『「不滅の“ウルフ”千代の富士 貢 第58代横綱」(ベースボールマガジン社刊)の表紙』

2016年7月31日は、大相撲を代表する大横綱であり、その世界的人気にも多大な貢献を果たした千代の富士が死亡した日である。
183センチ、120キロと、力士としては小兵といえる痩身を鍛え上げ、それまでの大相撲力士のアンコ型のイメージを覆す筋骨隆々としたマッチョな体型で、前人未踏の1,000勝を大相撲史上初めて記録した力士であり、幕内最高優勝31回、53連勝など、次々と歴代最高記録を塗り替える様は1990年代の大相撲を一人で支える象徴であった。
そのあまりの強さから後に八百長疑惑やドーピング疑惑が巻き起こったが、どれも千代の富士の強さを貶めるものではなく、逆にそのガチンコの強さを証明するような結果に終わった。
まさに空前絶後の強さを発揮した昭和の大横綱が、「体力の、限界」と振り絞った引退会見も一時代の終焉を象徴する出来事として日本国民の脳裏には今も焼き付いているだろう。
指導者としてはそのあまりに強い信念のために思いのほかリーダーシップを発揮できないままこの世を去ることとなったが、世界的に見てもめざましい発展を遂げたバブル経済、高度成長期の日本を象徴するかのように勝ち続けた大横綱は、その現役時代はもちろん、指導者となった引退後も決して敗者ではあり得なかったのだろう。

(写真は『不滅の“ウルフ”千代の富士 貢 第58代横綱』(ベースボールマガジン社刊)の表紙。Public Domain)

7月31日の不幸

781年
【自然災害】「富士山噴火最古記録」

781年7月31日、富士山噴火の最古の記録が奈良時代末期の朝廷編纂『続日本紀』に記録されている。

1556年
【死去】イグナチオ・デ・ロヨラ(Ignacio López de Loyola)【宗教家/ローマ】

反宗教改革時に「イエスズ会」の創立者のひとりで初代総長となった人物。1506年に親戚の騎士の従者となり軍務について各地を移動していたが、1521年、戦闘中に飛んできた砲弾が足にあたり負傷、療養生活を送ることに。この療養中にイエス・キリストや聖人伝を読み、アッシジのフランチェスコの生き方に影響を受ける。1522年にスペイン・モンセラートのベネディクト会修道院を訪れ、世俗との決別を決意し、マレンザの洞窟にこもり瞑想生活へと入る。この時の経験をもとに書かれた著書が霊性修行とその方法を著した『Exercitia spiritualia(霊操)』である。その後、大学で神学を学んだ後の1534年にイエスズ会の始まりとなった「モンマルトルの誓い」を仲間と行ない聖地巡礼へ。1540年、パウルス3世から承認を受けイエスズ会の初代総長に就任。1556年7月31日、マラリアにより死去。没年64歳。1622年にグレゴリウス15世により列聖。

1875年
【死去】アンドリュー・ジョンソン(Andrew Johnson)【政治家/アメリカ合衆国】

アメリカの第16代副大統領(1865年〜1865年)および第17代大統領(1865年〜1869年)となった人物。グリーンビル市会議員(1828年〜1830)、同市市長(1834年〜1838年)を経て、下院議員へ。1861年の南部11州独立に反対、南北戦争時は南部出身で唯一辞職しなかったテネシー州の議員として、リンカーンの軍事政策を支持。1862年、リンカーンからテネシー州軍政長官に任命。1865年に副大統領に就任、同年リンカーンが暗殺されると大統領へ。晩年は上院議員として過ごし、1875年7月31日、脳卒中で倒れ死去。没年66歳。

