『死の直前、ボリビアの田舎町でのチェ・ゲバラ』

1967年10月9日は、アルゼンチンに生まれ「キューバ革命」を先導した革命家、チェ・ゲバラがボリビアの山中で捕らえられた後に射殺された日である。
1959年にフィデル・カストロとともにキューバを社会主義化した「キューバ革命」に成功したゲバラ。
その後に国立銀行総裁、国連での主席等の要職を任されたもののキューバを離れ、革命を起こすためにコンゴに渡るが失敗。
その直後、新たなアメリカ大陸革命の拠点として選んだボリビアに渡り革命を目論むが、国内外からの支援も滞り孤独な戦いとなった。
そして1967年10月8日にアンデス山脈チューロ渓谷で20人程度の小隊で移動中に、政府軍の大軍の襲撃により身柄を拘束された。
身柄拘束後に近郊のイゲラ村の小学校に移送されたゲバラは、翌日大統領レネ・バリエントス・オルトゥーニョの命により射殺された。
数発の弾丸を受けながらも絶命しないゲバラは狙撃者に向かい「撃て臆病者、おまえはただの男を撃つだけなんだ」と叫び、9発もの弾丸を浴びて初めて絶命したという。
その死に方さえも革命家としてのイメージを損なうことのなかったゲバラは、死してなお世界中の反米主義者の間ではカリスマとして称えられ、現在は彼の命が消失したボリビアですら聖人のように崇められている。
無論、革命の拠点となったキューバでは空前絶後の英雄であるが、死後、キューバ人写真家アルベルト・コルダにより制作されたゲバラの肖像『英雄的ゲリラ』はTシャツをはじめとして大量にコピーされた革命的アイコンとして世界中で今も増え続けている。
そのあまりのカリスマ性をかき消すために、ボリビア政府軍は処刑後にゲバラの死体写真を公表せざるを得なかったが、現在から振り返ると、その効果はあまりにも薄かったといわざるを得ない。
死してなお人々の心に生き続けるチェの名は、もはや永遠に「革命家」の言葉と同義なのである。

(写真はWikipedia Che Guevaraより使用)

10月9日の不幸

1047年
【死去】クレメンス2世(Clemens II)【ローマ教皇/ローマ帝国】

11世紀に第149代ローマ教皇(1046年〜1047年)となった人物。ドイツ・バンベルグの司教を経て、1046年にローマ教皇に即位。翌1047年10月9日にアルプスを旅行中に死去。没年42歳。毒殺されたという説もあり、1958年に遺体は調査され、高濃度の鉛糖が検出された。クレメンス2世が鉛中毒であった可能性が高いが、鉛は当時、性病の治療薬やワインの甘み付けなど一般的に使われていたため、毒殺の否かは未だに判明していない。

1831年
【暗殺】イオアニス・カポディストリアス(Ioannis Kapodistrias)【政治家/ギリシャ】

ギリシャ・イオニア諸島ケルキラ島の貴族の出身で、19世紀にロシア帝国の外務大臣(1815年〜1822年)およびギリシャの初代大統領(1828年〜1831年)を務めた人物。イタリアで医学を学び、1797年にケルキラ島で医師として勤務。1799年に同島がロシア帝国およびオスマン帝国に占領されると軍事病院の責任者として従事。1801年に両帝国の保護下のもとイオニア諸島がイオニア七島連邦国として独立、1815年にロシア帝国の外務大臣に。その後、1821年に「ギリシャ独立戦争」が勃発し、1828年にギリシャの初代大統領に就任。ギリシャ独立の翌1831年10月9日、反乱の疑いをかけられたことで反発していた貴族マヴロミハルス家により教会で暗殺された。没年55歳。

1934年
【暗殺】アレクサンダル1世(Aleksandar I Karađorđević)【王族/ユーゴスラビア】

セルビア・クロアチア・スロベニアの王位を継承し、セルビア人の専制体制を強化したユーゴスラビア王。クロアチア人らから激しい抵抗を受け、フランスのマルセイユでフランス外相ルイ・バルトゥーを訪ねた際に、バルトゥーと乗り合わせた車の走行中に射殺された。犯人はクロアチア民族団体ウスタシャとも噂されたが不明。没年45歳。

1958年
【死去】ピウス12世(Pius PP.XII)【ローマ教皇/イタリア】

第二次世界大戦期に第259代ローマ教皇(1939年〜1958年)となった人物。1899年に司祭となり、1917年に枢機卿となった後、枢機卿国務長官へ就任。1933年、ナチス党政権下のドイツと政教条約「ライヒスコンコルダート」を締結。1939年に教皇へ選出され、1958年10月6日に急性心不全により死去。没年82歳。

1967年
【射殺】チェ・ゲバラ(Che Guevara)【革命家・医師/アルゼンチン】

南アメリカ大陸を放浪した後に1959年にフィデル・カストロとともにキューバ革命に導いた革命家。本名はエルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ(Ernesto Rafael Guevara de la Serna)。"チェ"は愛称であり、日頃ゲバラが使っていた南米のスペイン語圏で使われる親しい挨拶を使用したもの。キューバに続いて革命を起こすためにコンゴに渡るが失敗。その直後、新たなアメリカ大陸革命の拠点として選んだボリビアに渡り革命を目論むが、国内外からの支援も滞り孤独な戦いとなり、1967年10月8日にアンデス山脈チューロ渓谷で20人程度の小隊で移動中に、政府軍の大軍の襲撃により身柄を拘束された。近郊のイゲラ村の小学校に移送され、翌日大統領レネ・バリエントス・オルトゥーニョの命により射殺された。没年39歳。

