『米海軍駆逐艦マドックから撮影した3隻の北ベトナム軍P-4魚雷艇』

1964年8月2日は、本格的なアメリカによる「ベトナム戦争」介入のきっかけとなった、「トンキン湾事件」の起きた日である。
この日、偵察をしていたマドックを南ベトナム軍の戦艦と勘違いした北ベトナム軍は、米艦マドックに向けて2発の魚雷が発射した。
即座にこれに応じたマドックは反撃をみせ、P-4魚雷艇のうち1隻を撃沈している。
さらに「4日にも北ベトナム軍からの攻撃を元に反撃をみせた米軍」と公式にはいわれていたが、実は4日のニュースはアメリカ軍による捏造であり、ベトナム戦争参戦への謀略であることが、1971年にニューヨークタイムズ紙に発表された「ペンタゴンペーパー」で明らかになった。
2003年からのイラク戦争でも明らかになったアメリカの戦争戦略、「相手の先制攻撃への反撃という大義名分を捏造する」という常套手段(まだ見ぬ大量破壊兵器の存在を確認したという理由でフセイン政権下のイラクとの戦争に突入)は、この時、自国メディアにより明らかになった。
この哀しむべきやり方は、今後も繰り返されるのであろうか。
そしてその時、未来のアメリカは、自らの嘘を暴けるのであろうか?

(写真はWikipedia Gulf of Tonkin incidentより)

8月2日の不幸

1667年
【自殺】フランチェスコ・ボッロミーニ(Francesco Borromini)【建築家/イタリア】

イタリアのバロックを代表する建築家のひとり。代表作にはサン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ聖堂などがある。9歳頃から石工の修行をはじめ、20歳頃、石工として認められバロック建築の先駆者であるカルロ・マデルノの助手となる。1629年、マデルノが死去すると、サン・ピエトロ大聖堂の工事主任を引き継いだベルニーニのもとで働くが不仲となり、1634年から独立。その後、ベルニーニが建築家として活躍しだすと神経症を発症し、1667年8月2日に剣の上に倒れるようにして自殺。没年67歳。

1849年
【死去】ムハンマド・アリー(Muhammad Ali of Egypt)【政治家/エジプト】

"近代エジプトの父"と呼ばれたムハンマド・アリー朝の初代君主(1805年〜1849年)。ナポレオンによるエジプト遠征時から台頭し、1805年にオスマン帝国・エジプト総督に就任。1831年からエジプトの富国強兵政策を推進するため「第一次エジプト・トルコ戦争」を開戦、勢力を伸ばすもイギリスの介入により頓挫。1838年エジプトの独立を宣言。1839年再び「第二次エジプト・トルコ戦争」を起こすもイギリスに敗戦。1841年総督の地位が国際的に認められ「ムハンマド・アリー朝」の初代君主となった。1848年に総督を退位、翌1849年8月2日に老衰により死去。推定没年齢80歳。

1922年
【死去】グラハム・ベル(Alexander Graham Bell)【発明家・化学者・技術者/スコットランド】

聴覚機器の研究から転じて、世界初の実用的電話の発明をした人物。飛行機や水中翼船の研究でも知られ、聾者教育に務めた人物でもある。また、1888年には「ナショナルジオグラフィック協会」の創設にも関与したことでも知られている。1922年8月2日に糖尿病の合併症で死亡。没年75歳。最後は妻名ベルの「私を置いていかないで」の言葉に手話で「いいえ」のサインを送り意識を失なったという。

1931年
【死去】【夭折】人見絹枝【陸上競技選手】

昭和に活躍した陸上競技選手。走幅跳の元世界記録保持者および日本人女性として初めてオリンピックメダリストとなった人物。1923年、高校時代から走幅跳で当時の日本最高記録(非公認)4メートル67センチメートルを出し優勝するなどの活躍を見せ、大学は二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)へ進学。大学在学中も陸上競技で活躍し、三段跳で10メートル33センチメートルを出し当時の世界最高記録(現在非公認)を樹立。卒業後、二階堂体操塾の研修生となり、三段跳の記録更新や砲丸投の日本新記録を出すなど陸上競技大会で次々に優勝を果たす。1928年、アムステルダムオリンピックに出場、女子個人種目の800メートル走で銀メダルとなり日本人女性で初のメダリストへ。1930年、国際女子オリンピック大会出場するも結果は振るわず帰国。その後も大会などが続く中、1931年3月25日に肋膜炎で入院。同年、肺炎を併発し、8月2日に乾酪性肺炎で死去した。没年24歳。

