『マサチューセッツ工科大学の幹細胞研究会議に登壇するクリストファー・リーヴ(2003年撮影)と、1978年の映画「スーパーマン」でのリーヴ(写真小)』

2004年10月10日は、1978年から4作にわたり人気映画『スーパーマン』の主演を務めた俳優、クリストファー・リーヴが死亡した日である。
スーパーマン以前は無名の役者であったリーヴは、1938年発売の人気アメコミ作品の映画化で一躍スターに駆け上がった。
しかし、そのクラーク・ケント役のイメージが強過ぎ、1987年の4作目以降は思うようなキャリアが送れなかった。
そんな中、1995年5月27日に、バージニア州シャーロッツヴィルで乗馬中に落馬。
その結果、脊髄損傷で首から下が全身麻痺という致命傷を負ってしまい、俳優業を全面的に中止し、その後の人生のほとんどをリハビリに費やすこととなった。
しかし、1999年のテレビ映画『裏窓』に車椅子の人物役で出演する等、可能な限りの出演を続け、全盛時の筋骨隆々とした究竟なヒーロー像とは異なるが、重度の障害を負っても俳優として活動ができることを世界に知らしめた。
その痛々しくも荘厳な姿は、彼が若き日に演じたものとは異なるが、紛れもない《ヒーロー》であったといえるだろう。

(写真はWikipedia Christopher Reeve, Supermanより使用。Public Domain)

10月10日の不幸

1913年
【死去】桂太郎【軍人・政治家】

明治〜大正時代にかけて第11・13・15代内閣総理大臣(1901年〜1906年・1908年〜1911年・1912年〜1913年)となった人物で台湾協会学校(現・拓殖大学)の創立者。長州藩士の家に産まれ「戊辰戦争」に参加。明治維新後の1870年にドイツへ留学し、帰国後は陸軍大尉に就任。1894年に「日清戦争」へ従軍、台湾総督を経て陸軍大臣へ就任。1900年、台湾協会学校(現・拓殖大学)を創立。翌年、内閣総理大臣に任命され「日英同盟」を締結。「日露戦争」後は西園寺公望と交互に組閣し、韓国併合や社会主義者への弾圧を実行。1913年、第3次桂内閣樹立後、第一次憲政擁護運動が起こり退陣。同年10月10日、脳血栓により死去。没年67歳。

1924年
【競技中事故死】ハルトフ・ハンバーガー(Hartog Hamburger)【プロ野球選手/オランダ】

オランダのプロ野球1部リーグ「フートクラッセ」のOVVOで長年主力として活躍したプロ野球選手。1924年10月9日の試合中、守備機会にライナーが頭部を直撃し、めまいを引き起こす。翌日から10日間昏睡状態に陥り、そのまま1924年10月10日に死亡した。没年37歳。現在までのところ、ヨーロッパの野球に於いて唯一競技中に死んだ人物として知られている。

1927年
【死去】ジョルジュ・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot)【画家・漫画家/フランス】

明治時代に日本で活動したフランスの画家および漫画家で、主に風刺画で知られる人物。1872年、エコール・デ・ボザール(国立美術高等学校)へ入学。1876年、家計を助けるため退学し挿絵の仕事を開始。1878年、パリ万国博覧会で浮世絵と出会い日本に強い関心を抱く。1881年に小説『ナナ』の挿絵でフランスでの作家の地位を確立。1882年に来日し、1884年までお雇い外国人として絵画の講師の職を得る。その後、ビゴーの作品は外国人居留地在住の外国人の間で人気となり、外国人向けの作品を描き生計を立てることに。1886年、帰国を考えるもフランス、イギリスの新聞社から報道画家の職を得たため滞在期間を延長。日本でも風刺雑誌『団団珍聞』への漫画の寄稿や『郵便報知新聞』の挿絵を描き、翌年、居留フランス人向けの風刺漫画雑誌『トバエ』を創刊。1894年「日清戦争」が勃発すると英紙『ザ・グラフィック』の特派員として従軍。1899年、フランスに帰国。帰国後も大衆画家として活動し、1927年10月10日、脳卒中により死去。没年67歳。

