『「スタニスラフスキー・システム」をあらわした図』

1938年8月7日は、現代の演劇・演技に絶大な影響を及ぼした俳優であり演出家のコンスタンチン・スタニスラフスキーが死亡した日である。
彼が提唱したスタニスラフスキー・システム(Stanislavski System)は、演技者の中に設定を再現することで演技に実際の感情を呼び起こすという手法のもので、一説にはフロイト心理学の影響から編み出されたものと言われている。
この手法はすぐさまアメリカの演出家、リー・ストラスバーグによって徹底的な役作りをする『メソッド演技法』として1940年代後半に確立され、そこで学んだマーロン・ブランド、アル・パチーノ、ダスティン・ホフマンらの映画俳優たちによって、アメリカの大ヒット映画とともに一躍世界的な脚光を浴びることになった。
しかし、その祖といえるのはスタニスラフスキーの理論であり、それは現在から110年ほど前になる1909年頃から取り入れられた手法である。
当時、1922年のソヴィエト連邦成立の直前に、その後の西欧エンターテインメントを支配する技術がロシアから後の冷戦の敵国=アメリカに伝わったことは奇跡的ともいえ、また、スタニスラフスキーの自由な発想がいかに大衆の心を掴むものであったかの証明といえるだろう。

(画像はWikipedia Konstantin Stanislavskiより使用。Public Domain)

8月7日の不幸

1106年
【死去】ハインリヒ4世(Heinrich IV.)【王族/神聖ローマ帝国】

11世紀から12世紀初頭の神聖ローマ帝国の王族でローマ王(1053年〜1106年)イタリア王(1080年〜1106年)神聖ローマ皇帝(1084年〜1106年)となった人物。ローマ皇帝ハインリヒ3世の長男として生まれ、1053年にローマ王へ即位。1062年にケルン大司教アンノおよびバイエルン公オットー・フォン・ノルトハイムが率いる豪族により誘拐される。アンノはハインリヒ4世を養育しながら政権を掌握。その後、成年となった1065年から権力を強化。ザクセン地方への遠征を行ない「ザクセン戦争」が勃発。1075年に自ら司教を任命したため教皇グレゴリウス7世と対立し「叙任権闘争」に発展。1077年にグレゴリウス7世から破門され、王位剥奪の危機を回避するためにグレゴリウス7世のもとへ(「カノッサの屈辱」)。1080年、王位争いのため諸侯が支持したシュヴァーベン大公ルドルフと「エルスターの戦い」で勝利しローマを包囲。1084年に教皇クレメンス3世を擁立し自ら神聖ローマ皇帝へ即位。以降も王位争いは続き、1105年に次男ハインリヒ5世が反逆しハインリヒ4世は廃位されることに。1106年8月7日に死去。没年55歳。

1622年
【死去】支倉常長【武将・貴族】

安土桃山時代から江戸時代初頭にかけての武将でアジア人初のローマ貴族およびフランシスコ派カトリック教徒となった人物。洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。陸奥国仙台藩士の家に生まれ「文禄・慶長の役」で活躍。1609年にサン・フランシスコ号が千葉で難破し、代わりにガレオン船サン・ブエナ・ベントゥーラでフィリピン総督ドン・ロドリゴらがスペインへ帰国したことを機にスペインとの交流が開始。1613年、主君・伊達政宗の命により慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパへ出航。1615年にスペイン国王フェリペ3世、ローマ教皇パウルス5世に謁見しローマ貴族およびフランシスコ派カトリック教徒となる。1620年に帰国するも日本では禁教令が発令され、スペインとの通商交渉はなされないまま1622年8月7日に死去。没年51歳。

1938年
【死去】コンスタンチン・スタニスラフスキー(Konstantin Stanislavski)【俳優・演出家/ロシア・ソ連】

現代演劇の基礎とされる『メソッド演技法』に多大な影響を与えた演技法『スタニスラフスキー・システム』の考案者であり、1897年に設立したモスクワ芸術座での『かもめ』『ハムレット』等の上演で20世紀ロシア演劇を牽引した演出家、俳優。持病の心臓病のため65歳で俳優業からは引退し演出家に専念したが、1938年8月2日に心臓発作を起こしたことが原因で5日後に自宅で死亡した。没年75歳。没後、モスクワのノボデヴィチ墓地にあるチェーホフの墓の近くに埋葬された。

