『1923年のジャン・コクトーの肖像(写真左)と1962年、ロッテルダムで出演するエディット・ピアフ』

1963年10月11日は、20世紀のフランスを代表する男女2人のアーティストが、ほぼ同時に死亡した日である。
片や不朽の名曲『Hymne à l'amour(愛の讃歌)』で知られるフランスの国民的歌手、エディット・ピアフ。
そしてもう一方は小説家・詩人・映画監督という多才さで知られるアーティストであり、代表作『恐るべき子供たち』で知られるジャン・コクトー。
1940年にはピアフのための演劇『Le Bel Indifferent』をコクトーが作ったように、公私ともに交流のある二人であった。
そして1963年10月11日に、ピアフが肝臓ガンで死亡すると、そのニュースを聞いたコクトーは激しく落ち込み(ピアフの死が公表されたのは10月12日)、その同日の晩、寝床に就くとそのまま心臓発作で死亡したという。
ピアフは47歳、コクトーは74歳という生涯だった。
それぞれの活動を通じ、生前は世界的ともいえる絶大な影響力を人々に与えてきた二人だけに、お互いへの影響力もまた、途轍もなく大きかったのであろう。
日本にも「病は気から」という慣用句があるが、「死もまた気から」とでもいうかのようなこの連鎖的な悲劇は、《他人の死が伝染する》というひとつの珍しい《不幸》である。

(写真はWikipedia Édith Piaf, Jean Cocteauより使用)

10月11日の不幸

1347年
【死去】ルートヴィヒ4世(Ludwig IV. der Bayern)【王族/イタリア】

14世紀イタリア・神聖ローマ帝国の皇帝(1328年〜1347年)およびローマ王(1314年〜1347年)となった人物。ドイツの王族の家系ヴィッテルスバッハ家の一族に生まれ1314年にローマ王に即位。権力争いから1322年に「ミュールドルフの戦い」が勃発。ルートヴィヒ4世がハプスブルグ家のフリードリヒ3世を捕縛し1325年に一族同士で妥協が成立。1328年に神聖ローマ帝国皇帝へ即位し領土拡大に専心。その後、教皇ヨハネス22世と対立、教皇側との対立は続き1346年に教皇クレメンス6世から廃位されることに。翌1347年10月11日に死去。没年65歳。

1531年
【戦死】フルドリッヒ・ツヴィングリ(Huldrych Zwingli)【指導者・宗教家/スイス】

16世紀スイス初の宗教改革者でスイス改革派教会の創始者として知られる人物。大学で宗教学を学び、1506年に司祭となりグラールスの主任司祭に就任。1518年にチューリッヒ司教座聖堂の説教師に。この頃から人文主義者デジデリウス・エラスムスから影響を受け、聖書の原典研究に専念。1519年からチューリッヒ市で宗教改革運動へ参加し聖木曜日のミサの廃止などを行なう。1528年にカトリック派と宗教改革派の対立が深まり宣戦布告のみで和解した「第一次カッペル戦争」が勃発。同年にカトリック諸州の経済封鎖を行なうもカトリック側のウーリ州など森林五州とフリブールが挙兵。ツヴィングリはチューリッヒで挙兵しカッペルへ進軍。「第2次カッペル戦争」中の1531年10月11日に戦死。没年47歳。

1865年
【暴動】「ジャマイカ事件」

1865年10月11日にジャマイカのモラント・ベイ市で、バプテスト派助祭ポール・ボーグルと黒人の群衆が起こした暴動で「モラント湾の暴動」とも呼ばれる。同年10月7日に放置されていた農場に不法侵入したとして黒人男性が収監されたことに抗議した黒人男性も逮捕され抗議者達が暴徒化。その後、モラント・ベイ市まで発展した暴動はおよそ2,000人以上の反乱軍となったが、政府により鎮圧された。この暴動により白人およそ20人が暴徒により殺害され、400人以上の黒人ジャマイカ人が政府軍により殺害された。また、ボーグルを含む354人が逮捕後処刑されたほか、600人の黒人男女が鞭打ち刑および長期収監されることとなった。

1915年
【死去】ジャン・アンリ・ファーブル(Jean-Henri Casimir Fabre)【生物学者・教育者/フランス】

昆虫の生態を世間に知らしめた代表作『昆虫記』で知られるフランスの生物学者。晩年まで研究を続け、1910年に国民運動の後押しもあり、85歳でレジオンドヌール勲章を受賞。1915年10月11日に老衰と尿毒症で91歳没。

1940年
【死去】種田山頭火【俳人】

日本の自由律俳句を代表する俳人で代表句には「分け入つても分け入つても青い山」などがある。1911年、地元である山口県防府の郷土文芸誌『青年』に「田螺公」名義で定形俳句を投稿。同時期に「山頭火」名義で外国文学の翻訳なども発表し、作家活動を開始。1913年、荻原井泉水主宰の自由律の俳誌『層雲』に初投稿。同年、編集兼発行人として文芸誌『郷土』を個人で創刊。1916年、『層雲』の俳句選者へ。1924年、出家し味取観音堂の堂守となった後、寺を出て主に西日本を放浪しながら『層雲』へ投稿。1932年、体調不良により精神不安定となり自殺未遂を図るがその後も旅を続け、1939年に愛媛県松山市の『一草庵』で生活し、翌1940年10月11日、脳溢血のため死去。没年58歳。

