『アヤックスとのヨーロピアンカップに臨むセルティック監督時代のステイン(左)と、控え室に担ぎ込まれるステインを報じた「グラスゴーヘラルド」紙』

1985年9月10日は、当時、サッカーのスコットランド代表監督だったジョック・スタインが試合終了直後に死亡した日である。
1965年にスコットランドの強豪クラブ、セルティックの監督に就任以来、リーグ記録という9連覇を達成し、1966-1967シーズンにはUEFAチャンピオンズカップ(現在のUEFAチャンピオンズリーグ)の優勝をイギリスのクラブチームで初めて果たし、1970年に大英帝国勲章を受勲したという大監督、ジョック・スタイン。
1990年代以降世界的隆盛を誇ったマンチェスター・ユナイテッド元監督、サー・アレックス・ファーガソンが師匠と慕う同郷の巨人である。
そんな彼が死んだのは、現在も世界中を熱狂させるフットボールという狂乱の最中であった。
1986年FIFAワールドカップヨーロッパ予選の最終戦で、ステイン監督率いる母国スコットランド代表チームは、最終戦となるウェールズ戦でに引き分け以上でオーストラリアとのプレイオフに進めるという状況にあった。
そして、0ー1で迎えた試合終了9分前、スコットランドはPKを獲得して1ー1のスコアに追いつき、見事プレイオフへの進出を決めたのだった。
しかし、歓喜に揺れるスコットランド国民をよそに、監督のステインは試合を無事終えた瞬間に心臓発作を起こし、控え室に担ぎ込まれ、そのまま息を引き取ったのである。
当時ステインの傍らでアシスタントを務めていたファーガソンにとって、これ以上無い教材もなかったであろう。
1960年代〜1970年代にかけて、無敵を誇ったリバプールFCの名監督、ビル・シャンクリーはこう言った。
「Football is not a matter of life and death. It's much more important than that.(フットボールは生き死にの問題ではない、それよりももっと重要だ)」
ステインの突然死は、まさにフットボールビジネスに携わる者の苛烈さ、そして精神の磨り減り方をその身をもって象徴した“死文化”といえるだろう。

(画像はWikipedia Jock Steinより使用)

9月10日の不幸

1308年
【死去】【夭逝】後二条天皇【天皇】

鎌倉時代後期に第94代天皇(1301年〜1308年)となった人物。2代にわたり持明院統が天皇となったため、大覚寺統の亀山上皇が幕府に反発。そのため、1298年に大覚寺統の後二条天皇が皇太子へ。1301年、天皇に即位するも1308年9月10日、病により死去。没年23歳。

1382年
【死去】ラヨシュ1世(Anjou I Lajos)【王族/ハンガリー王国】

14世紀にハンガリー王(1342年〜1382年)およびポーランド王(1370年〜1382年)となった人物。1342年にハンガリ−王に即死すると、対外政策を始めクロアチア、ダルマチアを支配下へ。1347年、ナポリ王国の王都を占領。1370年、嗣子がいないため類縁としてポーランドの王位も継承。晩年は修道院に引退し1382年9月10日に死去、没年56歳。

1419年
【暗殺】ブルゴーニュ公ジャン1世【貴族/フランス】

百年戦争時代に"sans peur(無怖公)"と呼ばれた人物。1936年に十字軍に参加、「ニコポリスの戦い」で捕虜となるが身代金が支払われ釈放。1404年、ブルゴーニュ公となりオルレアン公ルイと対立し、1407年にルイを暗殺。フランドルへ逃亡後、翌年パリへ戻り国王シャルル6世から赦免を受ける。1410年、ルイの息子オルレアン公シャルルのアルマニャック派と対立し、武力衝突が激化。1411年、イングランドの支援を受けアルマニャック派を制圧。しかし、翌年イングランドとアルマニャック派が同盟を結び、また、市民によるカボシュの反乱などが起こり、フランドルへ退去。イングランドのフランス侵攻が行なわる中、1418年にブルゴーニュ派が勢力を取り戻し再びアルマニャック派と対立。1419年9月10日、王太子シャルルからの和解交渉中、アルマニャック派の支持者により暗殺された。没年48歳。

1622年
【宗教事件】「元和の大殉教」

1622年9月10日、江戸時代の禁教令により投獄されていた、カトリック教徒55人が長崎・西坂で火刑および斬首により処刑された事件。処刑された55人の内、火刑は25人、斬首は30人となった。

1910年
【暗殺事件】「オーストリア皇后エリーザベト暗殺事件」

1898年9月10日、無政府主義者ルイジ・ルケーニがジュネーヴ・レマン湖でオーストリア皇后エリーザベトを刺殺した事件。「王侯であれば誰でも良かった」と発言しており、偶然居場所を知ったエリーザベトが標的となった。逮捕後、ルケーニは死刑を希望したが終身刑の判決となった。その後、11年服役し1910年10月、独房の中で回顧録を書いた後ルケーニはベルトで首吊り自殺した。