1934年
【死去】パウル・フォン・ヒンデンブルク(Paul von Hindenburg)【政治家/ドイツ国】

第一次大戦の「タンネンベルクの戦い」で活躍した軍人およびドイツ国の第2代大統領(1925年〜1934年)となった人物。第一次大戦の活躍によりドイツの国民的英雄となった後、1925年に大統領選に出馬し当選。1933年にアドルフ・ヒトラーを首相に任命しナチス政権が樹立。1934年8月2日、肺ガンにより死去。没年86歳。

1964年
【ベトナム戦争】「トンキン湾事件」

1964年8月2日、偵察をしていたマドックを南ベトナム軍の戦艦と勘違いした北ベトナム軍は、米艦マドックに向けて2発の魚雷が発射。即座にマドックは反撃をみせ、P-4魚雷艇のうち1隻を撃沈した。さらに「4日にも北ベトナム軍からの攻撃を元に反撃をみせた米軍」と公式にはいわれていたが、実は4日のニュースはアメリカ軍による捏造であり、ベトナム戦争参戦への謀略であることが、1971年にニューヨークタイムズ紙に発表された「ペンタゴンペーパー」で明らかになった。この事件を期に米軍はベトナム戦争に本格的に参戦するようになった。

1980年
【テロ】「ボローニャ駅爆破テロ事件」

1980年8月2日にイタリアのボローニャ中央駅で発生した爆破テロ事件。事件当初、駅構内で起きた爆発は事故と推定されていたが、爆発は二等待合室内に置かたスーツケース内に仕掛けられた即席爆発装置であることがわかりテロと判明した。事件後、NAR(ネオファシズムテロ組織の武装革命中核)のメンバーであるヴァレリオ・フィオラバンティ、フランチェスカ・マンブロが逮捕され終身刑となった。この事件による死者は85人、負傷者は200人以上となっている。

1985年
【航空事故】「デルタ航空191便墜落事故」

1985年8月2日、アメリカのテキサス州ダラス・フォートワースで起こった墜落事故。墜落したのはデルタ航空191便(ロッキード L-1011-385-1 トライスター)でダラス・フォートワース空港に着陸前に急降下・旋回をした後、滑走路手前の高速道路の空地へ墜落。事故原因は、マイクロバースト現象と呼ばれる突風によるものであった。この事故により高速道路を走行していたドライバー1人を含む、135人が死亡、27人が負傷した。

1997年
【死去】ウィリアム・S・バロウズ(William Seward Burroughs II)【小説家・詩人/アメリカ合衆国】

ジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグとともに1955年〜1960年代半ば頃に隆盛しヒッピー層を中心に若者たちに熱狂的に支持されたたアメリカ文学界の新しい流れ"ビートニク"の中心的存在だった小説家、詩人。1959年の代表作『裸のランチ』はアメリカ政府からは発禁処分を受けるほど危険な作品と見なされたが、世界中の多くのアーティストに愛され、1992年にデヴィッド・クローネンバーグにより映画化されている。また"カットアップ"と呼ばれる手法を考案した人物としても知られ、その技法は後年、カート・コヴァーンらに強い影響を与えている。私生活では長期にわたりヘロイン中毒等のドラッグの依存症に苦しみ、1951年にはメキシコシティでの生活中に2番目の妻であるジョーン・ヴォルマーを泥酔状態で行なった"ウィリアム・テル・ゲーム"の末に射殺するなど、荒廃したエピソードには事欠かない。1997年8月2日に心臓病の合併症で死亡。83歳没。セントルイスのベルフォンテイン墓地にあるその墓の墓碑銘には"American Writer"と刻まれている。

