『RCDエスパニョールでプレイ中のダニエル・ハルケ』2009年撮影

2009年8月8日は、将来を嘱望されたサッカー・スペイン代表の若きディフェンダー、ダニエル・ハルケが遠征先のホテルで突然死した日である。
スペイン1部リーグの強豪、FCバルセロナのライバルクラブであり、同じバルセロナに本拠地を置くエスパニョールで弱冠26歳にしてキャプテンを務めていたディフェンダーだったハルケ。
その急死は、まだ公式リーグ戦が始まる前、プレシーズンマッチを戦うためにいたリオのフィレンツェを訪れていた時の悲劇であった。
練習後に電話をしていた最中、急に無言となったハルケを心配した恋人の女性がクラブチームのスタッフにに連絡。
慌ててスタッフがハルケの部屋の中に突入すると、そこには心筋梗塞で死亡していたハルケの姿があったという。
度重なるフットボーラーの急死の中でも、極めて若い部類に入るハルケの死は、バルセロナ、エスパニョール、スペインのファンだけでなく、世界中に知られることになった。
そしてその約1年後、2010年7月11日に開催されたFIFAワールドカップ南アフリカ大会決勝に進出したスペイン代表チームは延長戦の末にオランダ代表を破ることになる。
その決勝ゴールを決めたアンドレス・イニエスタ(ライバルのFCバルセロナの中心選手)は、その瞬間ユニフォームの下に隠していたメッセージ「DANI JARQUE SIEMPRE CON NOSOTROS(ダニ・ハルケ、僕達はいつもともに)」を世界に向けて披露した。
その瞬間、ダニエル・ハルケの死は《永遠の文化》となった。死を記憶してゆくことで、悲劇は文化となり受け継がれる。
現在もエスパニョールのホームゲームでは、21分になると拍手が行なわれる。
チームを率いていた若きキャプテンの着けた背番号21番を忘れぬように、毎試合行われるその行為もまた、《死文化》と呼ぶに相応しい習慣である。

(写真はWikipedia Daniel Jarqueより使用)

8月8日の不幸

1898年
【死去】ウジェーヌ・ブーダン(Eugène-Louis Boudin)【画家/フランス】

19世紀フランスで活躍した外光派で知られる画家のひとり。代表作には『Trouville-sur-Mer(トルヴィル=シュル=メールの浜)』(1867年)など、空や雲を題材にした作品が多く"空の王者"と絶賛された。1846年から本格的に画家として活動を始め、1859年にパリのサロンでデビュー。1874年、パリで行なわれた「第1回印象派展」に出展。その後もパリのサロンで出展を続け、1892年にレジオン・ドヌール勲章を受賞した。1898年8月8日、病により死去。没年74歳。

1898年
【自殺】【薬物過剰摂取】ヤロミール・ヴァインベルゲル(Jaromír Weinberger)【チェコ・アメリカ/音楽家】

プラハ音楽院で学んだ後にドイツのライプツィヒ音楽院に留学するも、ユダヤ系の出自のため、ナチスから逃れて1939年にアメリカ合衆国に亡命。1948年にアメリカ市民権を取得し、歌劇『バグパイプ吹きシュヴァンダ』等の作品を残したが、脳腫瘍を発症したことと貧困を苦にして鎮静剤の過剰摂取で死亡。

1916年
【死去】山葉寅楠【技術者・実業家】

時計の修理工時代の1887年に浜松尋常小学校(現浜松市立元城小学校)のアメリカ製オルガンを修理した経験を活かし、1888年に日本初をなる本格的オルガンを製造した人物であり、現在のヤマハの創業者。1889年に合資会社山葉風琴製造所を設立し、1891年には河合喜三郎らと共同で設立した山葉楽器製造所がヤマハの元となっている。1916年8月8日に65歳没。

