『50フラン紙幣に描かれたサン=テグジュペリの肖像』

1944年7月31日は、フランスの小説家、詩人、そしてパイロットであるアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリが偵察飛行に出て行方不明になった日である。
『夜間飛行』『人間の土地』等、自らの飛行士体験を活かした小説で世界中に愛読者を獲得し、その人気ぶりのあまり、大戦中は敵国であるドイツ軍兵士も彼の所属する軍隊とは戦いを避けたともいわれるほどであった。
アメリカに亡命後の1943年に発表した児童文学の金字塔『星の王子さま』は全世界で1億5000万部以上を売り上げ、サン=テグジュペリの新境地を開いたことでその小説家としての成功を決定づけたが、飛行士としてのサン=テグジュペリも彼の中には依然として存在していた。
自ら志願して第二次世界大戦の北アフリカ戦線に赴き、最終的には命令を無視する形で偵察飛行に向かい、1944年7月31日に祖国であるフランス内陸部のグルノーブルなどの偵察中に地中海上空で行方不明となった。
その死後、50フラン紙幣の肖像として選ばれた際も、飛行機とヨーロッパ・アフリカ大陸の地図、そして星の王子様というサン=テグジュペリの全てがともに描かれた。
ちなみに、1952年の7月31日にはドイツを代表する児童文学作家、『蜜蜂マーヤーの冒險』の作者として知られるワルデマル・ボンゼルスが死亡している。その意味で、7月31日は、《世界的児童文学の大家を失った日》として記憶されるべき日なのかもしれない。
さらにいえば、この日は1973年の「デルタ航空723便墜落事故」1992年の「タイ国際航空311便墜落事故」1992年の「中国通用航空7522便墜落事故」と、サン=テグジュペリの行方不明を併せると4件もの航空事故が集中している日でもある。あらゆる意味で航空関係者には注意すべき日だとも言えるだろう。

(写真はWikipedia French francより。Public Domain)

7月31日の不幸

1556年
【死去】イグナチオ・デ・ロヨラ(Ignacio López de Loyola)【宗教家/ローマ】

反宗教改革時に「イエスズ会」の創立者のひとりで初代総長となった人物。1506年に親戚の騎士の従者となり軍務について各地を移動していたが、1521年、戦闘中に飛んできた砲弾が足にあたり負傷、療養生活を送ることに。この療養中にイエス・キリストや聖人伝を読み、アッシジのフランチェスコの生き方に影響を受ける。1522年にスペイン・モンセラートのベネディクト会修道院を訪れ、世俗との決別を決意し、マレンザの洞窟にこもり瞑想生活へと入る。この時の経験をもとに書かれた著書が霊性修行とその方法を著した『Exercitia spiritualia(霊操)』である。その後、大学で神学を学んだ後の1534年にイエスズ会の始まりとなった「モンマルトルの誓い」を仲間と行ない聖地巡礼へ。1540年、パウルス3世から承認を受けイエスズ会の初代総長に就任。1556年7月31日、マラリアにより死去。没年64歳。1622年にグレゴリウス15世により列聖。

1875年
【死去】アンドリュー・ジョンソン(Andrew Johnson)【政治家/アメリカ合衆国】

アメリカの第16代副大統領(1865年〜1865年)および第17代大統領(1865年〜1869年)となった人物。グリーンビル市会議員(1828年〜1830)、同市市長(1834年〜1838年)を経て、下院議員へ。1861年の南部11州独立に反対、南北戦争時は南部出身で唯一辞職しなかったテネシー州の議員として、リンカーンの軍事政策を支持。1862年、リンカーンからテネシー州軍政長官に任命。1865年に副大統領に就任、同年リンカーンが暗殺されると大統領へ。晩年は上院議員として過ごし、1875年7月31日、脳卒中で倒れ死去。没年66歳。

1886年
【死去】フランツ・リスト(Franz Liszt)【作曲家・ピアニスト/ハンガリー】

楽譜、鍵盤を見ない即興を重んじた天才的な演奏で"ピアノの魔術師"と呼ばれ、19世紀のドイツで、演奏中に女性を失神させるほどのアイドル的人気を博したピアニスト。作曲家としては代表曲『前奏曲』を始めとした「交響詩」を創始したことで知られ、新ドイツ派を代表する人物である。晩年は白内障、慢性気管支炎、鬱病などを患い、1886年7月31日にバイロイト音楽祭でワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を観劇後に慢性気道閉塞と心筋梗塞で死亡。没年74歳。

1913年
【死去】ジョン・ミルン(John Milne)【鉱山技師・地震学者・考古学者/イギリス】

リバプール出身の鉱山技師、地質学者であり、1876年工部省工学寮に教師として招聘され来日。1880年の日本地震学会設立や大森貝塚の発掘に関わるなどした後に、1886年に設立された 東京帝国大学で工学部教授として鉱山学・地質学を担当した。重要文化財に指定されている「ミルン水平振子地震計」の考案者としても知られている。イギリス帰国中の1913年7月31日にブライト病(腎臓炎の一種)で死亡。没年62歳。

