『死亡1年後より「毛主席紀念堂」にて永久公開される毛沢東の遺体』

1976年9月9日は、中国共産党の初代指導者にして中華人民共和国の初代国家主席、毛沢東が死亡した日である。
ソ連をモデルとして徐々に中国の社会主義化を進め、最終的には完全な独裁体制を完成させた人物である毛沢東。
しかし、その強引な社会主義政策のために多くの国民が犠牲になり、一時は5,000万人もの餓死者を出したとも言われ、それを覆い隠すために、「文化大革命」と呼ばれる毛沢東による思想・政治が入り乱れたいわば“毛沢東キャンペーン”が長期にわたり大規模に展開された。
これらの国家的混乱期を通じて毛沢東が死に追いやった人々は、政敵や餓死者を含めて人類史上空前のものであったとされ、ナチスドイツのヒトラー、ソ連のスターリンらと並び、“世界三大殺戮者”とも称されている。
その一方、その強引過ぎた治世にもかかわらず中国国民にとっては傷跡どころか、“建国の英雄”として奉られるに至っており、毛が思想的に多大な影響を受けたソ連の初代最高指導者・レーニンを倣い、「毛主席記念堂」に遺体が永久保存されており、生前の姿を広く公開され続けて今日にいたっている。
現在は様々な部分で資本主義が部分的に取り入れられてはいるが、中国は現在も中国共産党の一党体制が続き、その意味で国体は毛沢東の思想の延長線上にあると言っていいだろう。
折しも、香港でのデモでその国内情勢の揺らぎが海外へと発信されるなか、その基盤を築くために山積みとなった多くの遺体たちの上で眠る毛沢東の遺体は、何を思うのだろうか。

(写真は中国サイト『視察者』より使用)

9月9日の不幸

1693年
【死去】井原西鶴【浮世草子・人形浄瑠璃作家・俳諧師】

江戸時代に活躍した浮世草子・人形浄瑠璃作家および談林派を代表する俳諧師で『好色一代男』の著者として知られる人物。1656年に俳諧師を志し、1673年に大阪・生國魂神社の南坊で「万句俳諧」を開催し俳諧書『生玉万句』として発表。俳人・西山宗因の弟子となり俳号を西鶴とする。1675年に俳諧書『誹諧独吟一日千句』を出版。1677年に同神社で「一昼夜1,600句独吟」を開催し『俳諧大句数』を発表。1680年に「4,000句独吟」を行ない翌年に『西鶴大矢数』を発表。1682年に発表した浮世草子『好色一代男』が江戸で人気となり好色物として『諸艶大鑑』(1684年)『好色五人女』『好色一代女』(共に1686年)を発表。1683年に役者評判記『難波の貌は伊勢の白粉』を発表。1685年に浄瑠璃『暦』を発表。晩年まで活動を続け1693年9月9日に死去。没年51歳。

1898年
【急死】ステファヌ・マラルメ(Stéphane Mallarmé)【詩人・文芸評論家・教育者/フランス】

アルチュール・ランボーと肩を並べる19世紀フランスで活躍した象徴派を代表する詩人および文芸評論家。ヴィクトル・ユーゴーらロマン派の影響を受け詩作を開始。1860年代から詩『イジチュール』(未完)の執筆を行なう。フランス第三共和政が樹立した1870年頃から教師の職に就きながら詩作を続け、その後パリへ移住し文芸評論家としても活躍。1874年に詩人で小説家のエドガー・アラン・ポー著『大鴉』の散文訳を行なう。1876年に詩書『半獣神の午後』を発表。以後『詩集』(1887年)『パージュ』(1891年)などの詩書を発表。最晩年の1897年に評論集『ディヴァガシオン』、詩作『骰子一擲(とうしいってき)』を発表。詩『エロディヤードの婚礼』を執筆中の翌1898年9月9日に咽喉痙攣で窒息し急死。没年56歳。

1901年
【死去】【死去】アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa)【画家/フランス】

フランスの名家に生まれたものの、10代の頃に左右の大腿骨を骨折したためか、生涯にわたり両脚が子供の長さから成長しないという奇形的な身体的特徴を持った人物であり、被差別的な境遇にありながらも独特な画風で世界的名を獲得した19世紀フランスの画家。劇場「ムーラン・ルージュ」のように、ダンサー、娼婦など”夜の女たち”とその世界に入り浸り、彼女らをモチーフにした絵画、ポスターを数多く残した。代表作にポスター『ムーラン・ルージュのラ・グーリュ』『ディヴァン・ジャポネ』絵画『ムーラン・ルージュに入るラ・グリュ』等。私生活ではアブサンを始めとしたアルコールの多量摂取と梅毒に冒されたことで荒廃した生活を送り、わずか36歳で脳出血により死亡した。