1886年
【死去】フランツ・リスト(Franz Liszt)【作曲家・ピアニスト/ハンガリー】

楽譜、鍵盤を見ない即興を重んじた天才的な演奏で”ピアノの魔術師”と呼ばれ、19世紀のドイツで、演奏中に女性を失神させるほどのアイドル的人気を博したピアニスト。作曲家としては代表曲『前奏曲』を始めとした「交響詩」を創始したことで知られ、新ドイツ派を代表する人物である。晩年は白内障、慢性気管支炎、鬱病などを患い、1886年7月31日にバイロイト音楽祭でワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を観劇後に慢性気道閉塞と心筋梗塞で死亡。没年74歳。

1913年
【死去】ジョン・ミルン(John Milne)【鉱山技師・地震学者・考古学者/イギリス】

リバプール出身の鉱山技師、地質学者であり、1876年工部省工学寮に教師として招聘され来日。1880年の日本地震学会設立や大森貝塚の発掘に関わるなどした後に、1886年に設立された 東京帝国大学で工学部教授として鉱山学・地質学を担当した。重要文化財に指定されている「ミルン水平振子地震計」の考案者としても知られている。イギリス帰国中の1913年7月31日にブライト病(腎臓炎の一種)で死亡。没年62歳。

1932年
【政治事件】「ナチ党230議席獲得」

1932年7月31日、ドイツ議会で行なわれた大統領選挙でアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が全584議席の内230議席を獲得し第一党となる。

1941年
【大量虐殺】【ホロコースト】「ユダヤ人問題の最終的解決(ホロコースト)」

1941年7月31日、ナチスの指導者ヘルマン・ゲーリングはが親衛隊(SS)大将ラインハルト・ハイドリヒに対し「ユダヤ人問題の最終的解決」の計画実施を指示。その後、有毒ガスや射殺などの方法でおよそ数百万人ものユダヤ人が殺害された。

1944年
【事故死】アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(Antoine Marie Jean-Baptiste Roger, comte de Saint-Exupéry)【小説家・飛行士・軍人/フランス】

1943年に発表し全世界1億5000万部以上を売り上げるベストセラーとなった児童文学の金字塔『星の王子さま』で知られる小説家であり、フランス空軍で活躍した飛行士、軍人。『夜間飛行』『人間の土地』等、自らの飛行士体験を活かした小説で世界中に愛読者を獲得し、その人気ぶりのあまり、大戦中は敵国であるドイツ軍兵士も彼の所属する軍隊とは戦いを避けたともいわれるほどであった。アメリカに亡命後にも自ら志願して第二次世界大戦の北アフリカ戦線に赴き、最終的には命令を無視する形で偵察飛行に向かい、1944年7月31日に祖国であるフランス内陸部のグルノーブルなどの偵察中に地中海上空で行方不明となった。没年44歳。

1952年
【死去】ワルデマル・ボンゼルス(Waldemar Bonsels)【小説家/ドイツ】

ドイツを代表する児童文学作家であり、日本でもアニメ化された世界的児童文学『蜜蜂マーヤーの冒險』の作者として知られる小説家。反ユダヤ主義の人物としても知られている。没年71歳。

1971年
【国際事件】「加賀市沖不審船事件」

1971年7月31日、石川県加賀市に北朝鮮の工作員2人が不審船で侵入。地元住民から通報を受け、工作員1人が逮捕され、1人は不審船で逃亡。逮捕された工作員は「航行に迷った末の不時着」と供述。その後、この工作員の同行は不明のまま。

1973年
【航空事故】「デルタ航空723便墜落事故」

1973年7月31日、アメリカ・バーモント州バーリントン発ボストン行きのデルタ航空723便(ダグラスDCー9)が、高度を誤るといったパイロットミスでボストン・ローガン国際空港への着陸に失敗し墜落。この事故により乗客乗員を合わせた89人全員が死亡。

1991年
【冷戦】【国際事件】「第一次戦略兵器削減条約(START I)調印(冷戦)」

1991年7月31日、ソビエト連邦モスクワでジョージ・H・W・ブッシュ米国大統領とミハイル・ゴルバチョフソ連大統領が軍縮条約である「第一次戦略兵器削減条約(START I)」に調印し冷戦の実質的終結となった。