1941年
【死去】ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore)【詩人・作曲家・小説家/インド】

19世紀に活躍したインドの詩人・小説家であり、ベンガル地方の芸術を近代化した人物で知られる。イギリス留学を経て、1901年にインドのシャーンティニケータンに野外学校(現・ヴィシュヴァ・バーラティ国立大学)を設立。1902年、インドを訪問していた岡倉天心と出会い交友関係へ。1905年、イギリスによる「ベンガル分割令」の反対運動に参加。1880年代から小説や詩などの活動を続けていたが、1909年にベンガル語で書かれた詩集『Gitanjali (ギタンジョリ)』を英訳し出版。この詩集の功績により、1913年にアジア人初のノーベル文学賞を受賞。翌年イギリスからナイトの称号を授与された。晩年は詩や作曲のほか、絵画なども手がけヨーロッパで展覧会が開かれている。1941年8月7日、腎盂腎炎により死去。没年81歳。

1944年
【急死】アグスティン・バリオス(Agustín Pío Barrios)【ミュージシャン・作曲家/パラグアイ】

超絶技巧をベースにしたクラシックギターの天才ギタリストであり、300以上もの曲を残した作曲家であり、パラグアイの5万グアラニー紙幣に起用されている国民的ミュージシャン。幼少期からギターの才能を発揮し、13歳でアスンシオン国立大学音楽部に入学。同国で最も若い大学生としてその名を馳せ、以降の音楽活動で自国だけでなく、15年を過ごしたブラジルだけでなく、アルゼンチン、ウルグアイ、ベネズエラなどラテンアメリカ大陸全体に大きな影響を及ぼした。バッハに影響を受けたとされる『La Catedral(大聖堂)』を始め多くの作品を残し、生涯演奏を続けながら1944年8月7日にエルサルバドルで心筋梗塞を起こし死亡。没年59歳。

1948年
【社会事件】【汚職事件】【マスメディア事件】「本庄事件」

1948年8月7日に埼玉県本庄市で朝日新聞記者・岸薫夫が暴行を受けた事件。戦後、燃料や物資の闇取り引きが横行していた本庄市(本庄町)の闇業者と警察・検察の癒着を朝日新聞記者であった岸が報道。この報道に対し、元博徒で町議会副議長・大石和一郎が岸を暴行。岸は大石を告発し、本庄町を「暴力の町」と紙面上で批判。社会や住民からの批判を受け、検察は取引を仕切っていた河野組組長・河野貞男を恐喝罪などの疑いにより起訴。その後、地元の警察署長、公安委員長などが相次いで辞職することとなった。

1970年
【死去】内田吐夢【映画監督】

リアリズムを描いた作品で知られる、サイレント期から戦後にかけて活躍した映画監督。1926年に日活に入社、翌年『競争三日間』で監督デビュー。1929年『生ける人形』を撮った後、「傾向映画」と呼ばれる左翼思想の作品を発表。1941年、日活を退社し満州の満州映画協会に在籍。戦後も帰国せず残留し、1955年に東映の『血槍富士』で監督業に復帰。1957年から1965年にかけて『大菩薩峠』、『宮本武蔵』といったシリーズものや『飢餓海峡』などを発表し日本の映画史にリアリズム映画というジャンルを確立した。1970年8月7日、ガンにより死去。没年72歳。

1971年
【テロ】【冤罪】「警視総監公舎爆破未遂事件」

1971年8月7日、東京都千代田区の警視総監公舎玄関脇に爆弾が仕掛けられているのを警察官が発見、犯人らしき男を捕まえるも逃走される。その後、日大紛争メンバー須藤正(当時23歳)ら6人を爆発物取締罰則違反で起訴するも1983年に全員の無罪が確定。

1977年
【自然災害】「1977年有珠山噴火」

1977年8月6日、北海道・洞爺湖の南に位置する有珠山が32年ぶりに噴火。噴火の影響により同年23日に死者2人、行方不明者1人が出ることとなった。

1981年
【廃刊】「夕刊紙ワシントン・スター廃刊」

1852年に創刊された新聞『The Daily Evening Star』から続く、夕刊紙『ワシントン・スター』が経営危機により1981年8月7日をもって廃刊し128年の歴史に幕を閉じた。

