『ブラジル代表のユニフォームを着たフリーデンライヒ』

1969年9月6日は、世界最多得点数保持者としてギネスブックに認定されたブラジル代表の伝説的な点取り屋、アルツール・フリーデンライヒが死亡した日である。
まだブラジルのフットボールがアマチュアだった時代に活躍し、“サッカーの王様”ペレよりも早く1,000得点を記録した人物として知られるフリーデンライヒであるが、当時のフットボール選手が移民の白人富裕層ばかりであったために、ドイツ人とのハーフとはいえ、黒人のルックスをたたえたフリーデンライヒは多くの人種差別的障害と闘わざるをえなかった。
そのひとつの戦いが、黒人らしからぬ整髪料で撫でつけた横分けのヘアスタイルであったと言われており、後に活躍するペレが黒人らしい自然なスタイルであったこととは好対照である。
また、歴代最多と認定されているフリーデンライヒの1,329得点は、その後の調査によりなんの根拠もなかったことが判明しており、その発端となった記録も1,239得点、1,329試合出場をひっくり返してギネス申請してしまったというずさんな手続きの元に生まれた大記録であった。
その後の研究家たちにより、フリーデンライヒの記録は554ゴールとも558ゴールとも言われており、いまだ真相は定かではない。
以上のような得点記録の錯綜のせいで、その伝説は眉唾なイメージがついて回っているのだが、“チグリ(ポルトガル語で虎の意)”と呼ばれたフリーデンライヒは、まだ強豪国とはほど遠かったブラジル代表チームが1919年のコパ・アメリカ決勝で当時最強といわれたウルグアイ代表を降した試合の決勝ゴールを挙げ、母国を大会初優勝に導いた中心的選手である。
また、その活躍が後の黒人や混血人種のフットボール参入の扉を開け放ったことは間違いない。
フリーデンライヒがフットボールとブラジルに残したその伝説的な功績は、幾千のゴール数よりも重いものといえるだろう。

(画像はArthur Friedenreich より使用。Public Domain)

9月6日の不幸

1901年
【暗殺】「マッキンリー大統領暗殺事件」

バッファローでのパン・アメリカン博覧会に出席していた第25代アメリカ大統領・ウィリアム・マッキンリーが、無政府主義者のレオン・チョルゴッシュにより2度の銃撃を受ける。大統領は一時回復したものの、9月14日に容態が急変し死亡。逮捕されたチョルゴッシュは9月26日に死刑を宣告された同年10月29日に電気椅子で処刑されたが、逮捕後はその凶行を悔やんでいた。

1966年
【死去】マーガレット・サンガー(Margaret Higgins Sanger)【作家・社会運動家/アメリカ合衆国】

20世紀初頭のアメリカの社会運動家で、主に産児制限や性教育といった問題に取り組んだ人物。1912年から『What Every Girl Should Know(全ての娘が知るべきこと)』というコラムを新聞『New York Call』に連載。『Family Limitation(家族を制限すること)』と題された避妊などに関するパンフレットを女性に配り続け、コムストック法違反で投獄。1914年、新聞『The Woman Rebel(女性反逆者)』を発行。1916年に産児制限のための診療所を開設、同年『What Every Girl Should Know(全ての娘が知るべきこと)』を出版へ。翌年『What Every Mother Should Know(全ての母が知るべきこと)』を出版後、感化院へ収監。1921年、「American Birth Control League(アメリカ産児制限連盟)」を設立、1923年にアメリカ初の産児制限診療所を開設した。1928年、「Birth Control International Information Center(産児制限国際情報センター)」会長へ就任。1960年頃から開発後まもない経口避妊薬の利用や診療所を推進するため、欧州からアジアなどを巡回。1966年9月6日、うっ血性心不全により死去。没年86歳。

1969年
【死去】アルツール・フリーデンライヒ(Arthur Friedenreich)【フットボール選手/ブラジル】

世界最多得点数保持者としてギネスブックに認定されたブラジル代表の伝説的な点取り屋。ドイツ人とのハーフであるムラートであり、世界のスポーツ界で初めて活躍した混血の選手ともいわれている。まだブラジルのフットボールがアマチュアだった時代に活躍し、その生涯1,329得点は歴代最多とギネス認定されているが、その後の研究家たちにより、フリーデンライヒの記録は554ゴールとも558ゴールとも言われており、いまだ真相は定かではない。"チグリ(ポルトガル語で虎の意)"と呼ばれたフリーデンライヒは、まだ強豪国とはほど遠かったブラジル代表チームが1919年のコパ・アメリカ決勝で当時最強といわれたウルグアイ代表を降した試合の決勝ゴールを挙げ、母国を大会初優勝に導いた中心的選手であった。1969年9月6日に77歳没。

