『パレスチナ解放戦線にハイジャックされ、その記者発表中に革命空港に着陸させられた英国海外航空のヴィッカースVC-10(左)とトランスワールド航空のボーイング707(右)の2機』

1970年9月12日は、9月6日にパレスチナ解放戦線(PFLP)が起こした同時多発ハイジャック事件、「PFLP旅客機同時ハイジャック事件」の最終局面で、人質を解放した3機が爆発した日である。
世界各国で囚われていたPFLPメンバーやその関係者の解放を目的にしたこの同時多発ハイジャックは、9月6日の4機同時を含め(うち2機は失敗)、全部で5機をハイジャックするという史上最大のスケールで行なわれ、アメリカ、ソ連を含む世界規模での6日間もの長期にわたる人質引き渡し交渉となった。
まず、ハイジャックに成功した3機はヨルダンのアンマン近郊にある「革命空港((旧ドーソンズ基地))」に集められ、421人もの人質の生命が賭けられた交渉に突入。
最終的には「人質の解放と同時にPFLPメンバーの解放」を約束した列強国だったが、その解放の瞬間に「イスラエルと国際社会の対応に対する抗議」として残る3機を爆破。
正義を貫くはずの国際社会が、テロリストたちをだまし討ちするという複雑なエンディングに、社会的にはどこまでも暗い印象を与える事件となった。
そして、この時の苦い経験が後に“Black September(黒い9月)”と呼ばれ、パレスチナ解放戦線(PFLP)の統括組織、パレスチナ解放機構(PLO)内に作られたテロ組織の名称となった。
1972年9月5日の「ミュンヘンオリンピック事件」、1977年10月13日の「ルフトハンザ航空機ハイジャック事件」というその後の“黒い9月”の犯行は、この時に生まれた因縁によるものであり、さらにPFLPは1973年7月20日、日本赤軍との「ドバイ日航機ハイジャック事件」へと向かってゆく。
PFLPの数々のテロ行為をもってそれを“正義”とは形容し難いが、1970年9月12日の“黒い結末”が“黒い未来”を描いていったということは、歴史が証明している事実なのである。

(写真はWikipedia Dawson's Field hijackings より。Public Domain)

9月12日の不幸

1806年
【死去】津太夫【船員】

江戸時代後期に日本人初の世界一周を果たした水手のひとり。1793年に宮城県石巻から江戸に向かう途中で漂流し翌年にアリューシャン列島東部ウナラスカ島に漂着。漂着後、ロシア人に助けられアトカ島、オホーツクといったアメリカやロシアの島を経て1796年にロシアのイルクーツクへ。その後の1803年にロシア皇帝アレクサンドル1世命によりサンクトペテルブルクへ到着。アレクサンドル1世から帰国を許され、同年にロシア使節船に乗船し世界一周を成し遂げ長崎に到着。1806年に帰郷し、1814年9月12日に死去。没年70歳。

1831年
【死去】十返舎一九【戯作者・武士】

江戸時代後期に活躍した戯作者で滑稽本『東海道中膝栗毛』の作者として知られる人物。江戸で武家奉公をした後、1783年に大阪へ移り浪人生活へ。その後、義太夫語りの家に身を寄せ浄瑠璃作者に転身。1789年に近松与七名義で、浄瑠璃『木下蔭狭間合戦』を執筆。1794年に江戸へ戻り蔦屋重三郎の元で挿絵描きなどの職に従事。1795年、黄表紙『心学時計草』を出版し、以後、洒落本や合巻、狂歌集などの執筆活動に専念。1802年に滑稽本『東海道中膝栗毛』のヒットにより流行作家へ。1831年9月12日に死去。没年67歳。

1860年
【処刑】ウィリアム・ウォーカー(William Walker)【フィリバスター・冒険家/アメリカ合衆国】

19世紀を代表するフィリバスターおよび冒険家でニカラグア大統領(1856年〜1857年)となった人物。ヨーロッパで医学を学んだ後、部下を引き連れ1853年にメキシコのバハ・カリフォルニア半島にロウアー・カリフォルニア共和国の成立を宣言。翌年、メキシコのソノラ州にソノラ共和国の成立を宣言するもアメリカおよびメキシコの軍隊によって鎮圧。逮捕・釈放の後、1854年にニカラグアの自由党から内戦終結のための援軍を求められ、1855年にニカラグアのグラナダを占領。自由党のパトリシオ・リバスを大統領に就任させ、自身は最高司令官に就任。1856年、大統領に選出されると黒人奴隷制を復活。ニカラグアを拠点としカリブ海を掌握しようとしたため、近隣の中米諸国と敵対。加えてニカラグア国内からも反発を受け追放処分へ。その後、アメリカへ帰国するも自らの国を持つ夢を叶えるため1860年にホンジュラスへ上陸。隣接する英領ホンジュラスのイギリス海軍に捕らえられた後、ホンジュラス軍へ引き渡され、同年9月12日に処刑された。没年36歳。