1961年
【競技中事故死】【夭折】ヴォルフガング・フォン・トリップス(Wolfgang Alexander Albert Eduard Maximilian Reichsgraf Berghe von Trips)【レーシングドライバー/ドイツ】

1956年にフェラーリからデビューしたF1ドライバー。1961年にフェラーリで参戦した第2戦オランダグランプリで自身にとってとドイツ人にとっての初優勝を遂げ、続く第6戦イギリスグランプリでも優勝。7戦目のイタリアグランプリでは自身初のポールポジションからスタートしたが、2周目にロータスのジム・クラークと接触し車から投げ出され即死。巻き込まれた観客14名も死亡した。没年33歳。

1969年
【誘拐殺人】「正寿ちゃん誘拐殺人事件」

1969年9月10日、東京・渋谷区で登校中であった横溝正寿ちゃん(当時6歳)が黒岩恒雄(当時19歳)に誘拐・刺殺された事件。同級生が誘拐現場を目撃しており学校へ連絡、連絡を聞いた母親は警察に通報した。同日、黒岩は脅迫電話を行なった後、職務質問を受け持っていた袋から正寿ちゃんの履いていた靴が発見され、連行後に誘拐殺人を自供したため逮捕された。正寿ちゃんの遺体は供述通り渋谷駅の一時預かり所から見つかった。1972年、黒岩は死刑判決が下り1979年に刑が執行された。

1976年
【航空事故】「ザグレブ空中衝突事故」

1976年9月10日、ユーゴスラビア(現クロアチア)上空で民間機ブリティッシュ・エアウェイズ476便(ホーカー・シドレー トライデント3B)とイネックス・アドリア航空550便(ダグラスDC-9-32)が空中衝突した事故。原因は航空管制センターの管制官の連絡ミスにより両機の高度が重なったため衝突。このため、両機の航空管制を担当していたザグレブ航空の管制官8人全員を拘束。過失が認められた管制官には懲役7年が言い渡された。この事故により476便は乗客乗員あわせて63人全員が死亡、550便も乗客乗員あわせて113人全員が死亡した。

1976年
【死去】ダルトン・トランボ(Dalton Trumbo)【脚本家・映画監督/アメリカ合衆国】

1940年代に活躍したアメリカの映画監督。10代から小説を書き始め、1930年頃に雑誌などへ記事を投稿。記事が注目され編集や映画評論の職を得る。その後、ワーナー・ブラザーズの脚本部へ。脚本家として生活しながら小説の執筆も行ない、1939年に小説『Johnny Got His Gun(ジョニーは戦場へ行った)』を出版。1940年、脚本を手がけた映画『恋愛手帖』がアカデミー脚色賞にノミネートされ、脚本家としての地位を築く。1943年にアメリカ共産党に入党。"赤狩り(マッカーシズム)"への弾圧運動に参加し1947年に"ハリウッド・テン"に名を挙げられ禁固刑の実刑判決を受けることに。1951年、メキシコに滞在しながら偽名で脚本家を続け、1954年にアメリカへ帰国。1956年、ロバート・リッチの偽名で脚本した映画『黒い牡牛』がアカデミー原案賞を受賞。また、1960年に偽名で脚本を務めた『スパルタカス』、『栄光への脱出』が共にヒットし、トランボの名前がクレジットされた。実名で復帰後の1971年『Johnny Got His Gun(ジョニーは戦場へ行った)』を監督し、カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリなどを受賞。実名でハリウッドに復帰した後、『脱獄』『パピヨン』などの脚本に関わった。また、長年映画化を希望していた自作の小説『ジョニーは戦場へ行った』を、自らの監督作品として原作・脚本を兼ね、自ら資金も調達して製作した。1971年に公開され、アメリカでは興行的に失敗したが、カンヌ国際映画祭では審査員特別グランプリ、FIPRESCI(国際映画批評家連盟)賞、国際エヴァンジェリ映画委員会賞を受賞した。1970年、全米脚本家組合から功労賞を授与。1976年9月10日、心臓発作により死去。没年70歳。

1977年
【死刑】「最後のギロチン刑」

フランスで世界最後のギロチンといわれるハミダ・ジャンドゥビの処刑が、死刑執行人マルセル・シュヴァリエにより行なわれた。罪状は拷問の末の殺人と強姦。

1979年
【死去】アゴスティニョ・ネト(António Agostinho Neto)【思想家・政治家/アンゴラ共和国】

アンゴラの思想家および初代大統領(1975年〜1979年)となった人物。1940年代にポルトガル政権下のアンゴラで民族主義運動へ参加。ポルトガル・リスボンに留学した後、1959年に帰国。翌年、独立運動に参加し逮捕されリスボンへ。その後、脱走しザイールへ亡命。1961年、アンゴラ解放人民運動(MPLA)を率いアンゴラ独立戦争を指導、1975年に独立が成功し初代大統領に就任。1979年9月10日、膵臓ガンにより死去。没年56歳。