1970年
【テロ】「PFLP旅客機同時ハイジャック事件」

1970年9月6日に5機の旅客機がパレスチナ解放人民戦線(PFLP)にハイジャックされた事件。標的となったのはアメリカのジョン・F・ケネディ国際空港へ向かう西側諸国の機体(エル・アル航空ボーイング707型機、トランス・ワールド航空ボーイング707型機、パンアメリカン航空ボーイング747型機、スイス航空ダグラス DC-8型機)であった。この内トランス・ワールド航空ボーイング707型機とスイス航空ダグラスDC-8型機がハイジャックされ旧イギリス軍ドーソン基地へ強制着陸。同月9日にも英国海外航空775便(ヴィッカースVC-10型機)がハイジャックされ、同基地へ着陸。ハイジャックされた機体には「PFLP」の文字が書き込まれた。9月12日、人質の解放の代わりに各国に収監されているPFLPの活動家およびエル・アル航空ハイジャックの実行犯の釈放を要求後、人質をすべて解放。その後、ハイジャックされた機体はすべて爆破された。その結果、スイスに収監されていたPFLPの活動家3人などが釈放されている。この事件の死者はハイジャックに失敗し射殺されたメンバーパトリック・アルゲロー1人となっている。

1976年
【政治事件】「ベレンコ中尉亡命事件」

冷戦時代の1976年9月6日に、ソビエト連邦将校ヴィクトル・ベレンコがMiG-25で函館市に着陸・亡命を求めた事件。ベレンコは北海道警察から任意取り調べを受けアメリカへの亡命を要望したため、同月7日に東京へ移送、同月8日にアメリカが受け入れを通告した。亡命理由は軍内部の不正横行や劣悪な生活環境といった点から自国への見切りをつけたことであった。

1979年
【自然災害】「1979年阿蘇中岳第一火口噴火」

1979年9月6日、阿蘇山の阿蘇中岳第一火口から噴火。火口北東側から噴石が多量に噴出され、観光客3人が死亡、負傷者11人を出した。

1994年
【死去】ニッキー・ホプキンス(Nicholas Christian Hopkins)【ミュージシャン/イギリス】

スクリーミング・ロード・サッチの「サヴェージズ」でピアニストとしてキャリアをスタートし、ザ・フー、キンクス、ドノヴァン、ローリング・ストーンズ、ジョン・レノン、ザ・ビートルズ、ジェフ・ベック、ジェファーソン・エアプレインなど錚々たるロックミュージシャンのレコーディングに参加した伝説的なスタジオ・ミュージシャン。生来クローン病に苛まれていたためにコンサートツアーに参加することは稀であった。『逃亡者』『パ★テ★オ』『並木家の人々』という日本のテレビドラマで音楽を手がけたことでも知られている。クローン病の治療のための手術を受けた直後の合併症で50歳没。

1995年
【殺人事件】「坂本堤弁護士一家殺害事件」

1995年4月にオウム真理教を脱退した同教団元幹部・岡崎一明が、1984年に坂本堤弁護士一家の殺害を自供したため事件の真相が発覚。警察は一家の遺体捜索を開始し、1995年9月6日に坂本弁護士夫妻の遺体を新潟県と富山県の境にある林道別又僧ヶ岳線付近の山中で発見。長男の遺体は同月10日に長野県大町市の山中から発見された。

1997年
【葬儀】「ダイアナ妃葬儀」

1997年8月31日に交通事故死した英王室ウェールズ公チャールズの元夫人、ダイアナ妃の国民葬がウェストミンスター寺院で行なわれた。女王エリザベス2世は一般人として扱うことを望んだというが、チャールズ皇太子、トニー・ブレア首相の強い希望でイギリス王室による準国葬「王室国民葬」ということになった。その葬儀のテレビ中継の視聴者数は、歴代最高の視聴率となっている。