1949年
【航空事故】【保険金殺人】「カナディアン航空機爆破事件」

モントリオールからベーコモーに向かうカナダ太平洋航空のDC-3が、経由地のケベックを離陸直後に爆発し墜落。乗員乗客23名全員が死亡した。その後の調査により事故原因はケベック在住の宝石商、アルベール・ガイの仕掛けた時限爆弾によるものと判明。同機に登場していた妻を殺害し、彼女にかけた生命保険1万カナダドルの取得を目論んだが、共犯のマルグリート姉弟とともに死刑となった。

1950年
【暴徒】「鳴尾事件」

1950年9月9日に兵庫県武庫郡鳴尾村(現・西宮市)の鳴尾競輪場の第11レースで本命視されたいた村上義弘選手が機体のクランクピンが緩んだことを理由にレースのやり直しを審判員に申告するもレースは継続され結果は万車券に。観客はレースのやり直しを求めて騒然とするも主催側から原因は村上にあり1カ月の謹慎処分とする旨が発表されると観客が暴徒化。第12レースの開催中止と車券の買戻しが発表された。その後暴徒化した観客へ警察が威嚇射撃を行なうも観客1人に流れ弾が当たり死亡するなど騒乱は最高潮に達し、およそ250人が逮捕されることとなった。

1971年
【暴動】「アッティカ刑務所暴動」

アメリカ合衆国ニューヨーク州アッティカの「アッティカ刑務所」で囚人たちによる暴動が発生。看守は全員で半数以上の囚人がアフリカ系アメリカ人という環境で発生したこの事件は、劣悪な生活環境へ蓄積した不満が、同年8月21日に、カリフォルニアの「サン・クェンティン刑務所」で黒人人権運動家、ジョージ・ジャクソンが脱獄中に射殺された事件を契機に爆発したものといわれている。1971年9月9日にアッティカ刑務所に服役していた約2200人中1000人もの囚人が暴動に参加し、刑務所を制圧。所員33名を人質に取り、4日間の交渉を行なった。しかし結果的に交渉は成立せず、9月13日に、州知事ネルソン・ロックフェラーが武力制圧を指示。29人の囚人と10人の所員が死亡する大惨劇となった。この暴動はジョン・レノンが1972年に『Attica State』なる歌を発表するなど、社会的影響力を持った事件となった。

1976年
【死去】毛沢東【政治家・軍人・思想家】中国共産党の初代指導者にして中華人民共和国の初代国家主席。政権を握るとソ連をモデルに、徐々に社会主義化を進め、最終的には完全な独裁体制を完成させた。しかし、その強引な社会主義政策のために多くの国民が犠牲になり、一時は5,000万人もの餓死者を出したとも言われ、それを覆い隠すために、「文化大革命」と呼ばれる毛沢東による思想・政治が入り乱れたいわば”毛沢東キャンペーン”が長期にわたり大規模に展開された。晩年はが筋萎縮性側索硬化症を患い、82歳で死亡。
1977年
【死去】ケネス・オドネル(Kenneth Phillip O’Donnell)【政治家/アメリカ合衆国】

20世紀アメリカの政治家で第35代アメリカ大統領ジョン・F・ケネディの補佐官およびケネディの顧問グループ「アイリッシュ・マフィア」のメンバーとして知られる人物。ハーバード大学在学中にジョンの弟ロバート・ケネディと出会う。以後ジョンの選挙を手伝い上院スタッフとなり、1960年にジョン・F・ケネディ大統領選キャンペーンスケジュール責任者に就任。1961年にジョンが大統領に当選すると大統領特別補佐官となる。1963年に「ケネディ大統領暗殺事件」が発生した際に暗殺された車に同乗しておりショックを受ける。その後、1965年にリンドン・ジョンソン大統領に従事。1966年にマサチューセッツ州知事選挙の民主党指名を得ようするも敗れる。1968年にロバートが大統領予備選挙へ出馬し選挙事務所長となる。1968年に「ロバート・ケネディ暗殺事件」が発生。1970年に再び同州知事選挙への民主党指名を得ようするも敗れる。友人2人の暗殺や民主党指名に敗れ続けたことからアルコール依存症となり、1977年9月9日に胃腸障害で死去。没年53歳。

1981年
【死去】ジャック・ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan)【哲学者・精神科医・精神分析家/フランス】

20世紀フランスの哲学者、精神科医および精神分析家でフロイト派心理学の代表的人物のひとり。大学で哲学と医学を学び、卒業後は精神科医として勤務。ジークムント・フロイトの精神分析学に傾倒。1937年に論文『鏡像段階論』を発表。哲学者アレクサンドル・コジェーヴのヘーゲル講義で哲学者ジョルジュ・バタイユの元妻で女優のシルヴィア・バタイユと出会いその後結婚。1953年にパリ精神分析協会会長に就任するも同協会で内紛が生じたため、1964年に「ÉcoleFreudienne de Paris(パリ・フロイト派)」を創設。1966年にラカンの弟子ジャック=アラン・ミレールがラカンの論文をまとめた『エクリ』を発表。1980年にパリ・フロイト派を解散。1981年9月9日、大腸ガンの手術に失敗しモルヒネを投与され死去。没年80歳。

