『永易将之の八百長を報じる1969年10月8日の報知新聞』

1969年10月8日は、日本プロ野球創設以来最大のスキャンダル、野球賭博事件「黒い霧事件」の始まりとして、西鉄ライオンズの投手、永易将之の八百長報道がされた日である。
この年、暴力団関係者に請われて敗退行為をしていた永易を調査していた西鉄ライオンズはその証拠を掴み、永易の解雇を決定していたが、その情報を掴んだ『読売新聞』、『報知新聞』が10月8日に報道。
コミッショナーにより永易は永久追放処分となったが、その後にメディアに出演した永易はエース格の池永正明を含む6人のチームメイトの名を告白、さらには他球団選手、そしてオートレースでの八百長容疑にまで繋がる大スキャンダルへと発展した。
結果的に永易、池永を含む6人の現役選手が永久追放処分、暴力団との交際が明るみになった江夏豊を含む13人が処罰を受けるという結果となった。
このように先の見えない、不気味なまでの不正行為の広がりが、“黒い霧”と形容されたのである。
2015年に発覚した笠原将生ら読売ジャイアンツの選手らによる野球賭博問題もまだ記憶に新しいところだが、果たして、その霧は全て晴らすことができるものなのだろうか。

(画像は『報知新聞』1969年10月8日版)

10月8日の不幸

1317年
【死去】伏見天皇【天皇・歌人・書家】

鎌倉時代の第92代天皇(1287年〜1298年)で京極派の歌人、書道の伏見院流の祖としても知られる人物。第89代後深草天皇の息子として生まれ、1287年に天皇へ即位。1289年に息子の胤仁親王(後伏見天皇)を皇太子にしたことで対立する大覚寺統との確執が深まり、1290年に伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が勃発。1298年に後伏見天皇へ譲位し院政を開始。1312年に勅撰集『玉葉和歌集』を編纂。1313年に出家し後伏見上皇へ院政を譲渡。1317年10月8日に死去。没年53歳。

1469年
【死去】フィリッポ・リッピ(Fra Filippo Lippi)【画家・聖職者/イタリア】

15世紀イタリア・ルネサンス中期に活躍したフィレンツェ派を代表する画家のひとりで同じく画家のサンドロ・ボッティチェッリの師として知られる人物。孤児として修道院で育ち画家のロレンツォ・モナコなどから絵画を学ぶ。以後、修道士として生活しながら画家として活動を開始し『タルクイニアの聖母』(1437年)『受胎告知』(1440年)などを制作。1452年に代表作となったプラート大聖堂の壁画を制作。1456年にプラートのサンタ・マルゲリータ修道院の司祭に就任するも同修道院の修道女ルクレツィア・ブーティと恋愛関係となり問題となる。その後、正式に還俗し夫婦として認められ1467年に壁画制作のため妻子とともにイタリア中部へ移住。壁画製作中の1469年10月8日に死去。推定没年齢63歳。

1595年
【処刑】石川五右衛門【盗賊】

安土桃山時代の盗賊の首長として知られる人物。1595年10月8日に捕らえられ京都三条河原で釜茹でにより煮殺された。没年齢不明。その後、江戸時代になり創作題材として利用されることで世に知られることとなった。

1807年
【自殺】アンリ・クリストフ(Henry Christophe)【ハイチ/軍人・政治家】

黒人奴隷の家庭に生まれ、1791年の「ハイチ革命」で頭角を現わし将軍にまで昇格。1807年2月17日にハイチ国(北ハイチ)大統領に、そして1811年3月26日にハイチ王国国王に即位した人物。「アンリ法典」を制定するなど法整備に務めたが、独裁者として孤立し、軍部のクーデターを恐れ1820年10月8日に拳銃自殺。

1866年
【騒擾事件】「廷臣二十二卿列参事件」

1866年5月に幕府軍による「長州征討」が失敗に終わったことを機に孝明天皇へ尊攘派の公家を朝廷に復帰させることを談判しに同年10月8日に大原重徳ら公家22人が朝廷に押しかける騒擾事件が勃発。その後大原重徳らは謹慎処分となった。

1869年
【死去】フランクリン・ピアース(Franklin Pierce)【政治家/アメリカ合衆国】

弁護士から民主党員となり政治家に転身し、ニューハンプシャー州上院議員、アメリカ合衆国下院議員、ニューハンプシャー州下院議長を歴任し、1953年に第14代アメリカ合衆国大統領に就任した人物。就任一カ月で副大統領のウィリアム・キングが急死するなど、不運な大統領として知られる人物で、私生活でも3人の子供を幼児期に失うという悲劇的な人生を送った。大統領退任後の晩年はアルコール依存症に苦しみ、1869年10月8日に肝硬変で死亡。没年64歳。

