『ハンス・メムリンク作「Triptych of Earthly Vanity and Divine Salvation(地上の虚栄と神の救済の三連祭壇画)」』

1494年8月11日は、15世紀のフランドルを代表する画家、ハンス・メムリンクが死亡した日である。
メムリンクは静謐で緻密な肖像画と、豪華な祭壇画で、15世紀当時のヨーロッパで大変な人気を博した画家であるが、その一方で、同時期の画家とは異なるテーマで数多くの作品を残したアーティストでもある。
それは、宗教的使用が主目的とされる三連祭壇画において、鏡とサンダル、豪奢な犬を侍らせた虚栄の少女像を完成させるために《死》と《地獄》という目に見えてグロテスクな《異界》を使用しているこの『地上の虚栄と神の救済の三連祭壇画』でも顕著である。
一見して美しく寓話的な世界観の裏に、死屍累々の人間の暗部を重ねたメムリンクの感覚は、ジャンルを問わず多くのアーティストたちの間で現在も追求される《人類普遍のテーマ》であり、その先見性は今から500年以上も前のものとは思えぬほど鋭敏である。

(画像はWikipedia Hans Memling より使用)

8月11日の不幸

1494年
【死去】ハンス・メムリンク(Hans Memling)【画家/ドイツ】

ドイツ・ゼーリゲンシュタット生まれながらベルギーのブルッヘに移り住み15世紀のフランドルを代表する画家として活躍した人物。静謐で緻密な肖像画と、豪華な祭壇画で、15世紀当時のヨーロッパで大変な人気を博した画家であり、代表作に『聖女ウルスラの聖遺物箱』などがある。その一方で、同時期の画家とは異なるテーマで数多くの作品を残し『Triptych of Earthly Vanity and Divine Salvation(地上の虚栄と神の救済の三連祭壇画)』『Allegory with a Virgin』など、一見して美しく寓話的な世界観の裏に、人間の暗部を重ねたようなものもある。1494年8月11日ブルッヘにて死亡。推定没年齢64歳。

1956年
【交通事故死】ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock)【画家/アメリカ合衆国】

20世紀に活躍したアメリカの抽象表現主義代表する画家のひとり。アクション・ペインティングの画法で知られ、代表作には『Full Fathom Five(五尋の深み)』などがある。1930年、ニューヨークの美術学校「アート・スチューデンツ・リーグ」で学び、1935年からWPA(公共事業促進局)の連邦美術計画の仕事に就く。しかし、この頃からアルコール依存症となる。第二次世界大戦中も作品を描き続け、1943年頃からドリッピングやポーリングといった技法で作品を制作。画家として世界的に注目を集めると、アルコール依存症が再発し混迷期へ。1956年8月11日、愛人とその友人を巻き添えに飲酒運転で交通事故を起こし死去。没年44歳。

1974年
【死去】ヤン・チヒョルト(Jan Tschichold)【タイポグラファー/ドイツ】

ナチスドイツの迫害を避けてスイスに移住。ユニバーサルフォントを考案し、その他「Transit」「Saskia」「Zeus」「Sabon」のフォントをデザインした。没年72歳。

1982年
【テロ】「パンアメリカン航空830便爆破事件」

1982年8月11日にパンアメリカン航空830便(ボーイング747)の機内で起こった爆破事件。新東京国際空港(現:成田国際空港)からハワイのホノルル国際空港へ到着直前、後部座席のクッション下に仕掛けられた爆弾が爆発。この爆発により、1人が死亡し、乗客15人が負傷した。調査により事件はテロと断定、1988年に容疑者としてモハメド・ラシド氏がギリシアで逮捕された懲役15年の有罪判決へ。その後、1996年に釈放された後、アメリカで裁かれ懲役7年となるがテロリストの情報提供を行なったため、2013年に釈放されている。

2014年
【自殺】ロビン・ウィリアムズ(Robin Williams)【俳優・コメディアン/アメリカ合衆国】

モノマネや速射砲のような台詞回しを得意とするアメリカの正当派コメディ・スターから、様々な役回りをこなす演技派の名優に転身した世界的な俳優。代表作に『グッドモーニング・ベトナム』『レナードの朝』『ミセス・ダウト』等。プライベートではアルコール、ドラッグの依存症に悩む人生を送り、晩年は鬱病に苛まれ、2014年8月11日に自宅で縊死。没年63歳。

353年
【自殺】フラウィウス・マグヌス・マグネンティウス(Flavius Magnus Magnentius)【軍人・皇帝/ローマ帝国】

コンスタンス1世(337年〜350年)を殺害し、ローマ帝国コンスタンティヌス朝の皇帝(350年〜353年)となった人物。コンスタンス1世の元で軍の指揮官をしていたが、350年にコンスタンス1世を殺害。正帝を名乗ったが、コンスタンス1世の共同皇帝であったコンスタンティウス2世と対立。翌年「ムルサの戦い」でコンスタンティウス軍に敗れ、イタリアへ逃れたが、353年8月11日にリヨンで自殺。没年50歳。