『1973年にファンにより勝手に掘られ10年以上も残り続けた『Remember DUANE ALLMAN』のサイン』

1971年10月29日は、1970年代のアメリカを代表する人気ロックバンド、オールマン・ブラザーズ・バンドのギタリスト、デュアン・オールマンがバイク事故で死んだ日である。
凄腕のスタジオ・ミュージシャンとしてエリック・クラプトンの『Layla(愛しのレイラ)』等のレコーディングに参加してきたデュアン・オールマンが自らのバンド、オールマン・ブラザーズ・バンドを結成したのが1968年。
それから3年後、1971年7月に彼等のヒットアルバム『フィルモア・イースト・ライブ』が発売され、一気にスターダムにのし上がったが、そのたった3カ月後の10月29日、ジョージア州のメイコンでの休暇中にハーレーダビッドソンの運転中にトラックの急停止を避けて転倒。90フィート(27メートル程度)先にまで投げ出されて内臓損傷で死亡した。
なお、この写真は1973年2月3日に、ミシシッピ州ヴィックスブルグにあるハイウェイ20の脇にある壁に、4人のファン、デス、デヴィッド、ドン、レンが「REMEMBER DUANE ALLMAN」と彫ったものである。
その写真は『ローリング・ストーン』誌に公開され、10年以上もそのまま残った。勝手に作られた墓標は現在、オールマン・ブラザーズ・バンドの公式ウェブサイトに掲載され、彼らの“歴史”として掲げられている。

(写真は『allmanbrothersband.com』より使用)

10月29日の不幸

1905年
【死去】【夭折】エティエンヌ・デマルトー(Etienne Desmarteau)【陸上競技選手/カナダ】

1904年の「セントルイスオリンピック」で金メダルを獲得したカナダの重錘投げ選手。当時、デマルトーは警察であったが、オリンピック出場のため警察を辞職している。翌1905年10月29日、腸チフスを患い死亡。没年32歳。

1917年
【死去】ジョセフ・ピュリッツァー(Joseph J. Pulitzer )【実業家・ジャーナリスト/アメリカ合衆国】

1883年に赤字を抱えていた『ニューヨーク・ワールド』紙を購入し、国家の不正、大統領などの権力者や大企業などのスキャンダルを暴く徹底した編集方針で、数年でアメリカ最大の発行部数を誇る新聞へと押し上げたジャーナリストであり、経営者。休暇中に停泊していたサウスキャロライナのチャールストン港のヨットの上で死亡。没年64歳。死後、遺産の200万ドルは個人の意志で母校のコロンビア大学に寄付され、1912年に同大学ジャーナリズム大学院の設立を助けた。また、1917年より、ピューリッツァーの生前の功績を称えた報道賞「ピューリッツァー賞」が創設され、現在に至るまで、世界のジャーナリズムに於ける最も権威のある賞のひとつとなっている。

1924年
【死去】フランシス・ホジソン・バーネット(Frances Eliza Hodgson Burnett)【小説家・劇作家/イギリス・アメリカ合衆国】

世界的人気小説『Little Lord Fauntleroy(小公子)』『小公女(A Little Princess)』の作家として知られる小説家。イギリスのマンチェスターに生まれながら父の死を機に十六歳でアメリカのテネシー・ノックスヴィルに移住。1905年にアメリカの市民権を獲得しながら後年はイングランドに戻り、はさらに最後の17年はアメリカのプランドームに戻りそこで死亡した。没年74歳。1909年の『The Secret Garden(秘密の花園)』
は生前評価されることはなかったが、その死後、映画やアニメ化を繰り返される人気作となった。

