『エルビス・プレスリーの「ジェイルハウス・ロック」の宣材写真とベーブ・ルースのサイン入りポートレート(1920年撮影)』

8月16日は、今も世界中を熱狂させ続ける「ロックン・ロール」と「ベース・ボール」の草創期に、ジャンル自体を爆発的人気に押し上げたカリスマ的存在であり、ともにアメリカが生んだ世界的大スターであるエルビス・プレスリーとベーブ・ルースが死んだ日である。
ともに恵まれた体躯を活かしたダイナミックなパフォーマーであり、ともに暴飲暴食癖で知られた“人間味溢れる”パーソナリティーの持ち主であり、活躍した年代にズレはあるものの、どちらも古き良き時代のアメリカを象徴する“ビッグ”で“タフ”なヒーローの象徴的存在であった2人が同じ日に死んでいることは、なにか運命的なものを感じさせる。
 有史以来、アメリカのタフさの象徴であった大統領が「Make America Great Again」とダミ声で叫ばねばならない現在、エルヴィスやベイブらが牽引した“自由の大国”は既に失われたといえるだろう。

(写真はそれぞれWikipedia Elvis Presley、Babe Ruthより。Public Domain )

8月16日の不幸

1556年
【死亡】ベラ・ルゴシ【俳優/ハンガリー・アメリカ合衆国】

1931年の映画『魔人ドラキュラ(Dracula)』の主演で世界的に知られているハンガリー人俳優。10代から国民劇場に出演するなどハンガリーの人気俳優として活動後、1919年にハンガリーの革命政権崩壊の煽りで1919年に亡命。ウィーン、ベルリンを経てアメリカに定住。舞台を中心に活躍し、特に『ドラキュラ』の舞台を数多くこなした流れで、映画『魔神ドラキュラ』の主演に。怪奇派スターとしての地位を不動のものとした。私生活では4度の結婚を経験したことで知られ、また、座骨神経痛の治療薬として処方されたメタドンとモルヒネの依存症になったことでも知られており、薬物中毒を最初に告白した著名人であるともされている。晩年はエド・ウッド作品に数多く登場し、1959年の『プラン9・フロム・アウタースペース』が遺作となった。1556年8月16日に心臓発作で死亡。没年73歳。死後、ドラキュラの衣装で埋葬された。

1886年
【死去】シュリ・ラーマクリシュナ(Sri Ramakrishna Paramhansa)【宗教家/インド】

19世紀のインドで活躍した宗教家。シュリは"聖"を意味する称号でインドでは聖人として知られる人物。幼い頃から寺院で働き、1861年からタントラ派の修行やヴィシュヌ派の行法などを学ぶ。その後、宗教家として信奉を集め、1886年8月16日に咽頭ガンにより死去した。没年50歳。

1929年
【死去】津田梅子【教育者】

女子教育のパイオニアと評される明治時代の教育者で津田塾大学の創始者。女子留学生のひとりとして1871年に渡米。1882年に帰国し、1885年から華族女学校の英語教師へ。1889年に再び渡米し、帰国後は女子英学塾(現・津田塾大学)を創設し塾長に就任。1919年、体調不良により塾長を辞任。1929年8月16日、脳出血のため死去。没年64歳。

1938年
【怪死】【夭逝】ロバート・ジョンソン(Robert Leroy Johnson)【ミュージシャン/アメリカ合衆国】

"クロスロード伝説"で知られるアメリカのブルース・ミュージシャン。1930年頃ギター1本でアメリカを渡り歩くが、この時、ギターが巧みなことから、十字路で悪魔に魂を売り渡して、その引き換えにテクニックを身につけた(クロスロード伝説)といった噂が広まる。1936年、初のレコーディングを行ない『Terraplane Blues(テラプレーン・ブルース)』をリリース。ミュージシャンとして認知されつつあったが、2年後の1938年8月16日に死去。没年27歳。死因は現在でも不明とされているが、毒殺説、病死説、また、悪魔に命を奪われたなど諸説ある。

1943年
【第二次世界大戦】「東京都猛獣処分」

米軍による空襲に備え1943年8月16日に大達茂雄東京都長官が全猛獣の殺処分を命令。上野動物園ではゾウやライオンを始めとした14種27頭が薬殺や餓死により殺処分された。