1944年
【戦死】【夭逝】ミハエル・ヴィットマン(Michael Wittmann)【軍人/ドイツ】

ナチスの親衛隊員、LSSAH(第1SS装甲師団ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー)に所属した軍人。第二次世界大戦中に活躍し、SS中尉に昇進。1944年、フランスの「ヴィレル・ボカージュの戦い」でイギリス軍を奇襲、戦車など27両の車両を撃破した。同年8月8日、友軍の援護に向かう途中、敵軍の対戦車砲の攻撃を受け戦死。没年30歳。

1944年
【処刑】エーリヒ・ヘプナー(Erich Hoepner)【軍人/ドイツ】

ドイツの軍人でヒトラー暗殺計画により処刑された人物。第二次大戦時に「バルバロッサ作戦」に従軍、ソ連軍の冬季反攻計画に際してヒトラーは死守命令を出すもヘプナーは戦術的後退を行なったため更迭され、その後不名誉除隊へ。上級大将としての給与・年金などが停止されたため地方裁判所に訴え勝訴、以後反ナチとなる。1944年、ヒトラー暗殺計画に参加、クーデターは失敗し逮捕。同年8月8日、死刑判決を受けベルリン・プレッツェンゼー刑務所の処刑場で絞首刑。没年57歳。

1944年
【処刑】エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン(Job-Wilhelm Georg Erwin von Witzleben)【軍人/ドイツ】

第二次世界大戦中のドイツの国防軍陸軍元帥。プロイセン士官学校を卒業後、擲弾兵連隊に配属。第一次世界大戦では、主席参謀に就任。その後も軍に残り、1934年にドイツ国防軍で少将に昇進。同年に起きた「長いナイフの夜」と呼ばれるナチ党が不法に行なった粛清に反対し以後反ナチへ。第二次世界大戦中は陸軍元帥に昇進するも、1941年にヒトラーを避難したため更迭される。1944年、ヒトラー暗殺計画「ヴァルキューレ作戦」を企てるも失敗に終わり逮捕。逮捕後は軍法会議ではなく軍籍を剥奪され人民裁判所に委ねられ、1944年8月8日、ベルリン・プレッツェンゼー刑務所の処刑場で絞首刑により死去した。没年62歳。

1962年
【死去】柳田國男【民俗学者】日本人探求の大家。代表作に『遠野物語』他。心臓衰弱で、87歳没。
1967年
【鉄道事故】「米軍燃料輸送列車事故」

1967年8月8日に東京・新宿駅で起きた在日米軍の航空燃料を積んだ貨物列車の衝突炎上事故。衝突した第2470貨物列車(EF10 40牽引、ホッパ車20両)が信号冒進し、また自動列車停止装置の操作も遅れたため第2471貨物列車(EF10 38牽引、タンク車18両、米軍燃料輸送列車)の側面に衝突。第2471貨物列車のタンク車から航空燃料が燃え、炎は30メートルの高さまで炎上した。この事故により国電1100本が運休、200万人に影響が及んだ。

1973年
【政治事件】【拉致事件】「金大中事件」

1973年8月8日、日本を訪れていた韓国の民主活動家および政治家の金大中がKCIA(韓国中央情報部)に拉致・軟禁され、5日後ソウル市内の自宅付近で解放された事件。拉致された金大中は船上から海に投棄される予定だったと言われている。また、この事件は韓国公権力による日本の主権侵害といったことから両国の外交問題に発展することとなった。