1992年
【航空事故】「中国通用航空7522便墜落事故」

南京発アモイ行きの「中国通用航空7522便(Yak-42型)機がオーバーランして離陸直後に墜落した航空事故。乗員10人中の8人と乗客116人中の100人、併せて名中108人が死亡する大事故となった。なお、中国当局による発表では犠牲者数が107人となっているが、他の国際機関による発表は全て108人となっている。

1992年
【航空事故】「タイ国際航空311便墜落事故」

1992年7月31日、バンコク発カトマンズ行きタイ国際航空311便(エアバスA310-304)がカトマンズのトリブバン国際空港へ着陸進入中に同空港北方の山中に激突・墜落した事故。この事故により乗員乗客を合わせた113人全員が死亡。事故原因は悪天候とパイロットミスによるものであった。

1993年
【死去】ボードゥアン1世(Baudouin of Belguim)【王族/ベルギー】

第5代ベルギー国王(1951年〜1993年)。1950年に皇太子となり、翌年譲位を受け王に即位。1960年にスペイン・ファビオラ王妃と婚姻、ベルギー統合に尽力した。1993年7月31日、心不全により死去。没年62歳。

1995年
【死去】山野愛子【美容家】

昭和に活躍した美容家で、日本美容界の先駆者のひとり。「ヤマノグループ」の創設者として知られる人物。1925年、15歳で「御結髪松の家」を開業。戦前に国産パーマネント機を開発、パーマを全国に普及させた。1949年、「山野美容専門学校」を創設、初代校長に就任し、1961年にロサンゼルスに「ヤマノ・ビューティ・カレッジ」を創設。その後、”山野美容帝国”と呼べるネットワークを築き上げた。1995年7月31日、老衰により死去。没年86歳。

2001年
【死去】ポール・アンダースン(Poul William Anderson)【小説家/アメリカ合衆国】

20世紀アメリカの小説家で主にSFやファンタジーのジャンルで知られる人物。大学在学中の1947年にSF雑誌『アスタウンディング』にF・ウォルドロップとの共作『明日の子供たち』で作家デビューを果たす。大学卒業後はフリライターとして活動しながら、1951年に長編第一作『脳波』を出版。1960年にタイム・パトロールシリーズの1作『タイムパトロール』を発表。1970年に代表作のひとつ『タウ・ロゼ』を発表。その後『トラジェディ』(1973年)『空気と闇の女王』(1972)などの作品を発表しローカス賞、ネビュラ賞など多くの賞を受賞。1972年にアメリカSFファンタジー作家協会第6代会長に就任。1997年にはSFやファンタジーで多大な貢献をした作家に授与されるデーモン・ナイト記念グランド・マスター賞を受賞。2001年7月31日にガンのため死去。没年74歳。

2006年
【自殺】吉村昭【小説家】

昭和から平成にかけて活躍した小説家で主に歴史小説やノンフィクションのジャンルで知られる人物。妻は芥川賞受賞作家の津村節子。1950年に学習院大学文政学部文学科へ入学し放送劇を書きながら作家を志す。1952年に文芸部委員長となり短篇を同人誌『赤繪』に発表、同年に同大学の先輩である三島由紀夫と出会う。1953年に学費滞納のため除籍となり事務員をしながら1958年に短篇集『青い骨』を自費出版。同年に雑誌『週刊新潮』へ短篇『密会』を発表して本格的に作家デビュー。その後『鉄橋』『貝殻』(ともに1959年)『透明標本』『石の微笑』(ともに1962年)が芥川賞候補へ。1966年に『星への旅』が太宰治賞を受賞。同年に雑誌『新潮』に長篇ドキュメント『戦艦武蔵』を連載。1972年に『深海の使者』が文藝春秋読者賞を受賞。1973年にドキュメント長編『戦艦武蔵』『関東大震災』が菊池寛賞を受賞。以後も毎日芸術賞、芸術選奨文部大臣賞、大佛次郎賞といった多くの賞を受賞。1997年に日本芸術院会員となる。晩年も日本芸術院第二部長などを勤めるもガンを患い闘病生活へ。2006年7月31日、自宅療養中に「死ぬよ」と長女に告げ自ら点滴とカテーテルポートを引き抜き死去。没年79歳。

