『「スタニスラフスキー・システム」をあらわした図』

1938年8月7日は、現代の演劇・演技に絶大な影響を及ぼした俳優であり演出家のコンスタンチン・スタニスラフスキーが死亡した日である。
彼が提唱したスタニスラフスキー・システム(Stanislavski System)は、演技者の中に設定を再現することで演技に実際の感情を呼び起こすという手法のもので、一説にはフロイト心理学の影響から編み出されたものと言われている。
この手法はすぐさまアメリカの演出家、リー・ストラスバーグによって徹底的な役作りをする『メソッド演技法』として1940年代後半に確立され、そこで学んだマーロン・ブランド、アル・パチーノ、ダスティン・ホフマンらの映画俳優たちによって、アメリカの大ヒット映画とともに一躍世界的な脚光を浴びることになった。
しかし、その祖といえるのはスタニスラフスキーの理論であり、それは現在から110年ほど前になる1909年頃から取り入れられた手法である。当時、1922年のソヴィエト連邦成立の直前に、その後の西欧エンターテインメントを支配する技術がロシアから後の冷戦の敵国=アメリカに伝わったことは奇跡的ともいえ、また、スタニスラフスキーの自由な発想がいかに人々の心を掴むものであったかの証明といえるだろう。

(画像はWikipedia Konstantin Stanislavskiより使用。Public Domain)

8月7日の不幸

1938年
【死去】コンスタンチン・スタニスラフスキー(Konstantin Stanislavski)【俳優・演出家/ロシア・ソ連】

現代演劇の基礎とされる『メソッド演技法』に多大な影響を与えた演技法『スタニスラフスキー・システム』の考案者であり、1897年に設立したモスクワ芸術座での『かもめ』『ハムレット』等の上演で20世紀ロシア演劇を牽引した演出家、俳優。持病の心臓病のため65歳で俳優業からは引退し演出家に専念したが、1938年8月2日に心臓発作を起こしたことが原因で5日後に自宅で死亡した。没年75歳。没後、モスクワのノボデヴィチ墓地にあるチェーホフの墓の近くに埋葬された。

1941年
【死去】ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore)【詩人・作曲家・小説家/インド】

19世紀に活躍したインドの詩人・小説家であり、ベンガル地方の芸術を近代化した人物で知られる。イギリス留学を経て、1901年にインドのシャーンティニケータンに野外学校(現・ヴィシュヴァ・バーラティ国立大学)を設立。1902年、インドを訪問していた岡倉天心と出会い交友関係へ。1905年、イギリスによる「ベンガル分割令」の反対運動に参加。1880年代から小説や詩などの活動を続けていたが、1909年にベンガル語で書かれた詩集『Gitanjali (ギタンジョリ)』を英訳し出版。この詩集の功績により、1913年にアジア人初のノーベル文学賞を受賞。翌年イギリスからナイトの称号を授与された。晩年は詩や作曲のほか、絵画なども手がけヨーロッパで展覧会が開かれている。1941年8月7日、腎盂腎炎により死去。没年81歳。

1948年
【社会事件】【汚職事件】【マスメディア事件】「本庄事件」

1948年8月7日に埼玉県本庄市で朝日新聞記者・岸薫夫が暴行を受けた事件。戦後、燃料や物資の闇取り引きが横行していた本庄市(本庄町)の闇業者と警察・検察の癒着を朝日新聞記者であった岸が報道。この報道に対し、元博徒で町議会副議長・大石和一郎が岸を暴行。岸は大石を告発し、本庄町を「暴力の町」と紙面上で批判。社会や住民からの批判を受け、検察は取引を仕切っていた河野組組長・河野貞男を恐喝罪などの疑いにより起訴。その後、地元の警察署長、公安委員長などが相次いで辞職することとなった。

1970年
【死去】内田吐夢【映画監督】

リアリズムを描いた作品で知られる、サイレント期から戦後にかけて活躍した映画監督。1926年に日活に入社、翌年『競争三日間』で監督デビュー。1929年『生ける人形』を撮った後、「傾向映画」と呼ばれる左翼思想の作品を発表。1941年、日活を退社し満州の満州映画協会に在籍。戦後も帰国せず残留し、1955年に東映の『血槍富士』で監督業に復帰。1957年から1965年にかけて『大菩薩峠』、『宮本武蔵』といったシリーズものや『飢餓海峡』などを発表し日本の映画史にリアリズム映画というジャンルを確立した。1970年8月7日、ガンにより死去。没年72歳。

1987年
【死去】岸信介【政治家】第56・57代内閣総理大臣。2期にわたり内閣総理大臣を務めた"昭和の妖怪"。実弟の佐藤栄作は3期、孫に当たる現総理大臣の安倍晋三は3期と、名字こそ違えど、最も長期にわたり内閣総理大臣を務めた血統である。岸は一族の源流ともいえる政治家であり、戦犯としての獄中生活、総理大臣任期中に激化した反米60年安保闘争のデモ等、数々の障壁を絶え続けたその人生が、その後の孫の代までの繁栄を築いた。
2011年
【死去】ジョー山中【歌手】

7人兄弟中唯一のハーフとして生まれ(実父は黒人)母親の死後、16歳までを養護施設で暮らした孤児。その後プロボクサーとしてスカウトされ、プロデビュー(通算成績4勝1敗1KO)。その後俳優・歌手デビューし、日本人離れした美声と腕っぷしの強さ(安岡力也をケンカで半殺しにしたとの武勇伝も)で知られる。代表曲に『人間の証明のテーマ』『ララバイ・オブ・ユー』等。肺ガンのため64歳没。