『テロリストにより撮影された体育館内の人質たち』

2004年9月3日は、9月1日に発生した「ベスラン学校占拠事件」の3日目で、治安部隊の突入により、少年少女を中心とした386人以上もの人質が死亡した日である。
9月1日午前にロシアの北オセチア共和国ベスラン市ベスラン第一中等学校にチェチェン共和国独立派の武装集団が7歳〜18歳の少年少女とその親ら1,181人を人質に立てこもり。
政治犯の釈放など様々な要求を突きつけた交渉の後、3日目に大規模な突入作戦が開始。
爆発をきっかけに犯行グループ30人と治安部隊との間で壮絶な銃撃戦が行なわれ、治安部隊が制圧したものの、386人以上(うち186人が少年少女)、負傷者700人以上という1,000人以上の犠牲者を出す史上稀に見る惨劇となった。
チェチェンの独立問題ではISに繋がるイスラム系テロ組織との密接な関わりが指摘されているが、この事件もその嫌疑はかけられている。
この写真には100人以上もの子供たちの人質と、バスケットボールのゴールから伸びたワイヤーに設置された爆弾が写っており、犯人グループがロシア政府との交渉に使用したものであるといわれている実に生々しいものである。
この爆弾の爆発をきっかけに起きたその突入作戦は賛否両論を巻き起こしたが、いずれにせよ、200人もの少年少女がその犠牲になったことは変わらぬ事実として語り継がねばならない。

(写真はWikipedia Beslan school siegeより使用)

9月3日の不幸

931年
【死去】宇多天皇【天皇】

平安時代に第59代天皇(887年〜897年)となった人物。第58代・光孝天皇の息子として生まれ887年に天皇へ即位。889年に勅願寺として仁和寺を建設。即位後は「寛平の治」と呼ばれ、問民苦使の派遣、昇殿制の開始、日本三代実録のひとつ『類聚国史』の編纂、文化面では『寛平御時后宮歌合』などを行なう。897年に敦仁親王へ譲位し899年に出家し太上天皇から法皇となる。901年に真言宗の阿闍梨となり晩年は真言宗の地位向上に務め、931年9月3日に死去。没年64歳。

1658年
【死去】オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)【軍人・政治家/イングランド】

17世紀イングランドの軍人および政治家でイングランド共和国初代護国卿( 1653年〜1658年)となった人物。ピューリタンで下級地主層であるジェントリの家に生まれ、1628年に庶民院議員に選出される。1629年に治安判事へ就任。1640年に再び庶民院議員へ選出される。1642年に「清教徒革命」が勃発し王党派と議会派が対立。ピューリタンであるクロムウェルは議会派として参加、ジェントリやヨーマンと呼ばれる農民を中心に鉄騎隊を結成。以後「エッジヒルの戦い」(1642年)「マーストン・ムーアの戦い」(1644年)で功績を上げ1645年にニューモデル軍(新模範軍)副司令官に就任。同年「ネイズビーの戦い」でチャールズ1世の歩兵連隊を壊滅させ議会派が勝利。1648年に軟禁状態にあったチャールズ1世が脱走・決起し「プレストンの戦い」を起こすも鎮圧に成功。翌年にチャールズ1世を処刑し総司令官兼総督に就任。その後、反議会派であったアイルランド、スコットランドへ侵攻を開始。「ダンバーの戦い」「ウスターの戦い」で勝利しアイルランド、スコットランドを征服。1653年に護国卿に就任、翌年にスペインと「英西戦争」を開始。1655年にスペイン領のジャマイカを占領。1658年にフランスの同盟国として「フランス・スペイン戦争」に参加しスペイン軍に勝利。護国卿在任中の同年9月3日にインフルエンザで死去。没年59歳。

1792年
【殺害】ランバル公妃マリー・ルイーズ(Marie Thérèse Louise de Savoie-Carignan)【貴族・女官/フランス】

18世紀フランスの貴族でマリー・アントワネットの女官長として知られる人物。1770年にフランス宮廷へ仕えマリー・アントワネットから女官長に任命される。1776年にポリニャック伯爵夫人が女官長に任命されたため宮廷から退く。その後、再びマリー・アントワネットから宮廷へ呼び戻される。1789年に「フランス革命」が勃発すると王党派と国王一家に仕え、1792年にルイ16世らとタンプル塔へ幽閉される。同年9月に民衆による「九月虐殺」が起こり同月3日に撲殺され死去。没年42歳。