1949年
【死去】ゲオルギィ・イワノヴィッチ・グルジエフ(George Ivanovich Gurdjieff)【思想家/ロシア】

精神分析で使用される「エニアグラム」の一般化や「The Work」と名付けた精神的・実在的な取り組みを指導したことで知られるロシアの神秘主義思想家。アルメニア、エジプトなどを長期遍歴した後、1912年にモスクワでグループ指導を開始。1915年、すでに著名であった神秘思想家ピョートル・ウスペンスキーとの出会いにより、グルジエフも思想家として知られように。1917年、ロシア革命が勃発するとコーカサス山中へ移住し生徒への身体的な訓練を指導。翌年、内戦から逃れるため家族と主要な弟子を連れソチへ脱出。1919年、グルジアに自らの思想を教える学院を設立し、後に「ムーブメント」と呼ばれる初の神聖舞踏の公演を開催。その後、イスタンブール、ベルリンと移動した後、1922年にパリで学院を再開。「人間の調和的発展」を目的とした実践的な追求を開始し、グルジエフの思想は欧州の知識層に知られるようになる。1924年、講演のため訪れたアメリカで自動車事故に遭い学院を閉鎖。以降、執筆活動に専念し、三部作『All and Everything』を発表。晩年はパリで再びグループ指導にあたり1949年10月29日、肝臓ガンにより死去。没年83歳。

1949年
【死去】中島知久平【軍人・政治家・実業家】

軍人、政治家、実業家で中島飛行機(現・SUBARU)の創始者として知られる人物。航空機の国内生産を目指し、1917年に海軍を中途退役して飛行機研究所を設立。翌年、中島飛行機製作所へ改称。1930年に衆議院議員総選挙へ立候補し初当選。1937年、立憲政友会の総裁代行委員に就任し、1938年に鉄道大臣として初入閣。1941年、中島飛行機の一式戦闘機が陸軍で採用され、翼賛議員同盟の顧問へ就任。「第二次世界大戦」後は軍需大臣および商工大臣となり敗戦処理にあたるもGHQによりA級戦犯に指定される。1947年にA級戦犯指定を解除され、1949年10月29日に脳出血で死去。没年65歳。

1953年
【航空事故】「英連邦太平洋航空304便墜落事故」

1953年10月29日、アメリカのサンフランシスコ国際空港に着陸しようとした英連邦太平洋航空304便(ダグラスDC-6)が付近の標高594.36メートルの山地に激突し墜落。原因はサンフランシスコ特有の朝霧と視界不良に対する処置を行なわなかったパイロットミスであった。この事故により乗客乗員を含む19人全員が死亡、また、乗客には世界的なピアニストであったウィリアム・カペルが搭乗していた。

1953年
【航空事故死】【夭折】ウィリアム・カペル(William Kapell)【ピアニスト/アメリカ合衆国】

音楽評論家ハロルド・ショーンバーグが「第2次世界大戦終戦世代における最も有望なアメリカ人ピアニスト」と評した人物。1941年、ピアニストとしてナウムブルグ財団の支援を受けデビュー。その後、ピアニストとして知名度を上げ、RCAレッドシール・レコードと契約。しかし、オーストラリア演奏から帰国中の1953年10月29日、搭乗していた英連邦太平洋航空304便(ダグラスDC-6)が墜落事故を起こし死亡した。没年31歳。

1958年
【社会事件】「ノーベル文学賞受賞辞退」

小説『ドクトル・ジバゴ』の作者として知られるソ連の詩人および小説家ボリス・パステルナークが1958年10月29日に同小説によるノーベル文学賞受賞を辞退。理由はソ連国家保安委員会(KGB)とソ連作家同盟による反対運動が起こり辞退せざるを得ない状況となったためであった。

1971年
【夭折】【交通事故死】デュアン・オールマン(Howard Duane Allman)【ミュージシャン/アメリカ合衆国】

実弟のグレッグ・オールマンらと1970年代アメリカを代表するロックバンド「オールマン・ブラザーズ・バンド」を結成し、そのギタリスト、リーダーとして活動。スタジオ・ミュージシャンとしてエリック・クラプトンの『愛しのレイラ』等のレコーディングにも参加した。ジョージア州のメイコンでの休暇中にハーレーダビッドソンの運転中にトラックの急停止を避けて転倒。内臓損傷で死亡した。没年24歳。

1976年
【火災】「酒田大火」

1976年10月29日、山形県酒田市で市の中心部である商店街およそ22万5,000メートル・1,200戸が火災により焼失した事件。出火は映画館『グリーンハウス』のボイラー室から発生し、当日の強風も相まって近隣の木造ビルや木造家屋に飛び火。大火に発展し翌日の午前5時に鎮火となったが、この火災により酒田地区消防組合の消防長1人が死亡した。