1984年
【死去】ジョルジュ・ド・ボールガール(Georges de Beauregard)【映画プロデューサー/フランス】

1960年の映画『勝手にしやがれ』を始めとしたジャン=リュック・ゴダールの初期作品を手がけたことで知られるヌーヴェルヴァーグ期の映画プロデューサー。エリック・ロメール等その他の同時期の映画作家も数多く見出したことでも知られている。63歳没。

1986年
【急死】ジョック・ステイン(John 'Jock' Stein CBE)【サッカー選手・指導者/スコットランド】

現役時代は主にセルティックで活躍した名センターバック。引退後の1965年にスコットランドの強豪クラブ、セルティックの監督に就任以来、リーグ記録という9連覇を達成し、1966-1967シーズンには、UEFAチャンピオンズカップ(現在のUEFAチャンピオンズリーグ)の優勝をイギリスのクラブチームで初めて果たし、1970年に大英帝国勲章を受勲したという欧州フットボール史に残る名監督。1986 FIFAワールドカップヨーロッパ予選の最終戦に母国スコットランド代表を率いて参加し、土壇場で見事プレイオフ進出を勝ち取ったウェールズ戦の終了直後に心臓発作を起こし、控え室に担ぎ込まれ、そのまま息を引き取った。没年62歳。

1993年
【死去】ハナ肇【ミュージシャン・コメディアン・俳優】

『シャボン玉ホリデー』等、昭和30年代から40年代にかけて、テレビバラエティ創生期を席巻したコミックバンド「ハナ肇とクレージーキャッツ」のリーダーにしてドラマー。映画では"東宝クレージーシリーズ"といわれるクレージーキャッツ主演映画を連発し、個人的には『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』での「アッと驚く為五郎!」の名フレーズや『新春かくし芸大会』の銅像コントで人気を博した。渡辺プロダクション黎明期の中心的存在であり、同プロの後続グループであったザ・ドリフターズの志村けんを除く全てのメンバーの名付け親でもあった。晩年は性格俳優として活動し、肝臓ガンで63歳没。晩年の看病はザ・ピーナッツの二人と付き人だったなべおさみが行ない、谷啓、犬塚弘らクレイジーキャッツのメンバーが見守る中の死去であった。葬儀・告別式の弔辞は森繁久彌と植木等が読んだ。

1997年
【死去】フリッツ・フォン・エリック(Fritz Von Erich)【プロレスラー/アメリカ合衆国】

テキサス州出身のアメリカ人でありながらドイツ・ベルリン出身のナチスギミックのレスラーとして活躍し、必殺技「アイアン・クロー」の生みの親として"鉄の爪"の愛称で知られるプロレスラー。NWA、WCCWの米国マットはもちろん、1966年11月に日本プロレスに初参戦以降、全日本プロレスにもたびたび来日しジャイアント馬場との名勝負を繰り広げた。引退後はプロモーターとして活躍し、脳腫瘍、肺ガンにより68歳没。5人の子供全てがプロレスラーとなったプロレス一家の父であり、それらのほとんどが相次ぐ怪死を遂げた悲劇の一家の父としても知られている。

2001年
【社会事件】「BSE問題」

日本初の牛海綿状脳症(Bovine Spongiform Encephalopathy)に感染した恐れのある乳牛が、2001年9月10日に千葉県で発見されたことを農林水産省が発表した事件。牛肉を扱う企業や飲食店に大きな打撃を与えた。また、この事件により農家や獣医医師など5人が自殺。

2003年
【暗殺事件】【殺人事件】「アンナ・リンド外相暗殺事件」

2003年9月10日、スウェーデンのアンナ・リンド外相がトックホルムのデパートで買い物中に同じくスウェーデン人のミハイロ・ミハイロビッチ(当時35歳)によりナイフで刺され翌日死亡した事件。事件から2週間後ミハイロは逮捕され終身刑となった。事件を起こす5日後にミハイロは精神病院から退院する予定であった。

2006年
【自殺】犬丸りん【漫画家・エッセイスト】

NHK教育テレビで放送された人気テレビアニメ『おじゃる丸』の原案者として知られるマンガ家。2006年9月10日に自宅マンションの14階から飛び降り自殺。隣のビルの屋上(5階建て)に転落して死亡した。没年48歳。母親宛の遺書には「仕事ができない」と記されており、仕事を苦にしての自殺と考えられている。

2014年
【死去】リチャード・キール(Richard Kiel)【俳優/アメリカ合衆国】

12歳にして身長218センチメートルの巨体を誇り、映画『007 私を愛したスパイ』『007 ムーンレイカー』等の出演で知られる"世界一大きな俳優"。1992年の自動車事故以降は車椅子生活となったが、1999年頃までは俳優として活躍を続けた。虚血性心疾患による心臓発作で74歳没。