1877年
【死去】アドルフ・ティエール(Louis Adolphe Thiers)【政治家・歴史家/フランス】

19世紀フランスの政治家および歴史家でフランス王国首相(1836年2月〜同年9月・1840年3月〜同年10月)、初代・第2代大統領(1871年〜1873年)を務めた人物。大学卒業後、弁護士となりマルセイユからパリへ移住。この頃自由主義に目覚め1814年にブルボン朝を批判した歴史書『フランス革命史』を発表しフランス国民から人気を得る。1830年に「七月革命」が起こるとオルレアン家ルイ・フィリップ1世を擁立(七月王政)し財務次官に就任。その後、内相を経て1836年に首相に就任。1848年に「二月革命」が勃発しオルレアン朝が消滅するとナポレオン3世を支持。1851年にナポレオン3世との対立からフランスを追放されるも翌年に帰国。帰国後は政界から引退し史書の執筆に専念。1869年に再び政界へ復帰し行政長官に就任。「普仏戦争」後にナポレオン3世が退位すると国防政府代表となり、1871年に第三共和政期初代大統領に就任。1873年に大統領を辞任し1877年9月3日に脳卒中で死去。没年81歳。

1883年
【死去】イワン・ツルゲーネフ(Ivan Sergeevich Turgenev)【小説家・詩人/ロシア】

フョードル・ドストエフスキー、レフ・トルストイと並び19世紀ロシアを代表する小説家および詩人。大学で哲学や古典を学び1843年に内務省へ入省。同年に叙事詩『パラーシャ』を発表。1845年に内務省を辞め作家生活へと入り、1852年に『猟人日記』を発表。同作で農奴制を批判したため逮捕・投獄される。その後、『ムムー』(1854年)『貴族の巣』(1859年)『処女地』(1877年)などを発表し続け、作品は社会論争を巻き起こすことに。1862年に代表作となる長編小説『父と子』を発表。1860年に半自伝的小説『初恋』を発表。晩年まで作家活動を続け、1883年9月3日に骨腫瘍で死去。没年64歳。

1941年
【大量殺人】【ジェノサイド】『ホロコーストでのガス室処刑』

1941年9月3日は、第二次大戦中のナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺、ホロコーストにおいて、ガス室での大量毒殺が初めて行なわれたといわれる日。チクロンBの使用により、32分で800名もの処刑が可能であったともいわれおり、その犠牲者は400万人とも150万人ともいわれている。

1948年
【死去】エドヴァルド・ベネシュ(Edvard Beneš)【政治家・教育者/チェコスロバキア】

20世紀チェコスロバキアの政治家でチェコスロバキア首相(1921年〜1922年)および第2代大統領(1935年〜1938年・1945年〜1948年)となった人物。大学講師を務めていた1914年に「第一次世界大戦」が勃発。戦争中は哲学者で初代大統領となるトマーシュ・マサリクの下で独立運動に参加。1918年から17年間にわたり外務大臣を務め、1935年に第2代大統領へ就任。1938年にナチス党とのミュンヘン協定が締結したため大統領を辞任しロンドンへ亡命。1940年に亡命政府の大統領へ就任しチェコスロバキアの独立に尽力。1943年にソ連と相互友好援助条約を締結。「第二次世界大戦」が勃発すると大統領へ復帰し1945年にチェコスロバキアのドイツ系及びハンガリー系住民に対し同国の国籍を剥奪、私有財産を没収し国家収用とする「ベネシュ布告」を発令。1948年にチェコスロヴァキア共産党の台頭により「2月事件」が起こり大統領を辞職。同年9月3日に死去。没年64歳。

1953年
【死去】折口信夫【学者・歌人】

明治から昭和にかけて活躍した民俗学者、国語学者および歌人として知られる人物。1905年に國學院大學予科へ入学しおよそ500首の短歌を制作。私生活では同性愛者として知られ同時期に浄土真宗僧侶で仏教改革運動家の藤無染(ふじ・むぜん)と同居生活を送る。大学卒業後の1911年に中学校嘱託教員となる。1913年に柳田國男が創刊した雑誌『郷土研究』へ『三郷巷談』を発表。1914年に教員を辞め大阪から上京。1916年に同大學に郷土研究会を創設、同年に『万葉集』全二十巻の口語訳を出版。1917年に再び教員の職に就きながら短歌結社誌『アララギ』の選歌欄を担当。1919年に同学の臨時代理講師となり同年に『万葉辞典』を出版。1922年に雑誌『白鳥』を創刊、同年に同大学教授へ就任。1923年に北原白秋らと歌誌『日光』を創刊。1928年に慶應義塾大学文学部教授に就任。1932年に文学博士を授与される。1935年に日本民俗会が設立され幹事に就任。1939年に幻想小説『死者の書』、1942年に歌集『天地に宣る』を発表。1944年に国文学者で歌人の藤井春洋を養子とするも1945年の「第二次世界大戦」で春洋が戦死。1948年に詩集『古代感愛集』を発表し日本芸術院賞を受賞。同年に日本学術会議会員に、1950年に宮中御歌会選者に選出される。1953年9月3日に胃ガンで死去。没年66歳。