1932年
【死刑】【夭逝】李奉昌(I Bong-chang)【活動家/大韓帝国】

日本統治時代の朝鮮独立運動家で1932年「桜田門事件」で昭和天皇暗殺を図ったことで知られる人物。1931年、大韓民国臨時政府主席の金九と出会い、金が立ち上げた抗日武装組織「韓人愛国団」に入団。同年、昭和天皇暗殺のため氷川丸に乗船し渡日。翌年、東京市外代々木練兵場の陸軍始観兵式に天皇が出席することを知り、計画実行を決意。1932年1月8日、観兵式の警戒網を突破するも待っている間に食堂で日本酒を飲んでいたため、一度機を失い、タクシーで陸軍参謀本部前に向かい警視庁正門へ。式場付近へ向かうも李は天皇が乗車している馬車がわからなかったため、一木喜徳郎宮内大臣が乗車していた二両目の馬車へ手榴弾を投下。しかし、手榴弾の威力は弱く天皇の乗った三両目の馬車は通過。李はその場で逮捕され、同年9月30日に大逆罪として死刑判決を受け、同年10月10日に刑が執行され刑死した。没年32歳。

1934年
【死去】高村光雲【彫刻家】上野恩賜公園の西郷隆盛像、老猿等の代表作で有名な19世紀の日本を代表する彫刻家。『智恵子抄』の高村光太郎は実子。没年82歳。
1944年
【戦争】「十・十空襲」

「第二次世界大戦」後期の1944年10月10日に、アメリカ海軍機動部隊が沖縄を含む南西諸島周辺に対し行なった大規模な空襲。この空襲により那覇市の9割が焼失し548人の死者が出たほか、日本の軍艦戦などに大きな損害が出ることとなった。

1944年
【戦死】【夭折】吉原正喜【プロ野球選手】

第二次世界大戦で戦死した東京巨人軍のプロ野球選手。1934年・1937年と甲子園に出場し準優勝。1938年、同級生の川上哲治とともに東京巨人軍に入団。同年から正捕手を務め、1941年に徴兵されたため退団。1944年10月10日、インパール作戦終結後のビルマで戦死。没年25歳。1978年に野球殿堂入りとなった。

1957年
【原発事故】「ウィンズケール原子炉火災事故」

1957年10月10日、イギリス・セラフィールドのウィンズケール原子炉1号基の炉心の温度が下がらず火災が発生。消火活動が行なわれたが、周囲に多大な放射能物質が漏れることとなった。事故による直接的な死者は出ていないが、周囲の住民からはガンの多発が訴えられている。事故後、1号炉は封印されたままである。

1970年
【テロ】【誘拐拉致事件】【殺人事件】「ケベック州労働大臣ピエール・ラポル拉致誘拐(オクトーバー・クライシス)」

1970年10月10日、ケベック解放戦線(FLQ)のメンバーが、ケベック州労働大臣ピエール・ラポルトを拉致誘拐した事件。メンバーは獄中にいる同胞の解放と宣言文放送をカナダ政府に要求。政府は軍による制圧を試みるも、ラポルトは同月17日にセント・ヒューバート空港近くの藪に放置された車のトランクから遺体となって発見された。

1985年
【死去】ユル・ブリンナー(Yul Brynner)【俳優/ウラジオストク・スイス】

20世紀に活躍したウラジオストクの俳優で映画『王様と私』の王様役で知られる人物。1941年に俳優を志し渡米。ラジオやテレビに出演するようになり、1950年ごろから映画界へ進出。1951年、トニー賞を受賞したミュージカル『王様と私』に出演。ミュージカルはヒットし、1956年に映画化。映画版『王様と私』でも主演し、アカデミー主演男優賞を受賞。以後、『荒野の七人』(1960年)、『あしやからの飛行』(1964年)といった西部劇やアクション映画のヒーロー役を演じ、1970年代以降は『ウエストワールド』といったSF映画で悪役なども演じた。晩年はガンを患い、1985年1月から6月の間、1951年に当たり役となった舞台『王様と私』に出演し、生涯にわたり4633回の出演となった。同年10月10日に死去。没年65歳。