1983年
【死去】ルイス・モンティ(Luis Fernando Monti)【プロフットボール・指導者/アルゼンチン・イタリア】

20世紀アルゼンチン・イタリアで活躍したサッカー選手で異なる2つの国籍の代表チームでワールドカップ決勝戦に出場した唯一の選手。ブエノスアイレスのラ・ボカ地区を本拠地とするサッカークラブ「ボカ・ジュニアーズ」に所属し1924年にアルゼンチン代表チームに招集される。1927年に南米選手権でチームが優勝、1928年「アムステルダムオリンピック」で銀メダル獲得。1930年に「ワールドカップ・ウルグアイ大会」に出場。1931年にイタリアのである「ビッグクラブユヴェントスFC」と契約。1932年にイタリア代表となり、1934年「ワールドカップ・イタリア大会」で優勝。同年のイングランドの親善試合バトル・オブ・ハイベリーに出場するも開始わずか2分で骨折し退場。引退後は指導者として活躍し1983年9月9日に死去。没年82歳。

1990年
【処刑】サミュエル・ドウ(Samuel Kanyon Doe)【軍人・政治家/リベリア共和国】

20世紀リベリアの軍人および政治家で第21代リベリア大統領(1986年〜1990年)となった人物。1969年にリベリア陸軍へ入隊し1979年に下士官へ昇進。1980年に上級軍曹に昇進後、他のリベリア部族出身兵士トーマス・クィウォンパ、トーマス・ウェー・シェン、ハリソン・ダン、ネルソン・トウら共に軍事クーデターを起こし、第20代リベリア大統領ウィリアム・R・トルバート大統領を殺害。同年に同共和国人民救済評議会議長に就任し、大統領の弟フランク・トルバートらを公開処刑。1986年に大統領へ就任すると新聞の発行停止、政治活動の禁止といった圧政を行なう。1989年に政治家のチャールズ・テーラーがリベリア国民愛国戦線(NPFL)の武力介入が起こり「第一次リベリア内戦」へ発展。1990年9月9日、リベリア独立国民愛国戦線(INPFL)の指導者プリンス・ジョンソンが首都モンロビアへ侵攻してきたためアメリカの介入を求めるも拒否される。その後西アフリカ諸国経済共同体監視団(ECOMOG)に介入を求めるもジョンソンの策略によりINPFLへ連行され、自身の切り取られた耳を食べさせられるといった拷問を受けた後銃殺刑で死去。没年39歳。

1994年
【死去】ビル・モンロー(Bill Monroe)【ミュージシャン/アメリカ合衆国】

アコースティック音楽のジャンル「ブルーグラス」を確立させた“ブルーグラスの父”と称される20世紀アメリカのミュージシャン。1921年に両親がなくなったため叔父に引き取られる。この時叔父がフィドルを演奏する際にマンドリンを伴奏。1929年に石油精製所で働くためインディアナへ移住しラリー・ムーアらと音楽グループ「Monroe Brothers」を結成。その後、1934年から演奏して生計を立てることに。1936年にレコード会社RCA Victorと契約。ゴスペル曲『What Would You Give In Exchange For Your Soul』を発表しヒット。1938年に「Monroe Brothers」を解散。その後、クロー・ディビスらと「Blue Grass Boys」を結成し1946年に『Blue Moon of Kentucky』を発表。1960年代初頭からブルーグラスというジャンルが確立し1965年に『Blue Grass Festival』を開催。晩年も活動を続けていたが1994年9月9日に脳卒中により死去。没年84歳。

1996年
【未解決事件】【放火殺人事件】「柴又女子大生放火殺人事件」

1996年9月9日午後4時半頃に東京都葛飾区柴又3丁目の民家で火災が発生し、焼け跡から上智大学4年生、小林順子の遺体が発見された。手足を縛られ、首に刺し傷があったことから殺人事件として捜査を進めたが、現在に至るまで犯人逮捕には至らず。足の縛り方が「からげ結び」という特殊な結び方であったことや現場に残っていたマッチ箱から家族以外のDNAが検出され、さらには布団に残った血痕から同じDNAが発見されたが、犯人の特定には至っていない。なお被害者は2日後に海外留学を控えていた。