1966年
【政治事件】「深谷駅問題発覚」

1966年8月に運輸相となった荒舩清十郎が、同年10月から施行されるダイヤ改正に際し自身の選挙区内である埼玉県の深谷駅へ急行を停車させるよう国鉄に指示していたことが同年9月3日に発覚。その後、荒舩は10月に辞職。

1966年
【交通事故】【詐欺事件】「当たり屋夫婦事件」

1966年9月3日、日本各地で長男(当時10歳)を車にぶつけさせ慰謝料を詐取する手口で当たり屋を行なっていた指名手配中の中元岩夫(当時44歳)と内縁の妻・出口初江(当時27歳)が大阪府警に逮捕された。同年始めに長男が交通事故に遭い示談金3万円を受け取ったことをきっかけ当たり屋を開始。当初は初江が当たり屋を行なっていたが、同年4月から中元の指示のもと長男に旅館の柱に向かってぶつかる練習をさせた後に当たり屋をさせていた。北海道から鹿児島まで36都道府県で受け取った示談金は91件で314万円であった。その後に大島渚が『少年』のタイトルで同事件を映画化している。

1980年
【政治事件】「元日本共産党幹部・伊藤律帰国」

1951年に中国に密航し1953年にGHQのスパイとして日本共産党から除名され、中華人民共和国で投獄されていた元日本共産党幹部・伊藤律が1980年9月3日に29年ぶりに帰国。帰国時、伊藤は67歳となっており聴力・視力をほぼ失い車椅子に乗っている状態であった。

1982年
【死去】フレデリック・ダネイ(Frederic Dannay)【小説家/アメリカ合衆国】

従兄弟のマンフレッド・ベニントン・リーとともにエラリー・クイーンおよびバーナビー・ロス名義で共同執筆を行なっていたことで知られる20世紀アメリカの推理小説家。1929年にエラリー・クイーン名義で推理小説『ローマ帽子の謎』を発表。同作はアメリカで人気となり、エラリー&クイーン警視ものとして1999年までシリーズ化されることに。1958年に『最後の一撃』を執筆後はリーが絶筆したため、1960年代以降はダネイが同シリーズのプロットとトリックなどの監修を行ない、シオドア・スタージョンといったSF作家に執筆を依頼。その後、ダネイ自身で執筆を行ない1970年にエラリー&クイーン警視ものシリーズ『最後の女』を発表。翌年にリーが死去。またバーナビー・ロス名義では1932年に『Xの悲劇』『Yの悲劇』など悲劇四部作を発表している。1961年にMWA賞巨匠賞を受賞。1982年9月3日に死去。没年78歳。

1984年
【火災】「フィルムセンター火災」

1984年9月3日、東京都中央区の東京国立近代美術館フィルムセンター収蔵庫で火災が発生。この火災により保存していた映画フィルム330作品が焼失、消防隊員3人が負傷した。

1987年
【クーデター】「1987年ブルンジ無血軍事クーデター」

1987年9月3日、ブルンジ共和国でピエール・ブヨヤ少佐による無血軍事クーデターが発生。このクーデターによりジャン=バティスト・バガザ大統領が追放となり、国民救済軍事委が設置されブヨヤが大統領に就任した。

1989年
【交通事故死】【死去】ガエターノ・シレア(Gaetano Scirea)【サッカー選手/イタリア】

1990年代に活躍したフランコ・バレージと並び”イタリア史上最高”と呼ばれるリベロとして活躍した伝説的なフットボール選手。所属クラブのユベントス、そしてイタリア代表チームでチームメイトであった名ゴール・キーパー、ディノ・ゾフとともに鉄壁のディフェンスを築き、1982年スペインワールドカップでの優勝に中心選手として貢献した。長年活躍したディフェンスの選手としては奇跡的なことに、生涯一度も退場処分を受けたことがないフェアプレーで知られた模範的なプレイヤーであった。1988年に現役引退し、翌年、ゾフがユベントスの監督に就任するとその助監督に就任。同年9月にUEFAカップで対戦する予定であったグールニク・ザブジェの視察でポーランドを訪れた後、帰国途中のバプスク付近でガソリンを積んだトラックと正面衝突事故を起こし即死。没年36歳。死後に新設されたユベントスのホーム・スタジアム「デッレ・アルピ」にはその死を偲び「クルヴァ・シレア」なる座席が設けられた。