1948年
【死去】ベーブ・ルース(George Herman "Babe" Ruth, Jr.)【プロ野球選手/アメリカ合衆国】

メジャーリーグベースボール創成期に活躍した伝説的ホームラン・キング。スポーツマンらしからぬ不摂生な体、不遜で粗暴なパーソナリティでありながら誰からも愛された。レッド・ソックス在籍時まではほぼピッチャーとして活躍していたが(通算94勝)、その打撃センスを活かすために打者に専任、移籍先のニューヨーク・ヤンキースでは強打の中心打者として黄金時代を築いた。生涯ホームラン数714本は歴代3位。本塁打王を12回獲得したほかMVP1回、首位打者1回、打点王6回、最優秀防御率を1回獲得している。ルースを移籍に出して以来レッドソックスが勝てないという「バンビーノの呪い」、病床の少年に約束して打った「約束のホームラン」等、記録以外にも数多くのエピソードで記憶されたが、引退後は指導者としての仕事には恵まれず、肺炎で53歳没。

1949年
【事故死】マーガレット・ミッチェル(Margaret Munnerlyn Mitchell)【小説家/アメリカ合衆国】

生涯唯一の発表作『風と共に去りぬ』でピューリッツァー賞を受賞した小説家。飲酒していた非番のタクシー運転手の車にはねられ、その5日後に死亡。没年48歳。

1965年
【航空事故】「ユナイテッド航空389便墜落事故」

ニューヨーク・ラガーディア空港発シカゴ・オヘア国際空港行きの国内線、ユナイテッド航空389便(ボーイング727)が、着陸時の21時21分に空港から45キロメートルの距離にあるミシガン湖の湖面に墜落。乗員乗客合わせて30人全員が死亡した。事故原因はパイロットの人為的ミスと推測されているが、真相は不明。なお、この墜落事故はボーイング727の初めてとなる人身事故である。

1968年
【死去】熊谷一弥【テニスプレイヤー】

大正から昭和にかけて活躍したテニス選手であり、日本で初のオリンピック・メダリストとなった人物。1913年から慶應義塾大学の庭球部主将として活躍。この時、硬式テニス(ローンテニス)を取り入れる。卒業後は三菱合資会社に入社、アメリカ勤務となり拠点をアメリカへ。1919年に全米ランキング3位となり、翌年のアントワープ五輪で男子テニスのシングルス・ダブルスともに銀メダルを獲得。日本初のオリンピック・メダリストとなった。第二次大戦後は監督として復帰し、1968年8月16日に老衰により死去。没年77歳。

1975年
【自殺】ウラジミール・クーツ(Volodymyr Kuts)【陸上競技選手/ソビエト連邦】

1950年代に活躍したソビエトの陸上競技選手でオリンピック・メダリスト。1954年、ヨーロッパ選手権で金メダルを獲得し選手として知られるように。その後も1956年のメルボルンオリンピックで5,000メートル・10,000メートル走ともに金メダルを獲得。1957年、5,000メートルで当時の世界新記録を達成。1959年に現役を引退してからはコーチとして専念。1972年に脳卒中を起こし、1975年8月16日に睡眠薬とアルコールを飲み自殺。没年48歳。

1977年
【急死】エルヴィス・プレスリー(Elvis Aron Presley)【歌手/アメリカ合衆国】

"ザ・キング"の名で知られるロックン・ロールの伝説的歌手。黒人の音楽として生まれたロックを、その並外れた美声と圧倒的なパフォーマンスで白人の世界に解放した。またファッションやダンスでも世界的な影響力を誇り、腰を激しく動かすそのスタイルから、『エド・サリバン・ショー』出演時には下半身を映さないような演出となった。代表曲『ジェイルハウス・ロック』『ラヴ・ミー・テンダー』等で、全米ナンバー1ヒットは18曲を数える(歴代2位)。晩年はラスベガス公演が中心となったが、ストレスにより過食症を患い、不整脈で急死した。42歳没。死後に生存説が流れたことでもその存在感の大きさが窺い知れる。

1980年
【火災事故】「静岡駅前地下街爆発事故」

1980年8月16日に静岡駅地下街(ゴールデン地下街)で起きたガス爆発事故。地下街を形成していたビルの店舗からガス爆発が発生。この爆発は小規模なものであったが、爆発によりビル内の都市ガスのガス管が破損。漏れたガスが地下街に溜まり、二度目の爆発は隣接店舗など含め163店舗が破損・炎上する大規模なものとなった。この事故の死者は15人、負傷者は通行人も含め223人となっている。

1982年
【死去】藤田まさと【作詞家】

昭和を代表する作詞家のひとり。1928年に日本ポリドール蓄音機株式会社に入社し、会社員を務めながら作詞活動も開始。1935年に『旅笠道中』『明治一代女』がヒット。以後、人気作詞家となり多くの作詞を手がけ『麦と兵隊』(1938年)、『岸壁の母』(1954年)、『傷だらけの人生』(1970年)などが多くのヒット曲を生み出す。晩年も『浪花節だよ人生は』(1976年)を作詞し、1982年8月16日、老衰により死去した。没年74歳。

