9月22日の不幸
- 1253年
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【死去】道元【僧侶・宗教家】
天台宗に学び出家した後に臨済宗の明全に師事し、南宋に渡り中国曹洞宗より印可を受け、日本における曹洞宗の開祖となった人物。福井県笠松に永平寺を開きその布教に努めた。『正法眼蔵』を記したことでも知られる。瘍により53歳没。
- 1882年
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【暗殺】シャカ・ズールー(Shaka Zulu)【王族/ズールー王国】
南部アフリカの部族、ズールー一族の主張の第一子として生まれ、ズールー王国初代国王として南アフリカの大部分を治めるまでに拡大した人物。厳しい粛正を伴った恐怖政治を行なったことでも知られ、1827年に母ナンディが死亡した際には7,000人を殉死させたといわれている。その暴政のため内外に敵は多く、翌年の南方遠征の際に異母弟のディンガネ・カセンザンガコナらにより暗殺された。没年41歳。
- 1950年
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【盗難事件】「日大ギャング事件」
日本大学の運転手、当時19歳の山際啓之が日大職員の給料190万円を強奪。愛人の藤本佐文と逃走するも2日後に逮捕。通報により大森署の警官に逮捕された際に山際が「オー、ミステイク!」と言ったことから「オーミステイク事件」とも呼ばれた。戦後の1950年代に流行した典型的なアプレゲール犯罪のひとつといわれている。
- 1982年
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【死去】佐分利信【俳優・映画監督】
昭和に活躍した俳優で戦前の松竹の看板スターとして知られる人物。愛称は”サブリどん”。1929年、日本映画俳優学校に入学し、翌年に日活へ入社。1931年に島津元名義で内田吐夢監督映画『日本嬢』で俳優デビュー。1933年に日活を退社後、1935年から松竹蒲田撮影所へ入社。この時、佐分利信に改名。1936年に映画『家族会議』の主演で注目され、『人妻椿』などの作品で人気俳優へ。同年、上原兼らと”松竹三羽烏”を結成し、ドラマにも出演。松竹大船町メロドラマの看板俳優となるが、戦後人気は低迷。1950年に『女性対男性』で映画監督デビューし、『慟哭』(1952年)、『心に花の咲く日まで』(1955年)などを発表。1960年以降は主にテレビドラマに出演していたが、1973年に映画界へ復帰。1982年9月22日、肝臓ガンにより死去。没年73歳。
- 1989年
- 【死去】横井庄一【軍人】陸軍伍長。アメリカとの太平洋戦争のグァムの戦いに日本帝国陸軍軍曹として参加し、日本の敗戦を知らぬまま終戦後27年間を彼の地のジャングルで生き延びた。帰国後の会見での言葉「恥ずかしながら帰ってまいりました」は当時の流行語となり、NHKテレビ放送の報道特別番組『横井庄一さん帰る』は、59,8パーセントという歴代屈指の視聴率を記録した。帰国後の横井氏の人生は、その奇妙な戦争体験、サバイバル術の逸話で引っ張りだこに。1974年に参議院議員選挙に出馬するも落選。最期は心臓発作で82歳没。
- 1997年
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【現役引退】「X JAPAN 解散」
1997年4月に脱退したヴォーカリスト、Toshiの後任を見つけられなかったとして、この日行なわれた記者会見でロックバンド「X JAPAN」が解散を発表。同年12月31日に東京ドームで『THE LAST LIVE〜最後の夜〜』を行ない、その直後に『第48回NHK紅白歌合戦』へと出演し活動を停止した。後の2008年に再結成をし現在も活動中。
- 1999年
- 【死去】淡谷のり子【歌手】昭和初期を代表するシャンソン歌手。『別れのブルース』等多くのブルースを冠した曲をリリースしたために”ブルースの女王”といわれた。晩年はテレビ『ものまね王座決定戦』等の歌番組で、辛口のご意見番として活躍した。老衰により92歳没。
- 2015年
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【死去】ヨギ・ベラ(Lawrence Peter “Yogi” Berra)【プロ野球選手・指導者/アメリカ合衆国】
1946年に契約して以来、ニューヨーク・ヤンキーズの黄金時代を支えた正捕手として活躍を続けた伝説的なメジャーリーガー。その現役生活で14回のワールドシリーズ出場で10度の世界一を経験。自らも3度のリーグMVPを獲得し、通算2,120試合出場で358本塁打、2,150安打という大記録を残した。引退後の1972年に野球殿堂入り、身に着けた背番号の「8」はいまも球団の永久欠番となっている。引退後はヤンキース、メッツで監督として後進の指導に当たったが、ヤンキース監督時代の1985年の途中にオーナーのジョージ・スタインブレナーとの喧嘩で退任。1998年に和解するまで、古巣とは絶縁状態にあった。2015年9月22日に老衰のため睡眠中に死亡。没年90歳。1946年9月22日のメジャーリーグデビューからちょうど69年年後のことであった。
- 2015年
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【死去】岸朝子【ジャーナリスト】
料理記者、食生活ジャーナリスト。後に世界的な人気も獲得した人気テレビバラエティ『料理の鉄人』の審査員として「おいしゅうございます」の名台詞とともに活躍した。心不全で91歳没。