1997年
【死去】バージェス・メレディス(Burgess Meredith)【俳優・軍人/アメリカ合衆国】

20世紀に活躍したアメリカの俳優で映画『ロッキー』シリーズのトレーナー役として知られる人物。1933年に劇場会社Eva Le Gallienneの社員となり、映画『廿日鼠と人間』(1939年)や『G・I・ジョウ』(1945年)に出演し人気を博す。1940年代は『セカンド・コーラス』(1940年)『The Diary of a Chambermaid』(1946年)『我が道は楽し』(1948年)など多くの映画に出演。「第二次世界大戦」中はアメリカ空軍に従軍し大尉へ昇進。その後、テレビドラマシリーズ『バットマン』に出演しペンギン役で人気を博し、『枢機卿』(1963年)といった映画に出演。1976年に映画『ロッキー』でトレーナー役のミッキー・ゴールドミルとして出演しアカデミー助演男優賞を受賞し以後も同作のシリーズに出演。晩年まで俳優として活動を続け、1997年9月9日にアルツハイマー病と悪性黒色腫で死去。没年88歳。

2001年
【死去】相米慎二【映画監督】

薬師丸ひろ子を主演にした映画『翔んだカップル』『セーラー服と機関銃』、第1回東京国際映画祭でグランプリを獲得した『台風クラブ』等の作品で知られる映画監督。一般作監督としてヒットを飛ばした以降ににっかつロマンポルノ作品『ラブホテル』の監督を手がけるなど、多ジャンルにわたり活躍した。2001年6月に肺ガンと診断され、同年9月に53歳没。生涯独身であった。

2001年
【暗殺】アフマド・シャー・マスード(Ahmed Shah Massoud)【軍人・活動家/アフガニスタン】

ソ連により衛生国家化されたアフガニスタンで反ソ連勢力のゲリラとして軍事的指導者にあった人物。1992年に首都カーブルを占領したラッバーニーによりアフガニスタン・イスラム国が誕生すると、その国防相、政府軍司令官等の要職を兼任し、国家的英雄として同国を率いた。2001年9月9日、アラブ系の二人組の自爆テロによって死亡。没年48歳。アメリカ同時多発テロの2日前だっただけに関連性が疑われたが真相は不明。

2004年
【未解決事件】【放火殺人】「愛知豊明母子4人殺人放火事件」

2004年9月9日午前4時過ぎに愛知県豊明市在住の加藤博人宅で出火。加藤が急ぎ帰宅すると妻・利代、長男・佑基、長女・里奈、次男・正悟の4人が遺体となって発見された。遺体に刺し傷や打撃痕が見つかったために放火殺人として捜査を続けたが、現在に至るまで犯人は特定されていない。また、2005年3月11日に加藤が勤務先の詐欺事件で逮捕されているが、2004年の事件とは関連性はないとみられている。

2004年
【死去】アーニー・ボール(Ernie Ball)【実業家・ミュージシャン/アメリカ合衆国】

20世紀アメリカの実業家およびギタリストで同国初のギター専門店を開設したことで知られる人物。音楽一家の家に生まれ10代からプロとしてバーなどで演奏を行なう。1950年に「朝鮮戦争」が勃発すると空軍バンドとして従軍。戦後はスタジオミュージシャンや講師の仕事に従事。1957年代頃に初のギター専門店を開業しギターの弦『スリンキー』を開発。1970年代に入るとヨーロッパやアジア圏に「アーニー・ボール社」の販売代理店を設立。1984年に楽器メーカー「ミュージックマン」を買収。2004年9月9日、病により死去。没年74歳。

2007年
【航空事故】「スカンジナビア航空1209便胴体着陸事故」

コペンハーゲン国際空港からオールボー空港に向かうデンマークの国内線、スカンジナビア航空1209便ボンバルディアDHC8-Q400が、着陸時に右主脚が出なかったために燃料を減らした上で緊急胴体着陸を敢行。乗員乗客73人中5人の負傷者を出す結果となった。事件直後の10月27日にもノルウェーで同型機による同様の事故が発生したためスカンジナビア航空は翌28日でDHC8-Q400型機を永久運航停止とした。

2009年
【ハイジャック】【航空事故】「アエロメヒコ航空576便ハイジャック事件」

カンクン発メキシコシティ行きのアエロメヒコ航空576便ボーイング737-852型機が、フェリペ・カルデロンメキシコ大統領との対話を望むグループによりハイジャックされた事件。乗員乗客112人が人質となったが、メキシコシティ到着後に全員が解放された。機内に残っていた5人が容疑者として逮捕されたが、ボリビア人のホセ・マルク・フローレス・ペレイラを除き、犯人とは断定できなかった。ペレイラは過去に服役したことがあり、ドラッグやアルコールの依存症であった人物で、神のお告げによるハイジャックであったと供述。2009年9月9日という「666」の裏返しの日を選んでの犯行だったと言われている。