『杉山隆一に指導をする日本代表監督時代のデットマール・クラマー』

2015年9月17日は、1964年の東京オリンピックで日本代表チームを率いた“日本サッカーの父”である西ドイツのサッカー指導者、デットマール・クラマーが死亡した日である。
その指導は選手の実技だけに止まらず、リーグ戦や環境の整備など、サッカー界全体を近代化させ、クラマーの教えを引き継いだ1968年メキシコオリンピック日本代表チームは、史上初の銅メダルを獲得した。
後に「バイエルン・ミュンヘン監督時代のチャンピオンズ・カップ獲得よりも嬉しかった」と語るほどの情熱的な関係が、クラマーと日本代表チームの間には存在していたのであろう。
それらのストーリーを鑑みれば、2005年に創設された「日本サッカーの殿堂」の第1回受賞者がクラマーだったのは、当然の選択であったといえるだろう。

(画像はWikipedia Dettmar Cramer より使用。Public Domain)

9月17日の不幸

1786年
【死去】徳川家治【武士・将軍】

江戸時代中期から後期にかけて江戸幕府第10代将軍(1760年〜1786年)となった人物。第9代将軍の徳川家重の息子として生まれ、1760年に徳川宗家の家督を相続し将軍職に。以後、田沼意次を側用人、老中に松平武元を起用し政治を行なう。1779年に息子の家基が急死したため、1781年に一橋家当主・徳川治済の長男で後の第11代将軍・徳川家斉を養子に迎える。1786年9月17日に脚気による心不全で死去。没年50歳。

1928年
【自然災害】「オケチョビー・ハリケーン襲来」

1928年9月17日にフロリダ州ウェストパームビーチにオケチョビー・ハリケーンが上陸。市内では1,711戸以上の家屋が破壊され、およそ2,500人が死亡した。

1945年
【自然災害】「枕崎台風」

1945年9月17日に鹿児島県川辺郡枕崎町(現・鹿児島県枕崎市)付近に枕崎台風が上陸。枕崎測候所で最大風速40.0メートル毎秒、最大瞬間風速62.7メートル毎秒を記録。広島を中心に死者2,473人、行方不明者1,283人、負傷者2,452人を出すこととなり、室戸台風・伊勢湾台風と並び“昭和の三大台風”のひとつに数えられている。

1945年
【集団自殺】「瑞穂村開拓団集団自決」

日本の第二次世界大戦敗戦決定の約一カ月後にあたる1945年9月17日に当時の満州国北安省瑞穂村において、瑞穂村開拓団が青酸カリにより集団自決。一般女性、子供を含む約495人が一度に自殺を遂げたといわれている。

1980年
【暗殺】アナスタシオ・ソモサ・デバイレ(Anastasio Somoza Debayle)【軍人・政治家/ニカラグア】

ニカラグア国家警備隊に入所し、司令官としてソモサ一族の独裁体制に貢献したアナスタシオ・ソモサ・ガルシアの次男。1967年4月13日に兄のルイスが急死した後を受け、第43代ニカラグア共和国大統領に就任。”中米のアミン”と呼ばれる独裁者として君臨したが、その国民弾圧により国際社会から独立し、1979年にサンディニスタ民族解放戦線によるニカラグア革命でアメリカに亡命。その後バハマ、グアテマラを転々とし、最終的にはパラグアイに亡命。アスンシオン滞在中の1980年9月17日にベンツを運転していたところ、サンディニスタ民族解放戦線と関係の深いアルゼンチンの「人民革命軍(ERP)」により暗殺された。没年54歳。

1985年
【事故死】ローラ・アシュレイ(Laura Ashley)【ファッションデザイナー・実業家/イギリス】

20世紀イギリスで活躍したファッションデザイナーおよび実業家でブランド「ローラ・アシュレイ」の創設者として知られる人物。秘書学校で学び、「第二次世界大戦」はロンドンのイギリス婦人会連盟 (National Federation of Women’s Institutes) で秘書として従事。その後、秘書として働きながら1953年にヴィクトリア朝スタイルのスカーフをデザインし生産を開始。同年に映画『ローマの休日』内でオードリー・ヘプバーンが着用し世界的な流行となる。以後、店舗経営を行ないながら製品のデザインを手がけることに。1961年にプリント布地の生産工場をウェールズへ移転。1966年に「ローラ アシュレイ」のトレードマークとなる初の社交用ドレスを製作。1968年に「ローラ アシュレイ」の屋号で初店舗をサウス・ケンジントンに開業。以後店舗を増やし、1974年にパリとサンフランシスコへ進出。1977年に大英帝国勲章 (OBE) 授与される。1985年9月17日、階段から落ちたことによる脳出血のため死去。没年60歳。