1895年
【暗殺】閔妃(Minbi)【王后/朝鮮】

19世紀李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃として知られる人物。当時朝鮮最大の領地を所有していた閔一族に生まれ、1866年に王妃に選出され王宮へ入る。高宗が親政を行なうようになると高宗の父・興宣大院君を1873年に追放し政治の実権を掌握。以後、大院君一派との権力争いが激化。1874年に義兄・閔升鎬を暗殺した罪で大院君の腹心・申哲均を拷問により殺害。1882年に大院君と旧式軍隊による閔妃暗殺計画と反乱が勃発(壬午事変)。同年に大院君を拉致し清の天津へ幽閉。1884年に急進開化派による甲申政変が起こり鎮圧。1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発し日清戦争へ発展。大院君派の日本が勝利したことで1895年10月8日に日本軍守備隊や閔妃に不満を持つ朝鮮警務使らにより暗殺された(乙未事変)。没年43歳。死後大院君により平民へ降格されるも後に復位している。

1895年
【政治事件】【殺人事件】「乙未事変(いつびじへん)」

1895年10月8日、李氏朝鮮第26代国王・高宗の王妃であった閔妃が、王宮に乱入した日本軍守備隊、朝鮮親衛隊らによって暗殺された事件。事件は日本公使・三浦梧楼らにより計画されたもので、当時の朝鮮における日本の勢力を挽回するため、ロシアに接近していた閔妃を殺害するに至った。事件関係者は、日本政府により裁判にかけられた後、証拠不十分として全員釈放されている。

1967年
【死去】クレメント・アトリー(Clement Richard Attlee)【政治家・弁護士・軍人/イギリス】

20世紀イギリスの政治家および弁護士・軍人で第62代イギリス首相(1945年〜1951年)となった人物。大学卒業後弁護士となり「第一次世界大戦」が勃発すると従軍。1919年に労働党初の首長としてステップニー市長に就任。1922年に下院議員へ選出され、1924年にラムゼイ・マクドナルド内閣の陸軍次官へ就任。以後、労働党下院代表などを経て、1935年に労働党党首へ就任。「第二次世界大戦」中は王璽尚書(おうじしょうしょ)、副首相となり、終戦後の1945年に首相へ就任。1951年に首相、1955年に労働党党首を辞任し同年に下院議員を辞職。晩年は爵位を得て貴族院議員となり1967年10月8日に肺炎で死去。没年84歳。

1967年
【奇妙な死】【事故死】【殺害】山崎博昭【活動家・学生】

「第1次羽田事件」で死亡した新左翼活動家および学生として知られる人物。高校時代からデモや集会に参加し1967年に京都大学入学後は新左翼として活動を行なう。1967年10月8日「第1次羽田事件」に参加、機動隊と学生の攻防中に死去。没年18歳。死因については学生らが奪った警備車両に轢かれて死亡した説が有力視されている。

1967年
【暴動】「第一次羽田事件」

反戦、反米感情が高まっているさなか、当時の佐藤栄作首相の東南アジア歴訪を阻止しようとした新左翼各派が羽田空港で機動隊と衝突した事件。あらゆる方向からバリケードを崩し羽田空港に向かったが、中核派の攻撃した弁天橋で京都大学の学生山崎博昭が死亡した。結果的に佐藤首相は予定通りに外遊に飛び立ち、58人が公務執行妨害罪、凶器準備集合罪等の容疑で現行犯逮捕された。

1969年
【スポーツ賭博】【八百長事件】「黒い霧事件発覚」

日本プロ野球創設以来最大の野球賭博事件「黒い霧事件」の始まりとして、西鉄ライオンズの投手、永易将之の八百長を放置新聞が報道。この年西鉄ライオンズは永易の解雇を決定していたが、暴力団関係者に請われて敗退行為をしていたという情報をが明らかになった。コミッショナーにより永易は永久追放処分となったことに加え、永易はエース格の池永正明を含む6人のチームメイトの名を告白したために、他球団選手、さらにはオートレースでの八百長容疑にまで繋がる大スキャンダルへと発展。結果的に永易、池永を含む6名の現役選手が永久追放処分、暴力団との交際が明るみになった江夏豊を含む13名がなんらかの処罰された。