1977年
【死去】千代の山雅信【大相撲力士】

1940年代に1950年代にかけて活躍した北海道出身の大相撲力士で、第41代横綱となった人物。1942年、出羽海部屋へ入門し、1945年に入幕。1949年に大関へ昇進し、北海道出身の力士として初優勝を果たす。1951年、横綱へ昇進し、1955年の1月・3月場所で2連覇、1957年の1月場所では全勝優勝を達成した。1959年に引退し、年寄・九重を襲名。1965年、大鵬幸喜、北の富士勝昭、柏戸剛らとハワイから拳銃を密輸入し書類送検へ。その後、弟子を連れ髙砂一門へ移籍。1976年、相撲協会の役員となるも体調を崩し入院、翌1977年10月29日、肺ガンのため死去した。没年51歳。幕内戦歴は46場所・366勝149敗2分147休であった。

1993年
【死去】マキノ雅弘【映画監督】

“日本映画の父”こと牧野省三の長男であり、261本という膨大な映画を手がけた映画監督。代表作に『浪人街』『昭和残侠伝 死んで貰います』等。1965年の『竜馬がゆく』のように、テレビドラマも多数手がけた。1993年10月29日に死亡。没年85歳。実子に「沖縄アクターズスクール」を設立したマキノ正幸、甥に俳優の長門博之・津川雅彦などがいる。

1995年
【死去】テリー・サザーン(Terry Southern)【小説家・脚本家/アメリカ合衆国】

1958年の小説『マジック・クリスチャン』で世界的な評価を確立したビートニク作家の一人であり、1960年代には”スウィンギング・ロンドン”なるカルチャーの中心にいた作家。1964年に共同執筆した映画『博士の異常な愛情』以降、『コレクター』『バーバレラ』『007 カジノ・ロワイヤル』『イージー・ライダー』等の話題作を次々に手がけ、1960年代を代表する人気脚本家となった。1980年代には人気テレビバラエティ『サタデー・ナイト・ライブ』の構成も手がけるなど、多岐にわたりのその才能を発揮した。1995年10月25日に、教授を務めていたコロンビア大学内のホールの階段で倒れ、その4日後に呼吸不全により死亡。没年71歳。

2005年
【爆弾テロ】「2005年インド・ニューデリー爆撃」

2005年10月29日、インドの首都ニューデリーでイスラム革命前線が駅、バス、市場の3カ所で起こした爆弾テロ。このテロにより62人が死亡、90人以上が負傷した。その後、犯人としてタリク・アフマド・ダール、モハメド・ラフィク・シャーの2人が逮捕されている。

2007年
【死去】谷口千吉【映画監督】

1947年の三船敏郎のデビュー作、映画『銀嶺の果て』で映画監督デビュー。代表作に『愛と憎しみのかなたへ』『潮騒』(1954年)等があり、同時代に活躍した黒澤明とともに多くの人気作品を手がけた。私生活では3度の結婚を経験し、不倫関係の果てに結婚した3人目の妻、女優の八千草薫(1956年の映画『乱菊物語』で起用)と添い遂げた。誤嚥性肺炎で死亡。没年95歳。

2009年
【死去】5代目三遊亭圓楽【落語家】

日本テレビの演芸番組『笑点』のメンバーであり、長年にわたり司会者(4代目)を務めた人物。「第二次世界大戦」後、上野鈴本演芸場で観た落語に影響を受け、落語家になることを決意。1955年、6代目三遊亭圓生に師事し、三遊亭全生と名乗る。1958年に二つ目、1962年に真打に昇進し、同年、三遊亭圓楽を襲名。1965年、『笑点』の前身となった演芸番組『金曜夜席』(日本テレビ)に出演し、翌年から『笑点』が放送となり大喜利の回答者として出演。1977年、落語に専念するために同番組を降板、翌年に落語協会分裂騒動が起こり、圓生とともに落語三遊協会を設立。1979年に圓生が死去すると落語協会へ復帰し、大日本落語すみれ会を設立。1983年から『笑点』に司会者に復帰し、2006年まで司会を務めた。2009年10月29日、肺ガンのため死去。没年76歳。