『エルネン号とアンドレーの探検隊』撮影=ニルス・ストリンドベリ

1897年10月17日は、スウェーデンを代表する探検家、サロモン・アウグスト・アンドレーが死亡したといわれている日である。
北極点に人類が最初に到達したのは、アメリカの探検家ロバート・ピアリーらが犬ぞりで1909年4月6日に達成したというのが現在までの定説であるが(近年は捏造説が有力で、1924年に飛行船で北極横断飛行をしたノルウェーのロアール・アムンセンが最初といわれている)、それ以前は、多くの挑戦者たちが死屍累々の山を築いてきた。
その敗れ去った挑戦者たちの中でも、一際珍しい亡くなり方をしたのが水素気球エルネン号(鷲の意味)で挑戦したアンドレーである。
1896年夏に最初の挑戦に失敗したアンドレーは、翌年7月11日に、改めてノルウェーのスピッツベルゲン島から北極飛行に出発。しかし、その飛行中に2回の伝書鳩による手紙を最後に、消息を絶った。
アンドレーの探検隊一行の失敗が判明したのは、30年以上が経過した1930年のこと。クヴィト島でアザラシ猟をしていた人物によりアンドレーらの野営跡が発見され、その後の大規模な捜索の結果、アンドレーの探検隊3人の遺体が発見された。
その遺留品にはカメラマンのニルス・ストリンドベリが撮影した写真と(写真大)、その道程を書き留めた日記があった。
その日記から、エルネン号は出発からわずか3日で流氷の上に落下してしまったことと、そのまま徒歩でスピッツベルゲンへ戻る途中に3人とも死亡したことが判明した(最後の日記が10月17日)。
そしてその日記の中に記された腹痛と下痢、足の痛み等の身体的不調により、アンドレーの一行は、ホッキョクグマの肉を生食したことにより旋毛虫症の感染で死亡したと推測されている。なお、ほぼ同時期に北極を探検から無事生還したノルウェーのフリチョフ・ナンセンらの探検隊は、ホッキョクグマの肉を加熱調理していたことから無事生還できたといわれている。
グーグルマップで未踏の地ですらすぐに見ることができる現在からすれば想像しがたいが、人類の英知がいまだ地球の全域をカバーしていなかった時代には、多くの地球と人間との、《格闘の物語》がある。
北極点到達という試練に於いて、それは航路との格闘であり、移動手段との格闘であったのだが、その先の食事にまでその苦闘は及んでいたのである。

(画像はWikipedia Salomon August Andréeより使用。Public Domain)

10月17日の不幸

1806年
【暗殺】ジャン=ジャック・デサリーヌ(Jean-Jacques Dessalines)【政治家・軍人/ハイチ】

ハイチ独立運動の指導者および初代ハイチ皇帝(1804年~1806年)として"ハイチ建国の父"と呼ばれる人物。1791年に起こった「ハイチ革命」において同革命の指導者的存在であったトゥーサン・ルーヴェルチュールの下で活躍し、1802年にルーヴェルチュールが拘束されると新たな指導者として蜂起。1803年、フランス王国料であったサン=ドマング領内からフランス軍を撤退させ、翌年に独立を宣言。国名を「サン=ドマング」から「ハイチ」へ改名し、その初代皇帝へ就任したが、1806年10月17日、国内の反政府組織により暗殺された。没年48歳。

1849年
【死去】フレデリック・ショパン(Fryderyk Franciszek Chopin)【ピアニスト・作曲家・音楽家/ワルシャワ王国】

19世紀のピアニストおよび前期ロマン派音楽を代表する世界的な作曲家のひとりであり、ポーランドを代表する音楽家。6歳から音楽教師ヴォイチェフ・ジヴヌィの指導を受け、1817年には『ポロネーズ ト短調』を作曲・出版。1826年、ワルシャワ音楽院に入学。1829年に同院を卒業し、ウィーンで演奏会を開催。翌年に『ピアノ協奏曲第1番』『同第2番』を発表。1832年、パリで初の演奏会開催し、ピアニストとして名声を得る。1836年、女流作家ジョルジュ・サンドと出会い交際へ。交際期間中に『24の前奏曲』『バラード第4番』『幻想ポロネーズ』などを発表。ジョルジュ・サンドと破局後の1848年にパリで最後の演奏会を開催。1849年10月17日、以前から患っていた結核が悪化し死亡した。没年39歳。

