『1932年の映画「Freaks(フリークス)」のポストカード』

1962年の10月6日は、映画の黎明期であるサイレント期から活躍した世界的映画監督、トッド・ブラウニングが死亡した日である。
ブラウニングは1931年の大ヒット映画『Dracula(魔人ドラキュラ)』の監督として映画史に名を残す人物であるが、その翌年に監督した『フリークス』は、その栄光に勝るとも劣らぬ暗い影を生み出した問題作であった。
実際のフリークショーに出演していた障害のある俳優を大量に起用し、小人症の男が健常者の女性に恋をし、裏切られ、復讐を遂げるところまでを描いた『フリークス』。その鬼気迫る復讐劇(最終的には女性の四肢を切断してしまう)は、恐らく映画史上に於いても有数の恐ろしさであろう。
しかし、この作品の恐ろしさは多くの人々の許容を超えるものであり、イギリスでは公開後30年もその放送禁止処分が解かれることはなかった。
そしてこの作品をきっかけに、順風満帆であったトッド・ブラウニングのキャリアは一変、様々な企画が彼の意に反してペンディングされるようになってゆき、舞い込む仕事は小規模なものばかりとなる。
そして1939年まだ50代にしてキャリアを諦め、余生を送っていたマリブで死んでゆくことになる。
ブラウニングの『フリークス』は、他のどんな作品に比べても劣らぬ丁寧な造りで、《人間の真実》を暴くことに紛れもない成功を収めている。
そんな名作が彼のキャリアを何よりも妨げたことは、いかに人間とその社会が複雑であるかを証明しているだろう。

(写真はWikipedia François Cévert より使用)

10月6日の不幸

1932年
【強盗事件】「赤色ギャング事件」

1932年10月6日、東京市大森区の川崎第百銀行大森支店で発生した日本共産党党員による日本初の銀行強盗事件。拳銃を所持した3人組が31,700円を奪い、自動車で逃亡。事件直後は犯人検挙には至らなかったが、犯人グループに拳銃の密売を行なった人物が検挙され、その後、実行犯であった西代義治、中村経一、立岡正秋、強盗計画の首謀者であった今泉善一などが続々と逮捕された。犯行目的は日本共産党の相次ぐ検挙により、活動資金が不足していたため。

1948年
【社会事件】【汚職事件】「昭和電工事件」

1948年に当時の大手化学工業会社・昭和電工社長の日野原節三が、政府高官や政府金融機関幹部に対し行なった贈収賄汚職事件。23億円余の復金融資を受けた日野が政界へ膨大な運動費を支払ったことで事件が発覚し、同年10月6日に社会党書記長であった西尾末広前副総理が逮捕された。

1955年
【航空事故】「ユナイテッド航空409便墜落事故」

1955年10月6日、アメリカ・ワイオミング州にあるメディソン山の山頂に、ユナイテッド航空409便(ダグラス DC-4)が墜落した事件。この事故により乗員乗客合わせて66人全員が死亡。事故原因は未だ不明だが、その後の調査により操縦室のヒーターの不具合で発生した有毒ガスによりパイロットが意識喪失した可能性があることが判明した。

1962年
【死去】トッド・ブラウニング(Tod Browning)【映画監督/アメリカ合衆国】

ユニバーサル、メトロ・ゴールディン・メイヤー等から60本以上もの映画作品を手がけ、20世紀前半の映画草創期に活躍した映画監督。代表作に『Dlacula(魔人ドラキュラ)』等があるが、実在の奇形芸人たちを起用した復讐劇映画『フリークス』を監督したことにより、業界内外から批判が殺到し、事実上このカルト作品により映画人としてのキャリアを失う。晩年はマリブに移住し、友人宅の洗面所で死亡しているところを発見された。没年82歳。

