『カルロ・ジェズアルドの肖像画』

1590年10月16日は、イタリアの音楽家、カルロ・ジェズアルドが、妻マリアとその不倫相手、アンドリア公ファブリツィオ・カラーファをセックスの最中に惨殺した日である。
代表曲『Beltà, poi che t'assenti(美しい人よ、貴女がいないと)』等、大胆な半音階技法を取り入れた実験的な作曲法で知られる後期ルネサンスの作曲家であり、ヴェノーザの貴族であったジェズアルド。
妻マリアとカラーファの不倫関係に気付いていたため、1590年10月16日に狩りの旅行に出かけると言い残し、ナポリで逢い引きをしていたふたりの寝室に手下たちを引き連れて乗り込むと、そのベッドの上でふたりを殺害した。
その際、傍らにいた自らの赤子すらも殺したとも言われている。
当時としては、不貞の妻を殺害する行為自体、さほど珍しい行為ではなかったとされるが、男性への報復行為としては一対一の決闘が通例であったために、ジェズアルドのやり方は衝撃をもって批判の対象となった。
しかし、貴族の身分であったためにその罪は不問とされた。
晩年は殺人の記憶に苛まれ、自らを鞭打つための使用人を雇っていたとも言われ、マリアとの間に生まれた長男であるエマニュエレの死んだ3週間後の1613年9月8日に47歳で亡くなった。
殺人を犯してしまった著名な芸術家としては、他にカラヴァッジョの例が挙げられるが、他にそのような例は多く見つからず、そのどちらもルネサンス期のイタリアに生きた人物である。
それがただの偶然の一致であるのかは不明だが、時として一般社会の規範から溢れ出てしまうような情熱と才能が、その時のイタリアに存在したということの証明なのかもしれない。

(画像はWikipedia Carlo Gesualdoより使用。作者不明。Public Domain)

10月16日の不幸

1590年
【殺人事件】「ジェズアルド殺人事件」

イタリア貴族であり、作曲家のカルロ・ジェズアルドが、妻とその愛人であるファブリツィオ・カラーファを寝台の上で殺し、一説によれば自らの赤子も殺したと言われている事件。

1793年
【死刑】マリー・アントワネット(Marie Antoinette)【王妃/フランス】

フランス国王ルイ16世王妃。その独特の高く持った髪型や香水、ドレスのデザイン等、様々な面で中世ヨーロッパ上流階級のファッション、文化に絶大な影響を及ぼした、いわば当時のファッション・アイコン的な存在。1789年に始まったフランス革命戦争で夫のルイ16世とともに捕らえられ革命裁判でほぼ無条件の有罪判決を受け死刑へと向かったその理由は、「息子に近親相姦を迫った」といういわれのないものであった。没年37歳。

1946年
【処刑】ヴィルヘルム・フリック(Wilhelm Frick)【政治家・弁護士・警察官/ドイツ】

ナチス・ドイツ内相、ベーメン・メーレン保護領総督としてナチスの国体整備に貢献した人物。ナチス式敬礼の徹底など、あらゆる面でナチスの中核を担った。第二次大戦終了後、1945年11月からのニュルンベルグ裁判で死刑判決を受け、翌年10月1日に判決が確定。同月16日に絞首刑が執行された(この日絞首刑にされた10人のうち6番目)。

1956年
【死去】ジュール・リメ(Jules Rimet)【理事/フランス】

第3代FIFA(国際サッカー連盟)会長としてワールドカップの開催に尽力した人物。その功績により、ワールドカップ優勝国に与えられる金のトロフィーは"ジュール・リメ杯"と呼ばれた。1956年10月14日に83歳となったが、その2日後に死亡。

2003年
【死去】スチュ・ハート(Stu Hart)【プロレスラー・プロモーター/カナダ】

アメフト選手出身のカナダ人プロレスラー、プロモーター。シュートのできるレスラーとしてアメリカマット界を転戦後、カナダのカルガリーで「クロンダイク・レスリング」を立ち上げ、プロモーターに。ダンジョンと呼ばれる道場から自らの息子であるブレット・ハート、オーエン・ハート他のハートファミリー、そしてクリス・ジェリコ、クリス・ベノワ、ロディ・パイパー、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ジン・キニスキー、フリッツ・フォン・エリック等数多くのスーパースターを育て上げた名伯楽としても知られる。脳梗塞で88歳没。2010年にWWE殿堂入りを果たした。

2014年
【死去】ティム・ハウザー(Tim Hauser)【歌手/アメリカ合衆国】

『Birdland』等のヒット曲で知られる男女混声ジャズ・コーラスグループ「マンハッタン・トランスファー」のリーダーであり創設者。心不全で72歳没。

2015年
【死去】盛田幸妃【プロ野球選手・解説者】

ドラフト1位指名を受け入団した横浜大洋ホエールズ、移籍した近鉄バファローズで活躍した長身速球派右腕。1992年に中継ぎ投手として最優秀防御率賞を獲得。右打者の内角をえぐるシュートを武器に活躍したが、時としてその挑戦的なプレイスタイルは危険球退場に発展した。1996年に中根仁とのトレードで近鉄に移籍。1998年にゴルフボールほどの大きさの髄膜腫が発見され摘出手術を受ける。その後必死のリハビリ期間を経て2001年に1,082日ぶりに勝利投手となり、同年オールスターにも出場。その年のカムバック賞を受賞した。2002年に引退、その後横浜に球団職員として復帰し、野球解説者として活動も始めた矢先の2005年に脳腫瘍が再発。翌年2月に摘出手術に成功したが、2013年に再発し、2015年に転移性悪性腺腫で死亡。没年45歳。