1987年
【死去】岸信介【政治家】第56・57代内閣総理大臣。2期にわたり内閣総理大臣を務めた”昭和の妖怪”。実弟の佐藤栄作は3期、孫に当たる現総理大臣の安倍晋三は3期と、名字こそ違えど、最も長期にわたり内閣総理大臣を務めた血統である。岸は一族の源流ともいえる政治家であり、戦犯としての獄中生活、総理大臣任期中に激化した反米60年安保闘争のデモ等、数々の障壁を絶え続けたその人生が、その後の孫の代までの繁栄を築いた。
1987年
【死去】カミール・シャムーン(Kamīl Sham’ūn)【政治家・弁護士/レバノン】

20世紀レバノンの政治家で第9代レバノン大統領(1952年〜1958年)となった人物。弁護士を経て1934年に国会議員に選出される。1943年にフランスからのレバノン独立を企て政治家ビシャーラ・アル=フーリーらと投獄されるも同年にレバノンが独立し釈放される。1951年にリヤード・アッ=スルフ首相暗殺やビシャーラ・アル=フーリー大統領の汚職問題が起こり翌年に大統領へ就任。1950年代に「レバノン危機」が起こると1958年に国民自由党(NLP)を結成。1970年代から1980年代にかけて「レバノン内戦」が勃発したため1974年にレバノン軍団を組織し議長へ就任。1984年に副首相に就任し内閣へ参加。晩年も政治家として活動を続け、1987年8月7日に死去。没年87歳。

1998年
【テロ】「1998年ケニア・タンザニア両アメリカ大使館爆破事件」

1998年8月7日、ケニアとタンザニアの両アメリカ大使館が同時刻アルカイーダの自爆テロにより爆破された事件。このテロによりケニアでは291人が死亡、およそ5,000人が負傷、タンザニアでは10人が死亡、およそ77人が負傷した。同月20日、アメリカがアルカイダの拠点と断定したスーダンとアフガニスタンの工場などを爆撃。爆撃後、一般の工場であったことが発覚しビル・クリントン大統領への非難が集中した。

1999年
【死去】宮川一夫【撮影監督】

主に京都太秦や大映映画の時代劇などで活躍した20世紀日本を代表する撮影監督。高校卒業後、日活京都現像部の助手として入社しその後撮影部へ移動。以降は溝口健二、黒澤明、マキノ雅弘といった映画監督の作品に参加し『鴛鴦歌合戦』(1939年)『羅生門』(1950年)『雨月物語』(1953年)『用心棒』(1961年)などを撮影。1960年に市川崑監督の『おとうと』を撮影中にフィルムの発色部分に銀を残すという独自の技法“銀残し”を生み出す。1970年からフリーで活動し『座頭市と用心棒』(1970年)『瀬戸内少年野球団』(1984年)『浪人街』(1990年)などを撮影。1992年に川喜多賞受賞。1999年8月7日、腎不全により死去。没年91歳。

1999年
【第二次チェチェン紛争】「第二次チェチェン紛争勃発」

1999年8月7日、武装勢力のイスラム国際戦線を率いるシャミル・バサエフとアミール・ハッターブらと独立派のチェチェン人武装勢力およそ1,500人がダゲスタン共和国へ侵攻し一部の村を占領する事件が発生。また同時期にロシアのモスクワでアパートが爆破されるテロ事件が発生したため、ロシア政府はチェチェンへのロシア連邦軍派遣を決定し「第二次チェチェン紛争」が勃発。

2003年
【テロ】「2003年在イラク・ヨルダン大使館爆破事件」

2003年8月7日、イラク・バグダットの在イラク・ヨルダン大使館でトラックによる爆弾テロが発生。このテロにより警備にあたっていた6人の警察官を含む17人が死亡、数十人が負傷した。アルカイダの犯行が疑われたが犯人は未だ不明。

2011年
【死去】ジョー山中【歌手】

7人兄弟中唯一のハーフとして生まれ(実父は黒人)母親の死後、16歳までを養護施設で暮らした孤児。その後プロボクサーとしてスカウトされ、プロデビュー(通算成績4勝1敗1KO)。その後俳優・歌手デビューし、日本人離れした美声と腕っぷしの強さ(安岡力也をケンカで半殺しにしたとの武勇伝も)で知られる。代表曲に『人間の証明のテーマ』『ララバイ・オブ・ユー』等。肺ガンのため64歳没。