1982年
【死去】フィリップ・ノエル=ベーカー(Philip Noel-Baker)【政治家・陸上競技選手・軍人/イギリス】

20世紀イギリスの政治家および陸上競技選手でメダリストおよびノーベル平和賞受賞者として知られる人物。10代から中長距離走選手として活躍し1912年の「ストックホルムオリンピック」へ出場。大学卒業後はイギリス労働党員へ。「第一次世界大戦」が勃発すると衛生兵として従軍。終戦後は国際連盟を創設し事務局員となる。1920年の「アントワープオリンピック」へ選手兼監督として出場し男子1,500メートル走で銀メダルを獲得。1924年にロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)の国際関係学部教授へ就任。同年「パリオリンピック」に選手兼監督として出場。1929年に庶民院議員へ選出され、1932年のジュネーブ軍縮会議で議長の私設秘書を務める。その後は運輸相、国務相兼国連代表、英連邦相などを歴任。1959年に平和軍縮運動が認められノーベル平和賞を受賞。1977年に男爵となり貴族院議員となる。晩年も平和に対する運動を続け1982年10月8日に死去。没年92歳。

1987年
【スポーツ事件】「かませ犬発言」

東京・後楽園ホールで行なわれた新日本プロレスの興行で、長州力がその日のタッグパートナーであった藤波辰巳に「俺はオマエの噛ませ犬じゃない」と発言。後のインタビューでに自らこの発言を明かし、反逆の”革命戦士”として絶大な人気を獲得するきっかけとなった。

1990年
【殺人事件】「国勢調査員殺害事件発覚」

1990年10月8日、広島県広島市安佐南区で国勢調査員の女性(当時36歳)が農道脇の竹やぶで死亡しているのが発見された事件。翌日に犯人の男性(当時25歳)が出頭・逮捕された。殺害理由については衝動的であったと告白、懲役18年の実刑となった。事件後、国勢調査は複数人で行なうことが義務付けられた。

1991年
【殺人事件】「国勢調査員殺害事件」

1990年10月8日、第15回国勢調査中に非常勤の国家公務員として勤務中であった主婦(当時36歳)が訪問先の男性(当時25歳)に殺害された事件。事件直後は滑落による事故死とされたが、司法解剖の結果絞殺されたことが判明。翌日、犯人が出頭したため、逮捕された。犯人は衝動的に主婦を殺害後、遺体を農道脇の竹やぶに遺棄したことを供述した。1991年、犯人は懲役18年の実刑判決となっている。

1992年
【死去】ヴィリー・ブラント(Willy Brandt)【政治家・ジャーナリスト/ドイツ】

20世紀ドイツの政治家で第4代連邦首相(1969年〜1974年)となった人物。10代から社会主義の青年運動に参加し社会主義労働者青少年団にに入団。1929年に社会民主党機関誌『民衆の使者』へ記事を寄稿、1930年にドイツ社会民主党(SPD)へ入党。1931年にSPDからドイツ社会主義労働者党(SAP)へ入党。1933年から反ナチス運動へ参加、ノルウェー労働党の機関紙へ寄稿しジャーナリストとして活躍。1938年にナチスにより国籍剥奪されるもノルウェー国籍を取得。「第二次世界大戦」中はスウェーデンに亡命しジャーナリストとして活動を開始。終戦後はドイツへ帰国、1947年1月にベルリン駐留ノルウェー軍事使節団の報道担当官となるも同年11月に辞職。1948年にベルリン連合国占領軍との連絡員となる。同年に国籍が復活し、ドイツ社会民主党へ入党。1949年にベルリン代表議員に選出され、ヴィルマースドルフ支部の支部長に就任。1950年に西ベルリン市議会議員に選出される。1955年に市議会議長へ就任。1956年に「ハンガリー動乱」が勃発するも鎮静化に成功。1961年にベルリンの壁を東ドイツが建設され市民の往来は不可能に。1962年に副党首に就任、1966年に副首相兼外相へ就任し西ベルリン市長を辞任。1969年に西ドイツ初のドイツ社会民主党出身の連邦首相へ就任。首相就任後は東ドイツとの関係正常化を行ない、同年に核不拡散条約へ調印。1970年にソビエトとモスクワ条約、ポーランドとワルシャワ条約を締結。翌1971年に東ドイツとベルリン協定調、1972年に東西ドイツ基本条約を締結。1971年に東方外交の功績によりノーベル平和賞を受賞。1972年に「過激派条例」を制定、同年に「ミュンヘンオリンピック事件」が勃発。1974年に「ギヨーム事件」が起こり、個人秘書であったギュンター・ギヨーム夫妻が逮捕されることに。1974年に首相引退、その後も社会民主党の党首として活し1987年に党首を退任、終身名誉党首に選出される。1976年に社会主義インターナショナル議長へ1979年から欧州議会議員へ就任。1977年に南北問題に関する独立諮問委員会長へ就任。1989年にベルリンの壁が崩壊。1992年10月8日にガンで死去。没年78歳。

