『原爆投下直後の広島市の写真に記入されたポール・ティベッツ米陸軍大佐のサイン』

1945年8月6日は、第二次世界大戦の太平洋戦争終盤において、アメリカ軍が日本の広島に原子爆弾を投下した日である。
この人類初となる原子力爆弾の使用は、午前8時15分に行なわれたが、そのたった一発の爆弾で推定9万〜16万人の命を奪ったとされている。当時の広島市の人口が約35万人であったため、30〜50パーセントもの市民がたった一発の原爆により命を奪われたということになる。
この人類史でも類をみない大規模殺傷兵器の使用は、7月25日にトルーマン大統領によって決定され、ポール・ティベッツ陸軍大佐のチームがB-29“エノラ・ゲイ(ティベッツの母の名)”に乗り込み、原子力爆弾“リトルボーイ”を投下した。
この写真は、戦勝のヒーローとなったティベッツ大佐がどこかでサインを求められた際にサインしたものであろうが、想像するだにおぞましいサイン色紙である。
ちなみに、戦後彼は広島空爆を再現する航空ショー(キノコ雲付き)も行なっており、さすがの日本政府も抗議し、米国側が謝罪したという経緯もある。
古来より首狩り族は刈った首を飾ってきた。釣り人は釣った魚の大きさを誇ってきた。ならばパイロットがその甚大な爆破記録を誇っても不思議ではない。
しかし、このサイン色紙を見て感じる“おぞましさ”については、我々が生きてゆく限り考え続けなければならないだろう。

(Wikipedia Atomic bombings of Hiroshima and Nagasakiより使用)

8月6日の不幸

258年
【処刑】シクストゥス2世(Sixtus II)【ローマ教皇/イタリア】

3世紀イタリアで第24代ローマ教皇(257年〜258年)となった人物。257年にローマ教皇に即位し翌年ローマ皇帝プブリウス・リキニウス・ウァレリアヌスの迫害により、258年8月6日に斬首され死去。没年齢不明。死後は殉教者として列聖された。

1221年
【死去】ドミニコ(Dominico)【修道士/イタリア】

12世紀イタリアのカトリックの修道士でドミニコ会創設者として知られる人物。スペイン・パレンシアの学校で哲学や神学を学び、カトリック伝道のためフランス・ラングドック地方へ赴く。その後、南フランス、スペインを説教をしながら巡り1216年にドミニコ会を結成。1216年にローマ教皇ホノリウス3世に認可される。貧困の中、1221年8月6日に死去。推定没年齢51歳。1234年に列聖された。

1272年
【急死】【夭逝】イシュトヴァーン5世(V. István)【王族/ハンガリー王国】

13世紀ハンガリー王国アールパード朝の国王(1239年〜1272年)となった人物。ハンガリー王ベーラ4世の長男として生まれ、1241年に「モヒの戦い」でハンガリー軍がモンゴル軍に敗戦したため、ダルマチア(現・クロアチア)で避難生活を送る。帰国後の1246年にクロアチア、スラヴォニア、ダルマチア統治のためクマン人族長の娘エルジェーベトと婚姻。1257年に父ベーラ4世に対し挙兵し、トランシルヴァニア地方の統治権を奪取。翌年にオーストリア・スティリアでの反乱の鎮圧に成功しスティリア公に就任。1260年「クレッセンブルンの戦い」でボヘミア軍に敗北しスティリア広領をボヘミア軍へ譲渡する。1261年にベーラ4世とともにブルガリア帝国に対し攻撃を開始。その後ベーラ4世と対立し内戦が勃発。1270年にベーラ4世が死去するとハンガリー王に即位。国内の混乱が続く1272年にバーン・ケーセギ・ヘンリクら貴族に息子ラースロー4世が誘拐され、救出計画を立てた直後の1272年8月6日に急死。没年32歳。

1414年
【死去】ラディズラーオ1世(Ladislao I)【王族/イタリア】

14世紀から15世紀イタリアでナポリ王(1386年〜1389年・1399年〜1414年)となった人物。ナポリ王カルロ3世の子として生まれ、1386年にナポリ王に即位。1389年に即位に対し反対していた貴族たちによりナポリから追放される。1399年に王位を奪還し、1401年にローマ教皇ボニファティウス9世によりハンガリー王へ指名されるも実質認められず。その後、教会大分裂によりローマ教皇庁とアヴィニョン教皇庁へ分裂、ナポリ王位を巡りローマ側がラディズラーオ、アヴィニョンがルイ2世を支持したため混乱が続くことに。1408年にローマを占拠、翌年にトスカーナへ侵攻するもルイ2世側に敗北しナポリへ撤退。再びローマへ侵攻を試みるも1414年8月6日に死去。没年38歳。