1969年
【死去】正力松太郎【実業家・政治家】

内務省出身で警視庁警務部長を務めていたが、皇太子摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)を狙撃した1923年12月27日の「虎ノ門事件」の警備責任を取り退官。当時業績の落ちていた「読売新聞社」を1924年2月25日に買収し、その社主に。以降、「日本テレビ」の設立、原子力発電の推進、日本プロ野球の発展等に尽力し、衆議院議員、貴族院議員、科学技術丁長官という政治活動も併せ、第二次大戦前後日本の政財界で絶大な権力を掌握した。後年、CIAのスパイとして活動していたことも明らかに。1969年10月9日に静岡県熱海市で死亡。84歳没。死因は心筋梗塞であった。

1974年
【死去】オスカー・シンドラー(Oskar Schindler)【実業家/ドイツ】

軍需工場を経営していた第二次世界大戦中に、ナチスドイツによる"ホロコースト"から、自身の工場で雇用していた1,200人ものユダヤ人の命を救った人物。自身もナチス党員でありながら、その身の危険を顧みず行なったその人道的救出行為は、『シンドラーのリスト』という小説、映画作品で全世界的に広く知られることとなった。66歳没。

1982年
【死去】アンナ・フロイト(Anna Freud)【精神分析学者/イギリス】

精神分析学の始祖、ジークムント・フロイトの実の娘であり、児童心理学を開拓したことでも知られる精神分析医。86歳没。

1988年
【死去】山川千秋【ニュースキャスター】

1970年代から1980年代にかけて活躍したフジテレビのニュースキャスター。1959年にフジテレビへ入社。ニューヨーク特派員、ロンドン特派員となった後、ワシントン支局長へ。その後、1975年にニュースキャスターへ復帰し、フジテレビ系列のニュース番組『FNNニュースレポート23:00』『FNNニュースレポート6:00』などに出演。1988年3月、食道ガンにより出演番組を降板し、同年9月にフジテレビを定年退職。その1カ月後の同年10月9日に死去。没年55歳。

1995年
【死去】アレック・ダグラス=ヒューム(Alexander Frederick Douglas-Home, Baron Home of Hirsel)【貴族・政治家/イギリス】

スコットランド貴族ヒューム伯爵ダグラス・ヒューム家の跡を継いだ男爵であり、二度の外務大臣とイギリス首相を務めた政治家。1963年の首相在任中は不得手な経済政策が裏目に出て短命に終わったものの、その前後に務めた外務大臣としてはEC加盟を達成するなど有能な大臣として知られている。92歳没。

2012年
【死亡】パディ・ロイ・ベーツ(Paddy Roy Bates)【軍人・漁師・実業家・活動家】

イギリス陸軍の元少佐であり、除隊後、イギリス領海外にある海上トーチカのマンセル要塞「ラフス・タワー」を占拠し1967年9月2日に「シーランド公国」を建国、その大公を自称した人物。翌年イギリス海軍を威嚇射撃したために不法占拠罪で逮捕されるが、イギリス領海外であることから釈放に。これを国家として認められたとして1975年に憲法・国家・国旗を制定。1978年にカジノ開設に乗り出したドイツ人の投資家、アレクサンダー・アッヘンバッハにクーデターを起こされたが、これを鎮圧。そのまま管理を続けていた。晩年はアルツハイマー型認知症を患い、イギリスの自治都市、リー・オン・シーのケアホームで2012年10月9日に死亡。シーランド公国は現在も国家として認められていない自称国家であるが、息子であり摂政公太子であったマイケルが2代目大公として引き継いでいる。

2016年
【死去】アンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda)【映画監督・政治家/ポーランド】

20世紀に活躍したポーランドを代表する映画監督で主に半ナチズムの作品で知られる人物。第二次世界大戦中の学生時に対独レジスタンス運動へ参加。ウッチ映画大学へ進学後、1955年に『世代』で映画監督デビュー。1957年、『地下水道』で第10回カンヌ国際映画祭・審査員特別賞、1959年の『灰とダイヤモンド』では第20回ヴェネツィア国際映画祭・国際映画批評家連盟賞を受賞。以後、この3作品は「抵抗三部作」として知られるようになり、アンジェイ・ムンク、イェジー・カヴァレロヴィチらと並ぶ「ポーランド派」を代表する映画監督に。1960年代には青春映画『夜の終りに』やコメディ作品『蝿取り紙』などを政治色を排した作品も発表。その後もモスクワ国際映画祭、カンヌ国際映画祭などの受賞作品を撮り続け、1980年に『ヴィルコの娘たち』でアカデミー賞・外国語映画賞にノミネートされた。1989年から1991年まで上院議員を務めた後、1996年に高松宮殿下記念世界文化賞、翌年にアカデミー賞の名誉賞を受賞。晩年も受賞作を発表し、2016年10月9日、肺不全により死去。没年90歳。

2017年
【死去】ジャン・ロシュフォール(Jean Rochefort)【俳優/フランス】

20世紀に活躍したフランスの俳優。舞台俳優を経て、1950年代から映画俳優として活動。1975年『Que la fête commence...(祭よ始まれ)』、1977年『Le Crabe-tambour』でともにセザール賞の主演男優賞を受賞。1990年に主人公を演じた『髪結いの亭主』がセザール賞7部門にノミネート。生涯で100作品以上に出演し、2017年10月9日にパリの病院で死去。没年87歳。