1991年
【死去】フランク・キャプラ(Frank Russell Capra)【映画監督/アメリカ合衆国】

1930年代を代表するアメリカの映画監督。ヒューマニズムな作風は監督の名から”キャプラスク(Capraesque)”と呼ばれている。大学卒業後、陸軍に従軍するもスペイン風邪を患い除隊。その後は職業を転々とし、小説家を目指しシナリオ学校へ。入学後は映画に興味を持ち映画社へ入社。助監督を経て1922年に『Fultah Fisher’s Boarding House』で監督デビュー。喜劇などのライターとしても活躍し1928年にコロムビア映画と専属契約。1933年に脚本家ロバート・リスキンとコンビを組み、代表作『Lady for a Day (一日だけの淑女)』を制作。同作はアカデミー作品賞・監督賞にノミネートされ監督として知られることに。翌年には『It Happened One Night (或る夜の出来事)』でアカデミー賞の主要部門を制覇し名監督としての地位を築いた。1941年にワーナー・ブラザースへ移籍し『群衆』を発表。第二次世界大戦中は軍隊へ志願し、アメリカ陸軍映画班としてプロパガンダ映画を制作。戦後は自身の集大成として『It’s a Wonderful Life (素晴らしき哉、人生!)』を発表するも興行的には失敗に終わり、作品制作数は激減。1964年に『Rendezvoures in Space』を撮り映画界から引退した。1991年9月3日、老衰のため死去。没年94歳。

1993年
【自然災害】「平成5年台風第13号」

1993年9月3日に鹿児島県薩摩半島へ台風13号が上陸。この台風により鹿児島県を中心に死者・行方不明者合わせて48人、負傷者396人を出すこととなった。

2012年
【死去】文鮮明【宗教家/韓国】

韓国、日本を中心に300万人の信者数を自称する(実際には数万ともいわれている)宗教団体「世界基督教統一神霊協会(統一教会)」を1954年に創立した人物。信者同士が一斉に結婚する「合同結婚式」に元女優の桜田淳子が参加したことで日本でも話題になった同教団は、文自身が脱税や詐欺まがいの勧誘や霊感商法が報道されスキャンダラスな面も噴出したが、文は生涯教団トップの地位にあり続けた。2012年9月3日に肺炎などで死亡。没年92歳。

2014年
【死去】タワン・ダッチャニー(Tawan Datchani)【画家/タイ】

20世紀から21世紀に活躍したタイを代表する画家のひとり。大学在学中に”タイ近代美術の父”と称されたイタリア人画家シン・ピーラシーに学ぶ。1964年にオランダへ留学し壁画学で修士、美学と形而上学で博士号を取得。「崇拝」(1964年)「マーラの戦い」(1989年)といった作品を発表し、2001年に美術部門で国家芸術家となる。その後も画家として活動を続け2014年9月3日に肝炎で死去。没年74歳。

2017年
【死去】ウォルター・ベッカー(Walter Carl Becker)【ミュージシャン/アメリカ合衆国】

1970年代から活躍したアメリカのミュージシャンでデュオバンド「スティーリー・ダン」のメンバーとして知られる人物。大学在学中に「スティーリー・ダン」のメンバーとなるドナルド・フェイゲンと出会う。1972年にバンド「スティーリー・ダン」を結成しアルバム『キャント・バイ・ア・スリル』でデビュー。1974年にシングル『リキの電話番号』がヒット。1981年にバンドを解散、以降ハワイに移住しプロデューサー活動を開始。1993年に再結成しスティーリー・ダン名義でのツアー開催、同年にフェイゲンのアルバム『カマキリアド Kamakiriad』のプロデュースを行なう。翌年にソロデビュー作品『11の心象 11 Tracks of Whack』をフェイゲンと共同プロデュース。2008年にソロ・アルバム『サーカス・マネー Circus Money』を発表。晩年も音楽活動を続け、2017年9月3日に食道ガンで死去。没年67歳。