1458年
【死去】カリストゥス3世(Calixtus III)【ローマ教皇/イタリア】

15世紀イタリアで第209代ローマ教皇(1455年〜1458年)となった人物。1394年に教皇ベネディクトゥス13世の元でレリダ大聖堂参事会員として従事。1429年にバレンシア司教に就任。1455年にローマ教皇に即位。即位後は甥っ子を枢機卿にするといった縁故主義のためローマ市民から反発が起こることに。1458年8月6日に死去。没年79歳。死後、カリストゥス3世がスペインの貴族ボルジア家出身であったため、ボルジア家に対するローマ市民の怒りが爆発、暴動が起こることとなった。

1660年
【急死】ディエゴ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez)【画家/スペイン】

17世紀バロック期のスペインを代表する画家のひとり。1611年頃に画家フランシスコ・パチェーコへ弟子入りし、1617年に独立。独立後は『卵を料理する老婆と少年』(1618年)といった厨房画を多く描く。1623年、国王フェリペ4世により宮廷画家となり王族や宮廷の人々を描くことに。以後『バッカスの勝利』(1629年)『ブレダの開城』(1635年)『ラス・メニーナス』(1656年)『青いドレスのマルガリータ王女』(1659年)など多くの作品を発表。晩年まで宮廷画家として活躍し1660年8月6日に急死。没年61歳。死因については過労死という説も。

1875年
【暗殺】ガブリエル・ガルシア・モレノ(Gabriel García Moreno)【政治家・弁護士・ジャーナリスト/エクアドル】

19世紀エクアドルの政治家および弁護士、ジャーナリストで第10代・第12代・第16代・第18代大統領(1859年〜1865年・1869年〜1875年)となった人物。大学で神学と法律を学び、弁護士およびジャーナリストとなる。1857年に上院議員に選出され、1859年に大統領へ就任。1869年に憲法改正を行ないカトリックを国家の宗教として定める。 大統領に就任中の1875年8月6日に元軍人ファウスティーノ・レムス・ラヨらにより暗殺された。没年53歳。モレノ暗殺はフリーメーソンが関与していると言われている。

1890年
【死刑】「最初の電気椅子による処刑」

ニューヨーク州のオーバーン刑務所で、内縁の妻を手斧で殺害したウィリアム・ケムラーに対し史上初の電気椅子を使った死刑が執行された。最初の17秒の電流で死んだかと思われたが、まだ息があったためにさらに8分のショックを与え、最終的には人体が燃えるという顛末に社会的な批判が相次いだ。

1930年
【怪事件】【未解決事件】「ニューヨーク州最高裁判所判事失踪事件」

1930年4月に当時のニューヨーク州知事、フランクリン・ルーズベルトより、州最高裁判所の判事に任命されたジョセ・フクレーターが、8月6日夜、ニューヨーク西45番街のレストランで友人と食事をし、1人でタクシーに乗ったの目撃情報を最後に行方不明に。政界汚職に関与したとの噂が出たが、現在もその消息は不明のまま、1939年6月6日、死亡宣告を受けた。

1942年
【夭逝】アンナ【隔離児/アメリカ合衆国】

20世紀アメリカの隔離児で5歳まで物置に監禁されていた少女。1932年に生まれ、養育院や乳児院をたらい回しにされた後、祖父のもとで家族から育児放棄をされる。5歳の時に農家の物置に閉じ込められていたところを救出される。1938年に新聞『ニューヨーク・タイムズ』に報じられる。同年に養育院から里親の元へいくも1939年に障害児のための教育施設へ移る。1942年8月6日、レプトスピラ性黄疸により死去。没年6歳。

1945年
【戦争】「広島市への原子爆弾投下」第二次世界大戦終盤において、アメリカ軍が日本の広島に原子爆弾を投下。この人類初となる原子力爆弾の使用は、午前8時15分に行なわれたが、そのたった一発の爆弾で推定)〜16万人の命を奪ったとされている。当時の広島市の人口が約35万人であったため、30〜50パーセントもの市民が原爆により命を奪われたということになる。
1945年
【戦死】粟屋仙吉【政治家・官僚】