1990年
【死去】パット・オコーナー(Pat O'Connor/Patrick John O'Connor)【プロレスラー・指導者/ニュージーランド】

ニュージーランドでの学生時代にフットボールとレスリングで活躍し、イギリスの大会に出場したところをアメリカからスカウトされプロレスラーに。第42代NWA世界ヘビー級王者、初代AWA世界ヘビー級王者として長らくメインイベンターを務めた正当派ベビーフェイスだった。1963年に初来日し力道山のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦するなど日本マットとも縁は深く、特にジャイアント馬場と親交を深め、彼にランニング・ネックブリーカー・ドロップを授けた人物ともいわれている。その後も元横綱・輪島大士のプロレス入りの際にトレーニングを担当した。1990年8月16日に肝臓ガンで62歳没。

1992年
【スポーツ事件】「松井秀喜5打席連続敬遠」

甲子園で行なわれた第74回全国高等学校野球選手権大会で、当時怪物高校生スラッガーとして一世を風靡していた星陵高校の松井秀喜が、対戦相手の明徳義塾高校の作戦により全打席の5打席連続で敬遠四球を与えられた事件。結果的に星陵は敗れ、高校野球のスポーツマンシップを問う社会問題にまで発展した。

1997年
【死去】ヌスラト・ファテー・アリー・ハーン(Nusrat Fateh Ali Khan)【ミュージシャン/パキスタン】

パキスタン宗教音楽「カッワーリー」の歌手として世界的に知られる人物。カッワーリーを生業とした家に生まれ、カッワーリ演奏家であった父親から教えを受ける。1964年に父親が死去すると叔父から訓練を受け、1965年にカッワーリーのグループ「ヌスラト・ファテー・アリー・ハーン・ムジャーヒド・ムバーラク・アリー・ハーン・アンド・パーティー」のリーダーとして活動をはじめ、現代カッワーリー歌手としての地位を確立。インドとパキスタンで人気を博し『Haq Ali Ali(ハック・アリー・アリー)』 がヒット曲となった。その後も多くのアルバムを制作し、1997年8月16日、腎臓移植を受けるため移動中のロンドンで死去。没年48歳。

2003年
【死去】イディ・アミン(Idi Amin)【軍人・政治家/ウガンダ】

ウガンダの第3代大統領。ボクシングの元ヘビー級王者。ウガンダ軍参謀総長時代に軍事クーデターで政権を掌握、独裁体制を敷いた。国民を30〜40万人も虐殺したという恐怖政治で、"人喰い大統領"と呼ばれた。大統領在任時、元ヘビー級ボクサーという肩書きに注目した国際プロデューサー・康芳夫により、アントニオ猪木との異種格闘技戦が実現する寸前であったという。晩年は軍内部の反乱を避けサウジアラビアに亡命し、多臓器不全で死去。没年78歳(推定)。

2005年
【航空事故】「ウエスト・カリビアン航空708便墜落事故」

2005年8月16日6時、パナマ・トクメン国際空港発マルティニーク・フォール・ド・フランス空港行きのウエスト・カリビアン航空708便(マクドネル・ダグラスMD-82型)が、飛行中の7時頃にエンジンの異常を報告。管制はベネズエラのカラカス管制塔はマラカイボ空港への緊急着陸したものの、その後連絡は途絶え、機体は7時45分にベネズエラ西部スリア州山間部の牧場へ墜落した。乗員乗客合わせて160人の全員が死亡。事故原因はパイロットが防氷装置を乱用し機体の制御を失わせたことと、同社の財政難からの燃料節約の方針にあったといわれている。事故後、ウェスト・カリビアン航空(ベネズエラ)は一度のフライトも飛ばせず、そのまま倒産となった。

2006年
【政治事件】「第31吉進丸事件」

2006年8月16日、カニかご漁船第31吉進丸が北方四島海域の貝殻島付近でロシアの連邦保安庁国境警備局に拿捕された事件。この際、ロシア側から銃撃をされ甲板にいた盛田光広(当時35歳)が死亡。船長であった坂下登(当時59歳)はロシアの裁判で国境侵犯と密漁の罪で有罪判決となった。

2006年
【死去】アルフレド・ストロエスネル(Alfredo Stroessner Matiauda)【軍人・政治家/パラグアイ】

35年に渡り第31代パラグアイ共和国大統領(1954年〜1989年)を務めた人物。17歳からパラグアイの陸軍軍人として過ごし、1947年に軍の反動派に参加。1948年に最年少で将官へ。しかし、パラグアイ内戦で反乱軍の計画が失敗に終わったため、ブラジル大使館に亡命。1951年に帰国、1954年に国防相に就任。同年、コロラド党の党首として大統領に選出。以後35年にわたり独裁政権を置き、1989年にクーデターが起こりブラジルに亡命。2006年8月16日、ブラジルでヘルニアの術後の合併症により死去。没年93歳。