1998年
【死去】 黒澤明【映画監督】1950年の『羅生門』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞を受賞。以来、世界的な監督として活躍した、世界でも最も有名な日本人のひとり。三船敏郎、志村喬を多くの作品で起用し、徹底した演出とダイナミックな画作りで知られ、その後の『生きる』『七人の侍』『用心棒』等で世界中のファンのみならず、あらゆる映画作家に影響を及ぼした。1980年には『影武者』でカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞し、1990年に日本人初のアカデミー名誉賞を受賞。脳卒中で88歳没。
2007年
【死去】【夭逝】イ・エジョン(Lee Ae-jung)【女優/韓国】

2000年頃活躍した韓国の女優。1999年、ドラマ『幼い王子』でデビュー。2000年のドラマ『秋の童話』で女優として知名度を得る。2006年7月頃に脳腫瘍と診断され、2度の手術を受けるも2007年9月6日に死去。没年20歳。

2007年
【死去】ルチアーノ・パヴァロッティ(Luciano Pavarotti)

【声楽家/イタリア】プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラスらと共に『三大テノール』として知られたイタリアを代表するテノール歌手。2006年冬のトリノオリンピック開会式で『トゥーランドット』の「誰も寝てはならぬ」を歌ったのが生涯最後のパフォーマンスであったが、後にそれが1週間前に録音したものを口パクで合わせたものと判明し話題になった。翌年9月6日に肝臓ガンで71歳没。9月8日にモデナ大聖堂で行なわれた葬儀にはプローディイタリア首相、アナン前国連事務総長の他、ロック歌手のボノ(U2)やテノール歌手のアンドレア・ボチェッリなどの著名人とともに約10万人もの市民が駆けつけた。

2008年
【死去】アニタ・ペイジ(Anita Page)【女優/アメリカ合衆国】

20世紀から21世紀にかけて活躍したアメリカの女優で"サイレント映画最後の星"と呼ばれた人物。1925年に映画『A Kiss for Cinderella
』でデビューし、その後MGMと契約。1928年、映画『Telling the World』、『Our Dancing Daughters』と出演作が立て続けにヒットし人気女優へ。1929年に出演した『The Broadway Melody(ブロードウェイ・メロディー)』がアカデミー賞作品賞受賞。1933年、契約終了に伴い『Hitch Hike to Heaven』(1936年)を最後に女優業を引退。1966年に再び女優業を開始しホラー映画などに出演。2008年9月6日、老衰により死去。没年98歳。

2011年
【急死】真田雅則【サッカー選手・コーチ】清水商高、順天堂大と日本一を経験し全日空に加入。Jリーグ立ち上げに際して地元の清水エスパルスに加入し、引退までほぼ正ゴールキーパーとして君臨した。12年間でリーグ戦243試合出場。引退後は清水とジェフ市原でコーチを歴任。再び清水に戻った2011年、自宅で死亡しているところを発見された。死因は急性心不全とされる。没年43歳。
2014年
【死去】山口洋子【作詞家・小説家・実業家】

女優から銀座のクラブ「姫」の経営に転身。同店を各界著名人を顧客に持つ店として成功させた後に、作詞家としての活動を開始。1960年代〜1970年代にかけて『よこはま・たそがれ』『ふるさと』『夜空』『うそ』など多くの大ヒット曲を手がけた。後に『よこはま・たそがれ』はアディー・アンドレ作『ひとり海辺で』の盗作であると報道されたが本人は否定。1980年代からは小説家としても活動を始め、1985年(昭和60年)に『演歌の虫』『老梅』で直木三十五賞を受賞。2014年9月6日に呼吸不全で77歳没。

952年
【死去】【夭逝】朱雀天皇【天皇】

平安時代中期に第61代天皇(930年〜946年)となった人物。930年に8歳で天皇に即位。摂関として叔父・藤原忠平が政治を摂る。治世中の935年に「承平天慶の乱」や富士山噴火などが起こった。945年に譲位し、952年に出家し仁和寺へ。同年9月6日に死去。没年30歳。

972年
【怪死】ヨハネス13世(Ioannes XIII)【ローマ教皇/イタリア】

10世紀に第133代ローマ教皇(965年〜972年)となった人物。皇帝側とローマ貴族側との関係性が悪化したため、両者の歩み寄りにより、ローマ貴族・クレシェンツィ家出身のヨハネス13世が選出された。しかし、同年反乱により追放され翌年にローマへ帰還。その後、教会機構の改革などを行ない、マクデブルク大司教区を設立。972年9月6日に死亡しているが、死については密通相手の夫によって殺されたと言われている。推定没年齢62歳。