1947年
【餓死】【夭折】山口良忠【判事】

「第二次世界大戦」後に、ヤミ米を拒否し食糧管理法で配給された食糧のみ食べ続け餓死したことで知られる裁判官。1946年、東京区裁判所の経済事犯専任判事へ就任し、主に食糧管理法違反で起訴された被告人の裁判を担当。食糧管理法違反の被告人を担当するうちに、ヤミ米を購入しなければ生きていけない被告人たちを取り締まる自身がヤミ米を食することに疑問を持ち始め、以後、ヤミ米を拒否。配給される食糧のみで生活を続けるも1947年8月に地裁の階段で倒れ、同年10月11日に栄養失調に伴う肺浸潤のため死去。没年33歳。山口の死は『朝日新聞』で報道され話題となった。

1948年
【死亡】岡本一平【漫画家・ジャーナリスト・小説家】

朝日新聞の漫画記者として人気を博し、小説『刀を抜いて』は映画化・舞台化をされるほどのヒットとなった人物。プライベートでは学生結婚した妻のかの子と、後の日本を代表する芸術家、太郎らの子供たちに加え、かの子の不倫相手までもが同居する不思議な家庭生活を営んだことで知られている(ちなみに1939年のかの子の急死から2年後に再婚)。1948年10月11日に脳内出血で死亡。没年62歳。

1959年
【死去】小田島樹人【作曲家】

大正から昭和にかけて活躍した作曲家で主に童謡の作曲で知られる人物。1914年、東京音楽学校器楽科(現東京芸術大学)を卒業、小学校の音楽教師となる。この頃、中山晋平らと新童謡運動を行ないながら『おもちゃのマーチ』『赤いソリ』『山は夕焼け』などを発表。1933年、都新聞(元東京新聞)に入社し歌壇の選者へ。1936年から再び教職へと戻り1941年の定年まで従事。1950年、「秋田学生音楽連盟」を結成し、機関誌『音楽秋田』を刊行。1959年10月11日、老衰により死去。没年74歳。

1963年
【死去】エディット・ピアフ(Édith Piaf)【歌手/フランス】

売春宿で幼少期を送る貧しい身の上からクラブ歌手を経て、1945年に発表した『La vie en rose(ばら色の人生)』で世界的名声を獲得。その後も不朽の名曲『Hymne à l’amour(愛の讃歌)』『Milord(ミロール)』等で知られる、フランスの国民的歌手となった。肝臓ガンのため47歳で死亡。その死は公表されなかったものの、関係者を通じてその訃報はコクトーにまで届いた。


1963年
【急死】ジャン・コクトー(Jean Cocteau)【小説家・詩人・劇作家/フランス】

小説家・詩人・劇作家という多才さで知られる20世紀のフランスを代表するアーティストであり、1950年にジャン=ピエール・メルヴィルが監督した代表的小説『恐るべき子供たち』の作者として知られる人物。映画『美女と野獣』等を手がけた映画監督としても知られている。1963年10月11日に友人であり大ファンであった歌手のエディット・ピアフの訃報を聞き、ショックのあまり同日の晩、寝床に就くとそのまま心臓発作で死亡した。没年74歳。

1968年
【連続射殺事件】「永山則夫連続射殺事件・第一の殺人」

1968年10月11日、永山則夫による連続射殺事件のうち、第一の殺人が行なわれた日。被害者は東京都港区芝公園の東京プリンスホテルで綜合警備保障に勤務していた中村公紀(当時27歳)であった。

1999年
【死去】レオ・レオニ(Leo Lionni)【イラストレーター・絵本作家/イタリア・アメリカ合衆国】

20世紀に活躍したイタリアのイラストレーターおよび絵本作家で絵本『スイミー』の作者として知られる人物。1931年、イタリアを中心に起こった前衛芸術運動「未来派」へ参加。1939年、ベニート・ムッソリーニによるファシスト政権が興りアメリカへ亡命。亡命後は広告代理店NWエイヤーへ就職し、その後はグラフィックデザイナーや美大の講師なども行ないながら、展示会を開催。1953年、アスペン国際デザイン会議初代会長へ就任。1959年、孫のために描いた絵本『あおくんときいろちゃん』で絵本作家デビュー。1962年からイタリアへ戻り、イラストレーターおよび絵本作家としての活動を始め、『スイミー』(1963年)といった多くの作品を発表した。1999年10月11日、パーキンソン病により死去。没年89歳。