2012年
【死去】ゴア・ヴィダル(Gore Vidal)【小説家・俳優/アメリカ合衆国】

20世紀に活躍したアメリカの小説家・俳優。軍人を経て、1946年に軍務経験を元にした小説『Williwaw』でデビュー。1948年、同性愛を肯定したアメリカ文学史上初の『The City and the Pillar (都市と柱)』を出版し論争を呼んだ。同作品はアメリカ国内では反発を受けたが、イギリスを中心にヨーロッパで高い評価を受けた。また、自身も1950年からハワード・オースティンという男性と交際関係にあった。1955年に『Messiah』を出版後、脚本家の世界へ入り、1957年の『Visit to a Small Planet(ある小惑星への訪問)』 、1960年の『The Best Man』がブロードウェイでヒットした。また、1956年からメトロ・ゴールドウィン・メイヤーと契約し、映画『ベン・ハー』の脚本を手がけるが、ノンクレジットとなっている。1968年に20世紀の奇書として有名な『Myra Breckinridge(マイラ)』を出版。1972年から俳優業も行ない、1995年に出演した『セルロイド・クローゼット』では映画界の同性愛嫌悪ついて語るなどしている。2012年7月31日、肺炎により死去。没年86歳。

2015年
【急死】加藤武【俳優】

早稲田大学演劇研究会を経て文学座研究所に入所士、俳優としてのキャリアをスタート。その後長らく文学座代表を務めた人物としても知られる。数々の映画作品に出演し、黒澤明、市川崑、今村昌平ら大物監督から重用され、中でも『犬神家の一族』『悪魔の手毬唄』等の金田一耕助シリーズでの「よし、わかった!」という名台詞で印象的な活躍をみせた。2015年7月31日夕方にサウナ入浴中に昏倒し死亡。没年86歳。同年10月5日に、後に文学座代表となる江守徹を発起人として劇団葬が行なわれた。

2016年
【死去】千代の富士貢【大相撲力士】

1980年代から1990年代に活躍した“ウルフ”の異名で知られる大相撲力士で第58代横綱となった人物。中学時代に第41代横綱千代の山(九重)に勧誘され飛行機に乗りたいがために上京し九重部屋に入門。1970年に初土俵を踏み、翌年に千代の冨士の四股名となる。同年中学卒業後と同時に帰郷する予定であったが東京に留まり相撲に専念。1974年に十両へ昇進し史上初の5文字四股名の関取に昇進。1975年に新入幕を果たし1978年に初の敢闘賞を受賞。入幕から脱臼に悩まされ、幕下となるも1979年に再び幕内へ復帰。以後、成績を上げ続け1981年に横綱へ昇進、史上初の同年中に関脇・大関・横綱の地位で優勝するという記録を達成。1982年に3連覇を達成、1985年に全勝優勝および史上3人目となる年間80勝を達成。その後も力士として活躍し続け1990年に通算1000勝の記録を達成。1991年に1045勝437敗159休(125場所)で現役を引退。引退後は九重部屋の親方、大相撲中継の解説者、日本相撲協会の役職を歴任。2015年に還暦土俵入りを行なうも同年膵臓ガンを患い、2016年7月31日に同病で死去。没年61歳。同年10月に行なわれた『第58代横綱千代の富士 お別れ会』では多くの関係者やファンが参加した。また同年8月には従四位となり旭日中綬章を授章することとなった。