1944年
【事故死】アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(Antoine Marie Jean-Baptiste Roger, comte de Saint-Exupéry)【小説家・飛行士・軍人/フランス】

1943年に発表し全世界1億5000万部以上を売り上げるベストセラーとなった児童文学の金字塔『星の王子さま』で知られる小説家であり、フランス空軍で活躍した飛行士、軍人。『夜間飛行』『人間の土地』等、自らの飛行士体験を活かした小説で世界中に愛読者を獲得し、その人気ぶりのあまり、大戦中は敵国であるドイツ軍兵士も彼の所属する軍隊とは戦いを避けたともいわれるほどであった。アメリカに亡命後にも自ら志願して第二次世界大戦の北アフリカ戦線に赴き、最終的には命令を無視する形で偵察飛行に向かい、1944年7月31日に祖国であるフランス内陸部のグルノーブルなどの偵察中に地中海上空で行方不明となった。没年44歳。

1952年
【死去】ワルデマル・ボンゼルス(Waldemar Bonsels)【小説家/ドイツ】

ドイツを代表する児童文学作家であり、日本でもアニメ化された世界的児童文学『蜜蜂マーヤーの冒險』の作者として知られる小説家。反ユダヤ主義の人物としても知られている。没年71歳。

1992年
【航空事故】「中国通用航空7522便墜落事故」

南京発アモイ行きの「中国通用航空7522便(Yak-42型)機がオーバーランして離陸直後に墜落した航空事故。乗員10人中の8人と乗客116人中の100人、併せて名中108人が死亡する大事故となった。なお、中国当局による発表では犠牲者数が107人となっているが、他の国際機関による発表は全て108人となっている。

1993年
【死去】ボードゥアン1世(Baudouin of Belguim)【王族/ベルギー】

第5代ベルギー国王(1951年〜1993年)。1950年に皇太子となり、翌年譲位を受け王に即位。1960年にスペイン・ファビオラ王妃と婚姻、ベルギー統合に尽力した。1993年7月31日、心不全により死去。没年62歳。

1995年
【死去】山野愛子【美容家】

昭和に活躍した美容家で、日本美容界の先駆者のひとり。「ヤマノグループ」の創設者として知られる人物。1925年、15歳で「御結髪松の家」を開業。戦前に国産パーマネント機を開発、パーマを全国に普及させた。1949年、「山野美容専門学校」を創設、初代校長に就任し、1961年にロサンゼルスに「ヤマノ・ビューティ・カレッジ」を創設。その後、"山野美容帝国"と呼べるネットワークを築き上げた。1995年7月31日、老衰により死去。没年86歳。

2012年
【死去】ゴア・ヴィダル(Gore Vidal)【小説家・俳優/アメリカ合衆国】

20世紀に活躍したアメリカの小説家・俳優。軍人を経て、1946年に軍務経験を元にした小説『Williwaw』でデビュー。1948年、同性愛を肯定したアメリカ文学史上初の『The City and the Pillar (都市と柱)』を出版し論争を呼んだ。同作品はアメリカ国内では反発を受けたが、イギリスを中心にヨーロッパで高い評価を受けた。また、自身も1950年からハワード・オースティンという男性と交際関係にあった。1955年に『Messiah』を出版後、脚本家の世界へ入り、1957年の『Visit to a Small Planet(ある小惑星への訪問)』 、1960年の『The Best Man』がブロードウェイでヒットした。また、1956年からメトロ・ゴールドウィン・メイヤーと契約し、映画『ベン・ハー』の脚本を手がけるが、ノンクレジットとなっている。1968年に20世紀の奇書として有名な『Myra Breckinridge(マイラ)』を出版。1972年から俳優業も行ない、1995年に出演した『セルロイド・クローゼット』では映画界の同性愛嫌悪ついて語るなどしている。2012年7月31日、肺炎により死去。没年86歳。

2015年
【急死】加藤武【俳優】

早稲田大学演劇研究会を経て文学座研究所に入所士、俳優としてのキャリアをスタート。その後長らく文学座代表を務めた人物としても知られる。数々の映画作品に出演し、黒澤明、市川崑、今村昌平ら大物監督から重用され、中でも『犬神家の一族』『悪魔の手毬唄』等の金田一耕助シリーズでの「よし、わかった!」という名台詞で印象的な活躍をみせた。2015年7月31日夕方にサウナ入浴中に昏倒し死亡。没年86歳。同年10月5日に、後に文学座代表となる江守徹を発起人として劇団葬が行なわれた。