2001年
【倒産】「インスタントカメラメーカー・ポラロイド倒産」

2001年10月11日、アメリカのインスタントカメラメーカー「ポラロイド」がデジタルカメラへの移行に失敗し、9億4800万ドルの負債を抱えて1度目の経営破綻。

2008年
【交通事故死】イェルク・ハイダー(Jorg Haider)【政治家/オーストリア】

20世紀のオーストリアの政治家でナチス支持者として知られる人物。1979年に国民議会議員へ選出され、1983年にオーストリア自由党ケルンテン州党首に就任。1999年、オーストリア国民党とともに連立政権を樹立するも欧州連合諸国からの反発が起き、党首を辞任。2002年に再び党首へ就任し、その後辞任。2005年、新党オーストリア未来同盟の党首へ就任。2008年10月11日、オーストリア・クラーゲンフルト近郊で交通事故を起こし死亡した。没年58歳。事故原因はハイダーの飲酒運転とされている。

2008年
【死去】中村獅童(初代)【歌舞伎役者・プロデューサー・実業家】

昭和の歌舞伎役者で初代・中村獅童として知られる人物。息子は二代目・中村獅童。歌舞伎役者・三代目中村時蔵の息子として生まれ、初代・中村獅童として歌舞伎役者となる。1937年に先輩役者から弟・萬屋錦之介の芸をなじられたことを理由に歌舞伎役者を辞め、以後は銀行員を経て東映プロデューサーに転身。1978年に息子へ二代目として中村獅童を襲名させ、有限会社中村獅童事務所を設立し会長に就任。2008年10月11日、胃ガンのため死去。没年79歳。

2008年
【死去】峰岸徹【俳優・タレント】

“和製ジェームス・ディーン”と呼ばれ昭和から平成にかけて活躍した俳優。ディーンと石原裕次郎に憧れて俳優を志し1962年に東宝映画『高校生と女教師・非情の青春』に峰健二の芸名で出演。以降、渡辺プロダクションがプロデュースする若手俳優のグループ「六本木野獣会」の一員として『若い季節』等の東宝映画へ出演。その後、俳優座養成所、文学座研究生を経て1968年に大映と契約し『講道館破門状』などへ出演。芸名を峰岸隆之介へ改名し同年に製作者協会新人賞を受賞。1975年に峰岸徹へ改名、以後、映画『風と雲と虹と』(1976年)やドラマ『高校教師』(1993年)『古畑任三郎』シリーズ俳優として活躍する傍ら『ものまね王座決定戦』審査員などの出演でタレントとしても人気を博す。私生活では1986年4月8日に投身自殺したアイドル歌手・岡田有希子の失恋相手として時の人となったことも。最晩年まで俳優として活動を続け、2008年10月11日に肺ガンで死去。没年65歳。同年に公開された映画『その日のまえに』が遺作となった。

2008年
【自殺】【怪死】三浦和義【実業家・タレント・随筆家】

雑貨輸入会社「フルハムロード」を経営していた実業家。1981年11月18日に滞在中のアメリカ・ロサンゼルスで妻の一美が射殺された事件で保険金約1億5,500万円を受け取ったが、その保険金殺人であったという嫌疑が1984年に『週刊文春』誌上で『疑惑の銃弾』として公開され、話題になった人物。その後の公判では証拠不十分として三浦の刑は確定せず、釈放後もたびたびマスメディアに登場し世間を賑わせる活動を続けていた。その一方で2003年には万引き事件を起こし逮捕されるなど、私生活でも不安定な様子をみせることもしばしばであり、メディアから遠ざかりつつあった2008年2月22日にサイパンで旅行中のところをアメリカ捜査当局に殺人罪及び殺人共謀罪で身柄を拘束され、結果的には殺人共謀罪の容疑で再びロサンゼルスの留置場に移送された。しかし到着翌日の10月11日に着ていたシャツで首を吊って自殺。没年61歳であった。

2011年
【社会事件】「大津市中2いじめ自殺事件」

2011年10月11日、滋賀県大津市内の市立皇子山中学校で当時同校の2年生であった少年がいじめを苦に自宅マンションから飛び降り自殺した事件。いじめを行なったのは、同級生3人で、担任教師であった森山進もいじめを容認していたとされる。また、事件前後の教育委員会と学校側の隠蔽体質も発覚しメディアに大きく取り上げられ、翌年の国会では「いじめ防止対策推進法」が可決されることとなった。事件後、同校から5人、教育委員会から2人の処分が行なわれている。

2014年
【死去】飯塚将光【オートレース選手】

1970年代から活躍した、”ミスター・オート”と称される船橋オートレース場所属のオートレース選手。船橋オートレース場で初めて見たダートレースに影響され、選手になることを決意。1970年、財団法人日本小型自動車振興会第9期選手候補生となり、翌年に船橋オートレース場で選手デビュー。1970年後半から1980年代後半にかけて最も活躍し、デビューから引退までの戦歴は、SG優勝9回、GI優勝28回、GII優勝8回となっている。2013年に選手を引退、翌2014年8月に船橋オートレース場が廃止となった、およそ2カ月後の同年10月11日に胃ガンにより死去した。没年64歳。