宮城県仙台市に生まれ、東京帝国大学法学部を卒業後、内務省に入省。高知県警察部長、愛知県警察部長、大阪府警察部長を歴任し、1937年に第31代大分県知事に就任。その後も農林省経済部長、水産局長、馬政局長官を歴任し1942年に隠居していた。しかし大蔵大臣の賀屋興宣の要請で1943年に広島市長に就任。その在任中にアメリカによる広島への原爆投下が発生し、多くの市民とともに被爆死した。没年51歳。

1949年
【殺人事件】【冤罪】「弘前大学教授夫人殺人事件」

1949年8月6日、青森県弘前市の弘前医科大学教授・松永藤雄の妻すず子が寄宿先で刺殺され、無職の那須隆が逮捕されるも後に冤罪判明した一連の事件。那須が11年の服役を終えた時効後に当時那須の知人であった滝谷福松が真犯人であることを自ら供述。1977年に再審判決公判が行なわれ、那須は27年ぶりに無罪となった。

1969年
【死去】テオドール・アドルノ(Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund)【哲学者・社会学者/ドイツ】

20世紀ドイツの哲学者および社会学者でフランクフルト学派を代表する哲学者のひとり。フランクフルト大学で哲学や社会学、音楽などを学び在学中に音楽批評を行なう。大学卒業後は作曲を学ぶも再び音楽批評活動へ戻り、前衛音楽誌『アンブルッフ』の編集長を務める。1934年にイギリスへ渡り、この頃ナチ全国青年指導部の広報誌月刊『ムジーク』に論評を発表。その後、ナチスの機関誌に批評を掲載したことを批判される。1938年にアメリカへ渡り「第二次世界大戦」後の1949年にフランクフルト大学社会研究所が再開すると帰国し所長に就任。以降、『権威主義的人格』(1950年)『美学理論』(1970年)などの哲学書を発表し1969年8月6日に急性心筋梗塞で死去。没年65歳。

1973年
【死去】フルヘンシオ・バティスタ(Fulgencio Batista y Zaldivar)【政治家・軍人/キューバ】

20世紀キューバの政治家および軍人で第9代・第12代大統領(1940年〜1944年・1952年〜1959年)となった人物。1921年にキューバ軍へ参加、軍曹となり1933年の「軍曹の反乱」でクーデターを起こし臨時政権を樹立。同年にラモン・グラウ・サンマルティンが大統領へ就任し自身は軍参謀総長へ就任。1936年にミゲル・マリアノ・ゴメス・アリアス政権下になると国防相兼軍総司令官に就任し政権を掌握。1938年に共産党を合法化しキューバ真正革命党へ対抗。1940年に大統領へ就任。「第二次世界大戦」が起こるとバティスタの推すカルロス・サラドリガスが選挙で大敗したためアメリカへ亡命しカジノ経営を行なう。1948年に帰国し上院議員に当選し政界へ復帰。1951年に大統領選出馬を表明するも支持を得られず、翌年クーデターを起こし、大統領へ就任。1953年に弁護士フィデル・カストロが武装蜂起したため逮捕・投獄し15年の懲役へ。1958年「キューバ革命」が勃発、同年に辞任演説をし翌年にドミニカ共和国へ亡命。1973年8月6日、心臓病により死去。没年72歳。

1977年
【死去】アレクサンダー・バスタマンテ(Sir William Alexander Clarke Bustamante)【指導者・政治家/ジャマイカ】

20世紀ジャマイカの指導者および政治家でジャマイカ初代首相(1962年〜1967年)となった人物。キューバやアメリカなど世界中を旅しながら、1932年にジャマイカへ帰国。帰国後は植民地支配反対のリーダーとなる。1937年にジャマイカ労働組合(JWU)の会計係へ。1938年にストライキが勃発すると労働者の指導者として活躍しバスタマンテ産業労働組合を設立。1943年にジャマイカ労働党を設立。1940年に投獄、1942年に釈放され翌年にジャマイカ労働党(JLP)を設立。以降、バスタマンテはジャマイカ政府の指導者的存在となりジャマイカへの独立に尽力。1962年にジャマイカが独立すると初代首相に就任。その後、脳卒中を患い1967年に引退。1977年8月6日に老衰で死去。没年93歳。