1974年
【死去】バルドゥール・フォン・シーラッハ(Baldur Benedikt von Schirach)【政治家/ドイツ】

ナチ党の全国青少年指導者およびヒトラーユーゲントの指導者として知られる人物。10代の頃にヘンリー・フォードの『The International Jew(国際ユダヤ人)』を読み反ユダヤ主義に傾倒。1925年にナチ党に入党し、1928年にはナチ党学生連盟指導者に選出。1931年、ナチ党全国青少年指導者に任命され、翌年にはヒトラーユーゲント全国指導者に任命。1933年にヒトラー内閣が樹立すると、ナチ党全国青少年指導者兼ドイツ国青少年指導者に就任。ドイツの青少年を視下に置き、教育するため「ヒトラーユーゲント法」を起草、1936年に法案は施行された。第二次世界大戦勃発後は潜伏生活を送っていたが、1945年にアメリカ軍に投降。同年ニュルンベルク裁判で「侵略戦争の共同謀議」「人道に対する罪」で起訴され、「人道に対する罪」で有罪となり、ニュルンベルク刑務所で服役。その後、シュパンダウ刑務所へ移送され、1966年に刑期満了で釈放。1974年8月8日、ドイツのホテルで就寝中に死去。没年67歳。

1974年
【死去】いわさきちひろ【画家】

子供を題材にした水彩画で知られる画家・絵本作家。1946年、27歳の時に日本共産党に入党し、党宣伝部の芸術学校へ入学するため上京。上京後は人民新聞者で働きながらデッサンを学び、紙芝居『お母さんの話』で画家として生活することを決意。1940年から1950年代は広告ポスターなどで活躍し、1956年に『ひとりでできるよ』で初めて絵本の挿絵を手がける。1968年、絵を中心に展開する絵本の先駆けとなった『あめのひのおるすばん』を出版、1972年に絵本『ことりのくるひ』でボローニャ国際絵本展・グラフィック賞を受賞。1974年8月8日、肝臓ガンのため死去。没年55歳。

1984年
【夭逝】【急逝】かがみあきら【漫画家】

1980年代初期に活躍した漫画家。1979年、少女漫画誌『ぶ〜け』に投稿し、1981年に石森プロに入社。翌年、商業デビューから漫画連載が決定し石森プロを退社。1983年に雑誌『コペル21』で『ワンダートレック』を連載。1984年、単行本『ワインカラー物語』を発行後に体調を崩し、同年8月8日に自身のマンションで孤独死、2日後に発見されたため死因は特定されていないが過労死ではないかと言われている。没年26歳。

1994年
【死去】鳳啓助【漫才師】京唄子との漫才コンビ「唄子・啓助」で活躍した漫才師。独特なしゃべり方で知られ、「エーッ、鳳啓助でございます」「ポテチン」等の名フレーズは、多くのモノマネ芸を生んだ。上顎洞癌リンパ節転移で死亡。3年前に見つかったガンの治療に際し、"顔は芸人の命"と、顔にメスを入れることを拒んでの死だった。71歳没。
1994年
【建築事故】「ワルシャワラジオ塔倒壊」

高さ646.38メートルという当時は史上最も高い人工建造物として知られたポーランドのラジオ塔が補修作業のミスで倒壊。

1996年
【動物事故】星野道夫【写真家】

大学時代からアラスカのシシュマレフ村に行くなどし、卒業後の1978年にアラスカ大学フェアバンクス校野生動物管理学部へ入学。アラスカを中心に動植物や人々の生活を撮影していたが、大学は中退。1989年、『Alaska 極北・生命の地図』が第15回木村伊兵衛写真賞を受賞し、名実ともに自然写真の大家としての地位を確立した。1996年8月8日、TV番組『どうぶつ奇想天外!』の取材のため訪れたロシア・カムチャツカ半島南部の湖畔でヒグマに襲われ死去。没年43歳。

2008年
【死去】田中殖一【実業家】

関西圏でのヒット商品「金ちゃんラーメン」「金ちゃんヌードル」で知られる徳島製粉の創業者。今いくよ・くるよと自社CMで共演するなど、お茶の間でも知られた人物だった。2008年8月8日に心不全で101歳没。

2009年
【夭折】【急死】ダニエル・ハルケ(Daniel Jarque)【サッカー選手/スペイン】将来を嘱望されたサッカー・スペイン代表の若きディフェンダーであり、RCDエスパニョールのキャプテンを務めていたが、2009年のシーズン開幕前、遠征先のホテルで突然死した。練習後に恋人との電話をしていた最中に心筋梗塞で死亡。没年26歳。