1997年
【死去】【エイズ死】フェラ・クティ(Fela Anikulapo Kuti )【ミュージシャン・作曲家・運動家/ナイジェリア】

1960年代に"アフロ・ビート"を創り上げたミュージシャンであり、アフリカ大陸史上最も実験的でカリスマ的魅力を誇ったといわれる作曲家。レコードに収録した曲は二度と演奏しないなど、その膨大な作品群は、最も把握が困難なアーティストのひとりともいわれている。ロンドン・トリニティ音楽大学への留学、アメリカツアーなどの経験を元に自らの音楽を完成させ、1970年にナイジェリア帰国後、「アフリカ・シュライン」と名付けた会場での演奏を中心に絶大な人気を獲得。また、黒人解放運動家としても活躍し、時には政府からの弾圧により不当逮捕や身柄の拘束も味わったが、生涯強烈なメッセージを保ち続けた。私生活ではカラクタ共和国と呼ばれる自宅にコミューンを築き、1978年には政府からの弾圧への対抗策としてそこにいたバンドのメンバー、ダンサー、シンガーら27人と結婚式を挙げるなど、生涯を通じセンセーショナルな話題を振りまき続けた。のエイズの合併症により58歳没。

2005年
【航空事故】「エールフランス358便事故」

2005年8月2日にカナダのトロント・ピアソン国際空港でエールフランス358便(エアバスA340-300)が滑走路をオーバーラン後、炎上した事故。原因は悪天候と操縦ミスのよるものであった。この事故による負傷者は43人。機体は炎上し全損したにもかかわらず、死者は出なかったため"トロントでの奇跡"などと呼ばれている。

2006年
【夭折】ルイゼル・ラモス(Luisel Ramos)【モデル/ウルグアイ】

ウルグアイのファッションモデル。ウルグアイで開催されたファッション・ウィーク中に倒れ、2006年8月2日に摂食障害による心不全により死亡した。没年22歳。死亡当時、身長175センチに対し体重は44.5キログラムしかなく、このルイゼルの死によって欧米モデルの最低BMI値は18と規定された。また、イタリアでは0サイズのモデルは出場禁止となった。なお、2007年に妹であるモデルのエリアナ・ラモスも同じ死因により18歳で死去している。

2008年
【死去】赤塚不二夫【漫画家】

痛烈な皮肉と過激でシュールな笑いを追求した唯一無二の作風で、1960年代以降に社会を席巻したギャグマンガの大家。手塚治虫、藤子不二雄らを輩出したトキワ荘の住人としても知られ、『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』『天才バカボン』『もーれつア太郎』等、大ヒット漫画を連発し、アニメ化も相まってその作品は国民的人気を獲得した。その作品に違わぬ奇天烈なパーソナリティを活かしテレビバラエティなどでも活躍し、実生活でも交流の深かった山下洋輔、山本晋也、由利徹、タモリ、たこ八郎、所ジョージらと日活ロマンポルノ『気分を出してもう一度』映画『下落合焼とりムービー』を製作している。人気作家となった1990年代以降はアルコール依存症は強まり、入退院を繰り返していた。1997年12月に食道ガンで入院、民間療法での治療を選択したが、翌年悪化し手術を受ける。その後も喫煙・飲酒は続けるなど変わらぬパブリック・イメージを堅持したが、2000年に急性硬膜化血腫で緊急入院。2002年の脳内出血以降は創作を引退した。2004年からは植物状態となり、2008年8月2日に死亡。没年72歳。8月7日に行なわれた告別式では藤子不二雄Ⓐら著名人が弔辞を読み上げたが、その中でも素人時代に見出されたという関係性の深かったタモリが読んだ白紙の弔辞が、「私もあなたの数多くの作品のひとつです」という言葉とともに話題となった。

2009年
【急死】古橋廣之進【水泳選手】

終戦直後の打ちひしがれた日本社会の中、国際的に華々しい活躍をし、"フジヤマのトビウオ"の異名で日本国民の希望となった伝説的水泳選手。軍事工場での作業中に左手中指を切断するという身体的ハンデにもかかわらず、次々と世界記録を塗り替え、中でも1949年8月にロサンゼルスで開催された全米選手権に招待された際の、400メートル自由形4分33秒3、800メートル自由形9分33秒5、1500メートル自由形18分19秒0という3種同時に世界新記録を樹立した活躍で世界的な名声を獲得した。引退後は日本オリンピック委員会会長、アトランタオリンピック日本選手団団長日本学生トライアスロン連合初代会長を歴任し、1976年から務め続けた国際水泳連盟副会長の再選を決めたローマのホテルにて2009年8月2日に心不全で急死。没年80歳。