア国際映画祭栄誉金獅子賞を受賞した。私生活では1985年に脳卒中で倒れ、以降は半身麻痺と言語障害を患うことに。その後もヴィム・ヴェンダースとの共作『愛のめぐりあい』を製作するなど意欲的に活躍したが、2007年7月30日にローマで死亡。没年94歳。

2014年
【事故死】仲村秀生【声優・ナレーター・俳優】

1974年放送開始の『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの島大介役、1970年からの『あしたのジョー』での力石徹役で活躍した人物。1990年代後半からは自ら「劇団魚座」を設立し演劇活動に力を注いだために声優業をリタイヤ、さらには東京アナウンス学院、代々木アニメーション学院の講師として活動を始めた。私生活ではアルコール依存症や躁鬱病に苛まれ、統合失調症や妄想性人格障害のような症状までもみせていたために晩年まで長らく闘病を続けていたが、2014年6月に体調を崩して治療に専念。そのまま7月30日に入院していた東京都立松沢病院で入浴した際に溺死。没年79歳。

2015年
【死去】ロディ・パイパー("Rowdy" Roddy Piper)【プロレスラー・俳優/カナダ】

スコットランド系カナダ人という出自を活かしたバグパイプ、キルトスカートの出で立ちで一世を風靡し、NWA、WWF(現WWE)のメジャー団体で活躍したカナダ人プロレスラー。人気絶頂期にあった1988年にはジョン・カーペンター監督の映画『ゼイリブ』で主演を務めるなど、俳優としての活躍もみせた。俳優からプロレスに復帰して以降は晩年までWWEで活躍し、2015年7月30日、心臓発作でハリウッドの自宅で死亡。没年61歳。