1973年
【事故死】フランソワ・セベール(François Cévert)【レーシング・ドライバー/フランス】"フランスのジェームス・ディーン"という甘いマスクで人気を博し、ブリジット・バルドーとの交際でも話題を呼んだ国民的人気F1ドライバー。1971年に自身の初優勝を挙げたアメリカのサーキット、ワトキンググレンで行なわれたF1アメリカグランプリの1973年開催大会予選においてコースアウト。ガードレールに落下し、股から鎖骨にかけて、真っ二つに裂かれるようにして死亡。没年29歳。
1974年
【事故死】ヘルムート・コイニグ(Helmut Koinigg)【レーシング・ドライバー/オーストリア】ブラバム、サーティースという2つのチームからF1参戦。サーティース移籍後のカナダグランプリで予選を始めて通過し、F1デビュー。続くアメリカグランプリも予選通過となったが、本戦10週目にサスペンションのトラブルでコースアウト。三段ガードレールによって首が切断されるF1史上でも2度目の残酷な事故死を遂げた。没年25歳。
1981年
【暗殺】アンワル・アッ=サーダート(Muhammad Anwar al-Sadat)【軍人・軍人/エジプト】

エジプトの軍人および政治家で、共和政エジプト第3・7代大統領(1973年~1974年・1980年~1981年)・第2代アラブ連合共和国大統領(1970年~1971年)・初代エジプト・アラブ共和国大統領(1971年~1981年)を歴任した人物。1937年にカイロの王立陸軍士官学校を卒業後、祖国解放運動へ参加。1939年、陸軍通信学校へ入学。卒業後は第二次世界大戦へ従軍しながら、1942年に祖国解放のためワフド党政権に代わりアリ・マヘルを擁立しようと計画。しかし、計画は失敗し逮捕され拘留生活へ。1944年に脱獄すると終戦までカイロにある日本庭園に潜伏し、1952年の「エジプト革命」に参加。翌年、ナセル政権が樹立し国務大臣に就任。1958年にアラブ連合共和国が建国されると連合国務長官に就任した後、1964年に副大統領へ。1970年、ナセルが死去したため大統領へ就任。翌年、アラブ連合共和国を解体し国号をエジプト・アラブ共和国へ改め、初代大統領へ。1973年、シリアとともにイスラエルに対し「第四次中東戦争」を起こし国民的英雄へ。1979年、アメリカの仲介のもとイスラエルと平和条約を締結。このことにより、1978年にノーベル平和賞を受賞した。1981年10月6日の「第四次中東戦争」戦勝記念日パレード中にイスラム復興主義過激派のハリド・イスランブリ砲兵中尉に暗殺され死亡。没年62歳。

1997年
【死去】内海好江【漫才師】

昭和から平成にかけて活躍した漫才師で漫才コンビ「桂子・好江」で知られる人物。マセキ芸能社所属。夫婦漫才師の荒川小芳・林家染寿の娘として1945年に漫才デビュー。1950年に漫才コンビ「桂子・好江」を結成し、1958年『NHK新人漫才コンクール』で優勝。以降、漫才師として活躍し、1961年に「文部省芸術祭奨励賞」、1982年には「芸術選奨文部大臣賞」を受賞している。1990年代から日本テレビのバラエティ番組『午後は○○おもいッきりテレビ』に準レギュラーとして出演したことでも。コンビ活動も続ける中、1997年10月6日に胃ガンで死去。没年61歳。

2007年
【死去】グエン・ベト【市民/ベトナム】

ベトナムの結合双生児"ベトちゃんドクちゃん"の兄として知られる人物。1980年代に下半身が繋がった結合双生児として世界的にマスコミ報道され、日本での支援活動へと発展。1986年に急性脳症を発症し、日本で緊急手術を受け、一命を取り留めるも後遺症が残ることに。1988年に意識不明の重体となり、ベトナムで分離手術が行なわれ成功。その後は介護生活を送りながら、2007年10月6日、腎不全と肺炎の併発により死亡。没年26歳。