1978年
【死去】パウルス6世(Paul VI)【ローマ教皇/イタリア】

20世紀イタリアで第262代ローマ教皇(1963年〜1978年)となった人物。イタリアの貴族の家に生まれ、1920年に司祭となる。以降、教皇庁の国務長官パチェッリ枢機卿、国務長官ルイジ・マリオーネ枢機卿の元で働く。「第二次世界大戦」中はナチス党との交渉などを行ない、1944年から国務長官の代行として従事。1953年にミラノ大司教、枢機卿となる。1963年にローマ教皇に即位。1978年8月6日、急性心筋梗塞により死去。没年80歳。

1983年
【死去】【エイズ】クラウス・ノミ(Klaus Nomi)【歌手/ドイツ】

デヴィッド・ボウイのバックコーラスなどを経てソロデビュー。2作目の『Simple Man』リリース後にエイズを発症して死亡。没年39歳。エイズで死んだ最初の著名人といわれている。

1994年
【死去】ドメニコ・モドゥーニョ(Domenico Modugno)【シンガーソングライター・俳優・政治家/イタリア】

20世紀イタリアのシンガーソングライター・俳優および政治家。1950年代に演劇学校で演劇を学び、俳優として映画作品に出演。1958年にイタリアのサンレモ音楽祭でジプシー・キングス の『Nel blu dipinto di blu(青く塗られた青の中)』日本名では『ヴォラーレ』をカバーし入賞、一躍有名に。その後、『ヴォラーレ』はアメリカでグラミー賞最優秀レコード賞および最優秀楽曲賞を受賞。英語以外の歌として史上初の『Billboard Hot 100』で1位を獲得。以降は歌手、作曲家として活動しながら1987年にイタリア国会議員となる。1994年8月6日に死去。没年66歳。

1997年
【航空事故】「大韓航空801便墜落事故」

ソウル発グアム行きの大韓航空801便(ボーイング747-300型機)が、グアム国際空港への着陸進入の最中に滑走路手前の丘陵地墜落。乗員乗客254人中228人が死亡する大惨事となった。事故原因は悪天候と機長による人為的なCFITミス (Controlled Flight Into Terrain/衝突する可能性に気付かないままの事故)といわれている。

2004年
【薬物過剰摂取】リック・ジェームス(Rick James)【ミュージシャン/アメリカ合衆国】

M.C.ハマーの大ヒット曲『U Can’t Touch This』のサンプリング元として知られる1981年のヒット曲『Super Freak』等の代表作で知られる1980年代を代表するソウル、ファンクのミュージシャン。私生活ではドラッグと奔放な性生活で知られ、2004年8月6日にロサンゼルスの自宅にて、呼吸不全による心不全で死亡。司法解剖により血中からコカイン等9種類もの薬物が検出された。没年56歳。

2005年
【死去】イブライム・フェレール(Ibrahim Ferrer)【歌手/キューバ】

20世紀に活躍したキューバの歌手で主にアフロ・キューバンで知られる人物。大工や街角で歌いながら稼ぎ、1953年の「キューバ革命」前後に歌手パチョ・アロンソのグループ「ロス・ボクコース」へ参加。1962年にフランス共産党の招待でヨーロッパやソビエト連邦などへツアーを行なう。その後、アメリカのギタリストであるライ・クーダーに見いだされ、1996年にバンド「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」に参加。1997年にアルバム『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』を発表しグラミー賞を受賞。1999年にドキュメンタリー映画『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』が公開され世界各国でキューバ音楽ブームとなる。晩年も同バンドで活躍し2005年8月6日に多臓器不全で死去。没年78歳。

2008年
【クーデター】「2008年モーリタニア軍事クーデター」

2008年8月6日、モーリタニアで軍人で政治家のムハンマド・ウルド・アブデルアズィーズらがクーデターを起こしシディ・モハメド・ウルド・シェイク・アブダライ大統領といった政府首脳らを拘束した事件。事件後、アブデルアズィーズが高等国家評議会議長に就任した。

2011年
【暴動事件】【社会事件】「イギリス暴動」

2011年8月4日にロンドン北部トッテナムで犯罪容疑のある黒人男性マーク・ダガン(当時29歳)が警察官に射殺されたことを機に「イギリス暴動」へと発展した事件。同月6日、射殺は不当としてダガンの遺族や知人、地元住民などが追悼および抗議デモをトッテナムの警察署前で起こしやがて暴動へ発展。警察車両やバスが破壊・放火され、警察署近隣の建物や店舗も破壊・略奪・放火されることとなった。暴動は同月13日まで続き、5人が死亡、2,000人以上が逮捕された。