1977年
【拷問死】スティーヴ・ビコ(Stephen Bantu "Steve" Biko)【活動家/南アフリカ】

ダーバンのナタール大学医学部在学中から反アパルトヘイト活動に身を投じた黒人意識運動活動家(Black Consciousness Movement)。。1977年1月からはBPC(Black People's Convention/黒人人民会議)の初代名誉議長として活動したが、同年8月18日にテロリズム法第6条で身柄を拘束されポートエリザベスの警察による拷問を受け、移送先のプレトリアで脳挫傷により9月12日に死亡。30歳没。死後、警察は「ハンガー・ストライキによる死亡」と虚偽の発表を公表した。

1992年
【エイズ死】アンソニー・パーキンス(Anthony Perkins)【俳優・映画監督/アメリカ合衆国】

アルフレッド・ヒッチコック監督作品『サイコ』の主役で知られる人気俳優。1961年の映画『Goodbye Again(さよならをもう一度)』でカンヌ国際映画祭男優賞を受賞。1980年代からは監督としても活動したが、同性愛のスキャンダルや麻薬不法所持での逮捕等、私生活は荒廃してゆき、1992年9月12日にエイズによる合併症で死亡。没年60歳。

1995年
【競技中事故死】永井康友【オートバイロードレースレーサー】

1989年にヤマハのワークスから全日本ロードレース国際A級デビューし、1994年には日本人初のボルドール24時間耐久ロードレース優勝を遂げるなど、世界的に活躍したオートバイのロードレース選手。1995年にスーパーバイク世界選手権に日本人として初めてフル参戦し、第10戦オランダの第2ヒートで、ファブリツィオ・ピロバーノの転倒事故でコース上に捲き散っていたオイルで転倒。投げ出された自らの体に落下してきたバイクに押し潰され意識不明のまま病院に搬送され死亡した。没年29歳。その年のポイントランキングで永井は5位であった。

2003年
【死去】ジョニー・キャッシュ(John R. "Johnny" Cash)【歌手・ミュージシャン/アメリカ合衆国】

ヒット曲140曲以上、グラミー賞11回受賞など、20世紀のポップミュージックのシーンに絶大な貢献を果たしたカントリー・ミュージシャン。1980年には48歳でカントリー・ミュージック殿堂入り(史上最年少)した人物であり、『I Walk the Line 』『Ring of Fire 』等の代表曲は世界中のミュージシャンたちに繰り返しカバーされている不朽のスタンダードナンバーとなっている。私生活ではデビュー直後の1950年代からドラッグを常用し、1965年にはカリフォルニア州ロス・パドレスの国有森林の大規模な火災を引き起こし罰金刑、メキシコからの麻薬密輸疑惑も報じられるなど、ロックスターらしいアウトローな人物像として知られ、晩年まで荒廃した生活は続いていた。晩年は糖尿病や肺炎に苦しみ、2003年9月12日に糖尿病の合併症で死亡。没年71歳。2003年の「MTV Video Music Awards」の最優秀撮影賞を獲得した『Hurt 』(ナイン・インチ・ネイルズのカバー)のプロモーションビデオはその墓碑銘的作品として人々の心をえぐった。

2008年
【自殺】デヴィッド・フォスター・ウォレス(David Foster Wallace)【小説家/アメリカ合衆国】

1987年の小説『The Broom of the System(ヴィトゲンシュタインの箒)』で知られるニューヨーク出身の小説家。2008年9月12日にカリフォルニア州クレアモントの自宅で首吊り自殺をしたところを妻に発見された。没年46歳。

2012年
【現役引退】「金本知憲現役引退」

連続試合フルイニング出場1,492試合、連続イニング出場13,686という世界記録を達成した、当時阪神タイガースの金本知憲(現監督)が現役引退を発表。長年低迷していたタイガースにFA移籍後は18年ぶりのリーグ優勝に貢献するなど黄金期を築いた。11年を過ごした広島カープ時代を含め、大卒選手としては異例の実働21年、2,539安打という並外れたキャリアを残した。"鉄人"と言われた全盛期を送ったが、晩年の度重なる怪我に「もっと練習しておけばよかった」と悔しさを滲ませた。