『頭に宝石の飾りをつけたマタ・ハリ(1910年撮影)』

1917年10月15日は、第一次大戦中にフランス、ドイツ間で二重スパイとして活躍したといわれる妖艶なダンサー、マタ・ハリがフランス軍により銃殺刑に処された日である。
マレー系オランダ人としてレーワルデンに生まれたマルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレは、パリに移り住み、“ジャワ島からやってきたダンサー、ストリッパー”として「マタ・ハリ」を名乗った。
同時に、軍人、政治家などを顧客に持つ高級娼婦として活躍したために、ドイツ、フランス両国の要人たちの秘密を見聞きする機会が多く、それに目を付けた両国が、彼女をスパイとして政治利用したという。
具体的な秘密漏洩の記録は残っておらず、国家レベルのメインで動いていたスパイではなかったというのが現在わかっているところであるが、ドイツ軍のスペイン駐在官が、彼女をドイツのスパイ「H-21」という暗号で通信したところをフランス軍が解読したことは事実であり、実際にスパイであったということすら怪しかったが、戦況が不利であったフランス軍にとっては、そのスケープゴートとしてマタ・ハリを逮捕したとも言われている。
その処刑にあたっては、数々の都市伝説的な逸話が残っており、「その美貌に惑わされないように銃殺者が目隠しをした」「銃殺者に投げキッスをした」等、なかば真実とは思えないような脚色がされているが、それらも女スパイの《悲劇的な死》を、一際妖しいものとして彩っている。

(写真はWikipedia Mata Hariより使用。Public Domain)

10月15日の不幸

1389年
【死去】ウルバヌス6世(Urbanus VI)【ローマ教皇/イタリア】

14世紀イタリアの第202代ローマ教皇(1378年〜1389年)で、枢機卿以外から選出された最後のローマ教皇として知られる人物。1378年にローマ教皇へ即位し、以後は教会改革を宣言し、フランス人枢機卿からの反発を受ける。同年に教皇選挙は無効であるとしてクレメンス7世を新教皇(対立教皇)に選出。フランス王らがクレメンス7世を支持したため、教会大分裂が発生する中、1389年10月15日に死去。没年71歳。

1389年
【死去】ウルバヌス6世(Urbanus VI)【ローマ教皇/イタリア】

14世紀後期に枢機卿以外から第202代ローマ教皇(1378年〜1389年)となった人物。1377年にイタリア・バーリの大司教となり、翌年ローマ教皇へ選出された。選出後は高圧的な教会改革を行おうとしたが、フランス人枢機卿らが反発しクレメンス7世を新教皇へ選出。このため教会が分裂する事態に。この事態を受け、ウルバヌス6世はアンジュー家出身のカルロ3世を支持し、権威回復を試みたがクレメンス7世側は、カルロ3世に対立するルイ1世・ダンジューを支持したため、ナポリ王位争奪戦へと発展していくこととなった。1389年10月15日、王位争奪戦が続く中、死去した。没年71歳。

1894年
【政治事件】【冤罪事件】「ドレフュス事件」

1894年10月15日、フランス陸軍参謀本部大尉・アルフレド・ドレフュスがスパイ容疑で逮捕された事件。きっかけはパリのドイツ駐在武官邸から軍関係者内に対独通牒者がいることを示唆するメモが見つかり、筆跡が似ているといった点からドレフュスが逮捕された。逮捕後も無罪を主張し続けたが終身刑となり、監獄島の悪魔島へ投獄。1899年に釈放され、1906年に無罪判決となった。

1910年
【射殺】スタンリー・ケッチェル(Stanley Ketchel)【プロボクサー/アメリカ合衆国】

“Michigan Assassin(ミシガンの暗殺者)”のニックネームで恐れられたプロボクシング創生期に活躍したミドル級の強豪。ミシガン州グランドラピッズのポーランド移民の家庭に生まれ、本名はスタニスラウス・キーカル (Stanislaus Kiecal)。14歳で故郷から出て放浪生活を始め、17歳でプロボクシングのリングに。左右の強打でKOの山を築き連戦連勝。20歳の1907年頃からチャンピオンを自称し始め、実際に1908年5月にジャック・サリバン戦で20回KO勝ちを収め世界ミドル級チャンピオンに。その後も王座陥落と復帰を繰り返していたが、1910年10月15日にミズーリ州の牧場で射殺された。没年24歳。牧場で働く女性をレイプしようとしていたために撃ち殺されたと言われている。

1917年
【処刑】マタ・ハリ(Mata Hari)【ダンサー・スパイ/オランダ】オランダからパリに移住し、第一次大戦中にフランス、ドイツ間で二重スパイとして活躍したといわれる妖艶なダンサー、ストリッパー、高級娼婦。軍人、政治家などを顧客に持っていたために、ドイツ、フランス両国の要人たちの秘密を見聞きする機会が多く、それに目を付けた両国が、彼女をスパイとして政治利用したという。ドイツ軍が、彼女をドイツのスパイ「H-21」という暗号で通信したところをフランス軍が解読し逮捕。銃殺刑にされた。没年41歳。
1933年
【死去】新渡戸稲造【教育者・思想家】1984年11月発行の5千円札の図案になった人物。札幌農学校、帝国大学卒業後、アメリカ、ドイツなどに留学し教職に。英語で書かれた著書『武士道』は世界的なベストセラーに。東京女子大学初代学長。東京女子経済専門学校(現新渡戸文化短期大学)初代校長等を歴任。国際連盟事務次長も務めた。カナダで行なわれた太平洋問題調査会会議に参加後、ヴィクトリアで出血性膵臓炎のため死去。没年71歳。
1946年
【自殺】ヘルマン・ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring)【政治家・軍人/ドイツ】