1995年
【宗教事件】「上祐史浩逮捕」

オウム真理教教団幹部で同教団の顔としてスポークスマン的役割を担っていた外報部長の上祐史浩が逮捕。実行犯ではないために逮捕を免れていたが、熊本県阿蘇郡波野村(現・阿蘇市波野)の土地取得に関する「国土利用計画法違反事件」で逮捕された。その後の公判で懲役3年の実刑判決が下り、広島刑務所に服役。

2001年
【死去】ハーバート・ロス(Herbert Ross)【映画監督/アメリカ合衆国】

アメリカン・バレエ・シアターでダンサー、振付師を経て1969年の『チップス先生さようなら』で映画監督デビュー。アカデミー賞監督賞にノミネートされた映画『愛と喝采の日々』の他、『フットルース』『摩天楼はバラ色に』等、1980年代を代表するエンターテインメント大作でその才能を発揮した。心疾患で74歳没。

2001年
【航空事故】「リナーテ空港事故」

2001年10月8日にイタリア・ミラノのリナーテ空港でコペンハーゲンへ向かうスカンジナビア航空686便(MD-87型機)とパリへ向かうセスナ機(サイテーションCJ2)が濃霧により滑走路上で衝突。両機に搭乗していた乗員乗客合わせた114人(うち686便110人・セスナ4人)全員が死亡、また686便が衝突した手荷物管理棟の地上職員4人が死亡4人が負傷した。

2001年
【航空事故】「リナーテ空港衝突事故」

2001年10月8日、イタリア・ミラノのリナーテ空港でスカンジナビア航空686便(MD-87型機)とドイツ籍のジェット機セスナサイテーションが滑走路上で衝突した事故。衝突はセスナサイテーションが濃霧の中、管制塔の指示に反し、スカンジナビア航空686便が離陸態勢に入っていた滑走路内に誤進入したため起こった。この事故により686便の乗員乗客あわせて110人全員、セスナサイテーションも乗員乗客あわせて4人全員が死亡した。

2004年
【死去】ジャック・デリダ(Jacques Derrida)【思想家・哲学家/フランス】

ポスト構造主義を代表する世界的な哲学の権威であり、ニーチェやハイデッカーら先人の哲学を軽傷、発展させた人物として知られる人物。代表的な著書に代表的な著作に『グラマトロジーについて』『エクリチュールと差異』等。2003年に膵ガンに罹り、翌年死亡。没年74歳。

2007年
【死去】旭五郎【漫談家】

昭和に活躍した漫談家で歌謡漫談グループ「東京ボーイズ」のリーダーとして知られる人物。1961年にお笑いグループ「シャンバロー」邦一郎の下に入門し、1964年に三味線の菅六郎と歌謡漫談「東京ボーイズ」を結成。1971年にウクレレの仲八郎が加入。その後「天気がよければ晴れだろう!天気が悪けりゃ雨だろう!」のテーマソングや「謎かけ問答」で人気を博す。晩年も寄せで活躍し2007年10月8日、原発多発性ガンのため死去。没年63歳。

2010年
【死去】池部良【俳優・随筆家】

東宝撮影所シナリオ研究所に研究生として入所後、東宝に入社。若手俳優として活動し始めたところの1942年に陸軍に招聘され戦争体験を送った。終戦後の1949年の『青い山脈』で爆発的な人気を獲得し、一躍二枚目スターに登り詰めた。その後も『坊っちゃん』『雪国』『暗夜行路』と人気文芸作品で活躍。『毎日新聞』に『そよ風ときにはつむじ風』を連載するなど、エッセイストとしても活躍。日本映画俳優協会初代理事長としても活動した。敗血症で92歳没。

2018年
【死去】輪島大士【大相撲力士・プロレスラー・アメリカンフットボール指導者】

昭和から平成にかけて活躍した大相撲力士・プロレスラー・アメリカンフットボール指導者およびタレントで第54代横綱となった人物。高校時代から大学にかけて学生相撲で活躍し1970年に花籠部屋へ入門。同年に幕下付出で初土俵を踏む。翌年に新入幕を果たし、1972年に大関へ昇進し四股名を輪島博から輪島大士へ改名。1973年に全勝優勝し横綱に昇進し史上初の学士・本名横綱が誕生。貴ノ花、魁傑と“阿佐ヶ谷トリオ”と呼ばれることに。1981年に生涯戦歴673勝234敗85休で引退、花籠部屋の親方となるも翌年に家庭問題から部屋が消滅、1986年から全日本プロレスに入門。同年にジャイアント馬場とタッグを組み、アメリカでレスラーデビュー。NWA世界ヘビー級王座などに挑戦し1988年にレスラーを引退。以後、大相撲解説やタレントとして活躍しながらアメフト・Xリーグの総監督やキューバの相撲ナショナルチーム監督、能登観光協会大使などを務める。2018年10月8日に咽頭ガン及び肺ガンにより死去。没年70歳。