1896年
【奇妙な死】【遭難死】サロモン・アウグスト・アンドレー(Salomon August Andrée)【探検家・技師/スウェーデン】

水素気球のエルネン号で数度の北極飛行を試み他末に遭難死したスウェーデンの冒険家。1896年の失敗後、翌年7月11日に、改めてノルウェーのスピッツベルゲン島から北極飛行に出発。しかし、その飛行中に2回の伝書鳩による手紙を最後に、消息を絶った。その後の1930年にクヴィト島でアザラシ猟をしていた人物により野営跡が発見され、その後の大規模な捜索の結果、アンドレーの探検隊3人の遺体が発見された。遺留品の日記から、エルネン号は出発からわずか3日で流氷の上に落下してしまったことと、そのまま徒歩でスピッツベルゲンへ戻る途中に3人とも死亡したことが判明。没年42歳。死因はホッキョクグマの肉を生食したことにより旋毛虫症の感染したことと推測されている。

1952年
【死去】岡田啓介【軍人・政治家】

第31代内閣総理大臣となった人物で、1936年に発生した軍部クーデター「二・二六事件」で襲撃を受けた政治家のひとり。1885年に海軍兵学校へ入校し、卒業後は「日清戦争」「日露戦争」へ従軍。海軍次官、連合艦隊司令長官を経て、1927年に海軍大臣へ就任。1934年に内閣総理大臣に就任後、「天皇機関説」を巡る問題が起こり同説の支持派として認識されたため、皇道派・国家主義勢力から攻撃を受けることに。1936年、内閣不信任案を受け解散総選挙を実施するも大敗。さらに選挙の6日後、「二・二六事件」が勃発。首相秘書官および義弟であった松尾伝蔵が身代わりに殺害され、同年3月に総辞職した。その後、重臣会議のひとりとして政治に関係。1941年に「太平洋戦争」が起こると、東條内閣の打倒および終戦工作を行なった。1952年10月17日、老衰により死去。没年84歳。

1967年
【死去】 愛新覚羅溥儀(Aisin gioro Pui)【皇帝】

清朝最後の12代皇帝にして満州国皇帝。1908年にわずか2歳と10カ月で清朝の12代皇帝に即位したことに始まり、清朝の崩壊と同時に退位、帝政復活を目論む張勲復辟事件により復辟(再即位)、13日での退位、満州事変後の満州国執政就任、そして退位後日本への亡命中に拘束されて、ソ連での収監から、中国に引き渡されての戦犯として収監、そして特赦により晩年は民間人として過ごした。腎臓ガンと心不全のため没年61歳。

2009年
【自殺】加藤和彦【ミュージシャン・音楽プロデューサー】

「フォーク・クルセダース」、「サディスティック・ミカ・バンド」等を率いたミュージシャン、作曲家、音楽プロデューサー。大学生時代に結成した「フォーク・クルセダーズ」で制作した自主制作盤から『帰って来たヨッパライ』が大ヒットし、朝鮮半島の南北分断を歌った『イムジン河』は話題になったが放送禁止処置と、若くして話題を呼び、バンドの解散後も北見修との合作で発表した『あの素晴しい愛をもう一度』等数々のヒット曲を世に送り出した。しかし、最晩年は鬱病に悩み、また、経済至上主義とは切り離せない音楽業界に絶望していたために軽井沢のホテルで首吊り自殺。没年62歳。

2012年
【交通事故死】【怪死】若松孝二【映画監督】

暴力団関係の下働きから転身、ピンク映画の監督に。『甘い罠』『壁の中の秘事』等でそのジャンルを超越した評価を得て、一般作映画に進出。代表作に『水のないプール』『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』『キャタピラー』等。東京都新宿区の道を泥酔して横断中にタクシーにはねられて病院に搬送されて死亡。没年76歳。当初一命はとりとめたとの報道が出ただけにその死因も含めて様々な憶測を呼んだ最期だった。次回作は原発問題、東電をモデルにしたものであったと言われている。

2012年
【死去】シルビア・クリステル(Sylvia Kristel)【女優・モデル/オランダ】1974年の大ヒットセクシー映画『エマニエル夫人』の主役で世界的知名度を誇った女優。食堂ガン、肺ガンで60歳没。
532年
【死去】ボニファティウス2世(Bonifatius II)【ローマ教皇/ローマ】

6世紀に第55代ローマ教皇となった人物(530年~532年)。アリウス派で前任のフェリクス4世によって選出された。532年10月17日に死去。没年齢は不明。