1994年
【死去】【夭逝】中川勝彦【歌手・俳優】

1980年代に活躍した歌手および俳優。娘はマルチタレントの中川翔子。1978年に慶應義塾高等学校に入学しバンド活動を開始。1980年にNHK『ヤングミュージックフェスティバル』へ出場しデビュー。その後、映画『ねらわれた学園』(1981年)『転校生』(1982年)などに出演し人気を博す。以後、歌手や俳優、ラジオパーソナリティーとして活躍。マルチタレントとして活躍中の1992年に急性骨髄性白血病を発症。闘病生活を経て復帰するも白血病が再発し1994年9月17日に死去。没年32歳。

2002年
【国際事件】「2002年日朝首脳会談」

2002年9月17日、朝鮮民主主義人民共和国・平壌の百花園招待所で、当時内閣総理大臣であった小泉純一郎と朝鮮民主主義人民共和国の朝鮮労働党総書記である金正日が朝首脳会談を開催。金正日が日本人の拉致事件を公式に認め、『日朝平壌宣言』に署名し国交正常化交渉を再開することで合意。

2004年
【スポーツ問題】「2004年プロ野球再編問題」

2004年6月13日にオリックスと近鉄の合併構想が表面化、これに対し両球団オーナー・経営陣が労働組合日本プロ野球選手会と野球ファンから反発を受け「プロ野球再編問題」が勃発。同年9月16日から同月17日にかけて球団側と選手会の労使交渉が行なわれるも決裂。その後、日本プロ野球選手会が日本プロ野球では史上初となるストライキ決行を発表。

2005年
【死去】アルフレッド・リード(Alfred Reed)【作曲家・指揮者/アメリカ合衆国】

20世紀アメリカを代表する作曲家および指揮者として知られる人物。10代からトランペットや作曲を学び、高校卒業後は放送局の作曲編曲兼副指揮者の職に。1942年に第529陸軍航空隊バンドへ配属され副指揮者兼ディレクターに。1946年にジュリアード音楽院へ入学し作曲家のヴィットリオ・ジャンニーニに師事。その後、NBC・CBS・ABCなどで音楽番組制作に携わり、1953年にベイラー大学シンフォニーオーケストラの指揮者へ就任。1955年からハンセン出版社の責任編集者を務める。1957年に代表曲『音楽祭のプレリュード』を作曲。1966年にはマイアミ大学音楽学校教授に就任。1968年にペルー国立音楽院から名誉博士号を授与される。1988年に洗足学園音楽大学客員教授に就任。晩年も作曲家、指導者として活躍し2005年9月17日に老衰のため死去。没年84歳。

2007年
【死去】森田光徳【実業家】

昭和の実業家でシャボン玉石けん株式会社の代表取締役社長として知られる人物。大学卒業後、父親が創業した「森田商店」へ入社し30歳代で社長へ就任。就任後は合成洗剤の製造・販売を行なう。その後、国鉄から「非合成系の車両用洗剤を開発してほしい」と依頼を受け原料以外は無添加の石鹸作りに着手し、以後無添加石鹸を販売し続けることに。2007年に体調不良から社長を退任し相談役へ。同年9月17日に死去。没年76歳。

2015年
【死去】デットマール・クラマー(Dettmar Cramer)【サッカー選手・指導者/ドイツ】

“日本サッカーの父”と呼ばれ、実技指導だけに止まらず、リーグ戦や環境の整備など、草創期の日本サッカー界全体を近代化させ、多大な貢献を果たした西ドイツのサッカー指導者。現役時代はウィクトリア・ドルトムント等で活躍したフットボール選手であり、引退後の1960年に、1964年東京オリンピックに臨む日本代表チームの代行監督として来日。1964年の東京オリンピックで日本代表チームをベスト8に導き、クラマーの教えを引き継いだ1968年メキシコオリンピック日本代表チームは、史上初の銅メダルを獲得した。その後本国に戻りバイエルン・ミュンヘン、バイエル・レバークーゼン等の一流クラブチームやタイ、マレーシアなどの各国代表チームの監督を歴任。バイエルン・ミュンヘン監督時代1975-1976シーズンにはUEFAチャンピオンズ・カップを獲得するなど、世界的な指導者としてその名を馳せた。2005年に創設された「日本サッカーの殿堂」の第1回受賞者。2015年9月17日にバイエルン州ライト・イム・ヴィンクルで死亡。没年90歳。死の直後である9月19日、20日に開催されたJリーグ全公式戦において、試合前、クラマーに対する黙祷が行なわれた。

2016年
【テロ】「2016年マンハッタン爆発」

2016年9月17日にアメリカ・ニューヨーク州マンハッタンのチェルシー地区で、フライドチキンレストラン従業員でアフガニスタン出身のアハマド・カーン・ラハミ(当時28歳)がイスラム過激派思想に感化され道路にあった大型の鉄のごみ箱に爆弾をしかけ爆発させた事件。このテロにより25人以上が負傷、同月19日にラハミは警察との銃撃戦の後に逮捕された。

2016年
【最終回】「漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』連載終了」

この日発売の週刊『週刊少年ジャンプ』42号で、1976年9月21日発売の同誌42号から40年続いた秋本治の連載漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』が終了。全1960話、全200巻にわたる記録的な長期連載であった。