ヒトラーの後継者と目された、ナチ党政権下の政治家および軍人。第一次大戦中にエースパイロットとして活躍。大戦後の1922年にヒトラーを支持し、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)へ入党。1928年、国会議員となり、1932年にナチ党が第一党となると国会議長に選出された。翌年、ナチ党政権下となると、プロイセン州首相、ドイツ空軍総司令官、四カ年計画全権責任者、経済相、航空相といった要職を歴任。ヒトラーの後継者に指名されたが、その後、穏健派のゲーリングは対外強硬派のヒトラーから疑念をもたれるようになり、徐々に政治的影響力を落とすことに。第二次大戦後、最主要被告人としてニュルンベルク裁判へ出廷。ヒトラーおよびナチ党の擁護を行ない、1946年9月に絞首刑判決が確定。ゲーリングは絞首刑ではなく、銃殺刑へ変更するよう嘆願したが拒否されたため、1946年10月15日、独房内で服毒自殺した。没年53歳。

1956年
【列車衝突事故】「六軒事故」

1956年10月15日、三重県の参宮線・六軒駅で快速列車第243(C51形蒸気機関車)の機関士が通過信号機を見落とし、そのまま駅構内へ侵入。停止現示に機関士が気づいたため、非常ブレーキをかけたが安全側線に突っ込み脱線、本線上へ後列の車両がはみ出したまま停止。そこへ定刻通りに侵入してきた快速列車第246(C57形蒸気機関車)と本線上にはみ出した快速列車第243の車両が衝突することとなった。この事故により両列車あわせて42人の死者、94人の負傷者が出た。

1969年
【刑事事件】【社会事件】「悪徳の栄え事件」

1969年10月15日、日本で翻訳・出版されたマルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』がわいせつ文書に当たるとして翻訳者・澁澤龍彦ならびに現代思潮社社長・石井恭二が刑法175条により起訴され、有罪判決を受けた事件。その後、石井は罰金10万円、澁澤は罰金7万円が科されることとなった。

1977年
【バスジャック】「長崎バスジャック事件」

1977年10月15日、長崎県で西肥自動車が運行する路線バス(三菱ふそうMP517M)が、改造銃や手製爆弾を持った「阿蘇連合赤軍」を名乗る2人組にジャックされた事件。犯人は乗客5人と引きかえに食料などを要求。また、交渉には法務大臣・瀬戸山三男、新自由クラブ代表・河野洋平、政治評論家・細川隆元を連れてこなければ応じないと主張。しかし、犯人らに政治思想はなく、身代金目的であった。事件発生から18時間後、警官がバス内に突入し、人質16人は全員無事に救出。この時、主犯であった川崎久之は射殺され、もうひとりの犯人は重傷を負うこととなった。事件後、重傷を負った犯人は懲役6年が言い渡されている。

1980年
【現役引退】「山口百恵引退」東京プリンスホテルで行なわれた『ホリプロ20周年記念式典』に出演し、『いい日旅立ち』を歌った後の記者会見をもって、正式に芸能界を引退。1972年のデビュー以来、実質7年半のキャリアだった。引退後は俳優の三浦友和と結婚し主婦に。
2001年
【死去】日詰昭一郎【ミュージシャン】高校時代からうじきつよしとともに子供ばんどを結成、ベース担当。脱退後の2001年に脳出血で死去。没年43歳。
2002年
【政治事件】【社会事件】「北朝鮮・日本人拉致問題」

2002年10月15日、1970年代から1980年代にかけて北朝鮮により拉致された日本人5人(曽我ひとみ・蓮池薫・蓮池祐木子・地村保志・地村富貴恵)が一時帰国を条件に帰国した。

2012年
【死去】ノロドム・シハヌーク(Norodom Sihanouk)【政治家/カンボジア王国】

カンボジアの王族に産まれ、1941年に国王(1941年〜1955年)に即位した人物。1945年の第二次世界大戦中にインドシナ政府が解体され、カンボジアの独立を宣言。しかし、独立後も警察権・軍事権はフランスが実権を握っていたため、シハヌークが煽動し反仏デモが各都市で勃発。1953年、完全な独立を果たしカンボジア王国が樹立すると、シハヌークは”独立の父”として国民から尊敬を集めることとなった。1955年に退位し、父ノロドム・スラマリットが国王に即位。同年、首相兼外務大臣に就任。1960年にスラマリットが死去すると国家元首へ就任した。1970年、軍事クーデターが起こると容共主義者として国外追放となり、北京へ移住。1975年にポル・ポト派によりシハヌークを国家元首とする民主カンプチアが成立、カンボジアへ帰国するも幽閉生活を強いられ、1976年に国家元首を辞任。1992年、国際連合の介入により、再び国王へ即位、その後、2004年に退位し2012年10月15日に心不全で死去。没年89歳。

2015年
【社会事件】「ブルガリア難民射殺事件」

2015年10月15日、ブルガリアスレデツ近郊でトルコからブルガリアへ密入国しようとしたアフガニスタン難民54人をブルガリア国境警備隊2人と警察官1人が発見。拘束しようとしたが抵抗に合い、威嚇射撃をしたところ難民男性1人に被弾。その後、被弾した男性は死亡した。