1985年
【死去】オーソン・ウェルズ(George Orson Welles)【俳優・脚本家・映画監督/アメリカ合衆国】

20世紀に活躍したアメリカの俳優・脚本家・映画監督。1931年、アイルランド・ダブリンの劇場で舞台デビュー。1934年にはラジオドラマのディレクター兼俳優として活動を開始。1936年、連邦劇場計画(FTP)が実施されるとウェルズは注目され計画に参加、舞台『マクベス』を公演し大ヒット。1937年、ミュージカル『ゆりかごは揺れる』を公演しようとするも作品の内容から連邦劇場計画側により公演は取りやめに。しかし、別の劇場でミュージカルを公演、この作品もヒットすることとなった。この成功の後、劇団「マーキュリー劇場」を旗揚げ、多くの舞台を手がける中、映画も制作し、1941年に『市民ケーン』で本格的に映画界へ進出。以降、俳優業も行ないながら『黒い罠』(1958年)、『オーソン・ウェルズのフェイク』(1974年)などの作品を撮り、1985年10月10日、糖尿病と心臓発作のため死去。没年70歳。

2003年
【絶滅】「日本産のトキ絶滅」

佐渡トキ保護センターで保護飼育されていた日本産まれの最後のトキであるキン(雌)が死亡。これにより日本産のトキが絶滅し、中国産のもののみとなった。

2004年
【死去】クリストファー・リーヴ(Christopher Reeve)【俳優/アメリカ合衆国】

1978年から4作にわたり映画『スーパーマン』の主演を務めた俳優。しかし、そのクラーク・ケント役のイメージが強過ぎ、以降は思うようなキャリアが送れなかった。1995年5月27日に、バージニア州シャーロッツヴィルで乗馬中に落馬し、脊髄損傷で首から下が全身麻痺。その後の人生のほとんどをリハビリに費やすこととなった。ニューヨークの自宅で心不全により死亡。没年52歳。

2005年
【死去】ミルトン・オボテ(Apollo Milton Opeto Obote)【政治家/ウガンダ】

ウガンダ独立時に第2代首相(1962年〜1966年)となり、その後、同国の第2・6代大統領(1966年〜1971年・1980年〜1985年)となった人物。1956年、ウガンダ国民会議 (UNC) に加入し、1958年に年立法評議会議員に選出。1960年、ウガンダ人民会議を結成し総裁へ就任。1962年、ウガンダが独立し首相に選出され、1966年に大統領へ就任。しかし、1971年にイディ・アミンの起こしたクーデターにより失脚。1980年に再び大統領となるもまたもクーデターが起こり失脚しタンザニアへ亡命。その後、ザンビアで暮らし、2005年10月10日に腎不全で死去。没年80歳。

2009年
【死去】江畑謙介【軍事評論家】

独特な髪型で知られる軍事評論家で、スウェーデン・ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)客員研究員、防衛庁防衛調達適正化会議議員、内閣官房情報セキュリティ専門調査会委員などを歴任した人物。大学院在学中からイギリスの『ジェーン年鑑』といった軍事雑誌へ記事を投稿し『ジェーンズ・ディフェンス・ウィークリー』初の日本特派員へ就任。1991年、「湾岸戦争」時に軍事評論家としてテレビ出演以降、アフガニスタン侵攻」や「イラク戦争」、北朝鮮の核実験といった軍事問題が発生した際にテレビ番組に出演することとなった。2009年10月10日、呼吸不全のため死去。没年60歳。

2011年
【死去】柳ジョージ【歌手・ミュージシャン】

20世紀に活躍したロック歌手。大学在学中にブルース・ロックバンド「パワーハウス」を結成し、卒業後は「ザ・ゴールデン・カップス」の後期メンバーとして加入。同年、ミッキー吉野、アイ高野、デイヴ平尾らとともに大麻取締法違反で逮捕され、グループは解散。その後、渡米し帰国後に音楽活動を再開。1975年「柳ジョージ&レイニーウッド」を結成し、1978年にアルバム『TIME IN CHANGES』でデビュー。1979年、テレビドラマ『死人狩り』のテーマ曲となった『雨に泣いてる...』がヒット。その後、1979年、4枚めのアルバム『RAINY WOOD AVENUE』の『微笑の法則』が資生堂のCMで使用され大ヒットし、翌年、初の日本武道館コンサート開催。1981年、「柳ジョージ&レイニーウッド」を解散しソロ活動へ。1982年、レイ・チャールズと共演。その後、2005年に「柳ジョージ&レイニーウッド」を再結成。晩年まで音楽活動を続けながら2011年10月10日、腎不全により死去。没年63歳。

2015年
【急死】【夭折】猿渡ゆか【女優・レポーター】

テレビ和歌山のレポーターなどで知られた大阪府堺市出身の女優。主な出演には情報番組『わかやまナイズ』、紀行番組『こちら海です』などがある。2015年10月10日、心不全により急死。没年35歳。