『マティコ作「スタンチク」』ワルシャワ国立美術館収蔵

1893年11月1日は、19世紀のポーランドを代表する画家、ヤン・マティコが死亡した日である。
歴史画を中心に偉大な作品を残した人物であるが、その最も有名な作品のひとつが、母国ポーランドの喪失の瞬間を描いた『マティコ』である。
宮廷お抱えの道化師として3代のポーランド王に仕えたスタンチクが、楽屋で一人呆然と座るこの作品は、パーティの最中に祖国が失われた瞬間——ロシア軍による「スモレンスク陥落(1514年)」の速報を知ってしまったその時を描いたものである。
祝祭を彩るピエロという外見も相まって、その悲哀を絶望的なまでに強調した作品として世界史に残る名作と言われているものである。
さらに、このスタンチクの顔はマティコ自身の顔であると類推されており、そのことからも、歴史的に分割・侵略を繰り返してきたポーランドという国自体への強い郷愁を感じさせる作品である。
当代きっての道化師からも笑顔を奪い去るほど多くの《不幸》を乗り越え、現在のポーランド共和国は存在しているのだ。

(写真はWikipedia Jan Matejkoより使用。Public Domain)

11月1日の不幸

1年
【殺害】エイドリアン・シェリー(Adrienne Shelly)【女優・脚本家/アメリカ合衆国】

1990年代から2000年代初頭にかけて活躍したアメリカの女優。幼い頃から舞台などに出演しボストン大学で映画制作を学ぶ。1989年に『ニューヨーク・ラブストーリー』で映画デビュー。以降女優として活動を続けながら演技指導員、演技・脚本教授、短編映画制作などでも活躍。2006年に初の長編作品『ウェイトレス おいしい人生のつくりかた』を監督するも同年11月1日に騒音トラブルにより作業員に刺殺された。没年40歳。死後、女性映画製作者のための映画学校奨学金や補助金を付与する非営利団体エイドリアン・シェリー財団が夫のアンディ・オストロイにより設立。

1463年
【処刑】ダヴィド・メガス・コムネノス(Dabid Megas Komnēnos)【王族/トレビゾンド帝国】

15世紀トレビゾンド帝国(現・トルコ)の王族で同帝国最後の皇帝(1458年〜1461年)となった人物。トレビゾンド帝国皇帝ヨハネス4世の息子として生まれ、1458年に皇帝に即位。1461年にオスマン朝との戦いに破れトレビゾンド帝国が滅亡。1463年11月1日、一族とともに処刑された。推定没年齢55歳。

1546年
【死去】ジュリオ・ロマーノ(Giulio Romano)【建築家・画家/イタリア】

16世紀ルネサンス中期に活躍したイタリアの建築家および画家でマニエリスム芸術で知られる人物。イタリアの画家で建築家のラファエロ・サンティに学び、ラファエロが死去すると1524年にパラッツォ・ドゥカーレ宮殿の離宮であるパラッツォ・デル・テの建築家に就任し『クピドとプシューケーの結婚披露宴』『巨人族の没落』といったフレスコ画も制作。以降、イタリアの貴族ゴンザーガ家の庇護の下、マントヴァ大聖堂(1542年)などの建築を行なう。1546年11月1日に死去。没年47歳。

1629年
【死去】ヘンドリック・テル・ブルッヘン(Hendrick Jansz ter Brugghen)【画家/オランダ】

16世紀に活躍したオランダの画家でカラヴァッジスティとして知られる人物。1601年頃に画家アブラハム・ブルーマールトから絵画を学び、1604年頃絵画の勉強ためにイタリアへ渡り画家ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオと出会う。以後、カラヴァッジスティとして『疑う使徒トマス』(1621年)『デモクリトゥス』(1628年)などを発表。ユトレヒトへ帰郷後もオランダ人カラヴァッジスティの画家ヘラルト・ファン・ホントホルストと活動を続け、1629年11月1日にペストで死去。推定没年齢41歳。

1700年
【死去】カルロス2世(Carlos II)【王族/スペイン】

17世紀スペインの王族でハプスブルク家最後のスペイン国王(1665年〜1700年)となった人物。スペイン国王フェリペ4世の息子として生まれ、1665年にスペイン国王へ即位。知的障害や先端巨大症を患っていたため即位後は母マリアナ・デ・アウストリア王妃が摂政を行なう。マリアナが追放された後は異母兄のオニャテ伯フアン・ホセ・デ・アウストリアが実権を握ることに。その後、フアンが死去すると再びマリアナが摂政を行なう。1690年代頃から精神障害が悪化、死去した先妻のマリア・ルイサの遺骸を掘り起こし手元に置くなどの奇行が始まる。1700年にスペイン王位をアンジュー公フィリップに譲ることを表明し、同年11月1日に死去。没年38歳。

1893年
【死去】ヤン・マテイコ(Jan Alojzy Matejko)【画家/ポーランド】

19世紀ポーランドを代表する画家で主にポーランドの政治や軍事を主題にした作品で知られる人物。1852年にクラクフ美術学校で学び、芸術友好協会へ作品を発表。1858年にミュンヘン美術アカデミーで画家ヘルマン・アンシュッツの指導を受け、卒業後はクラクフ市へ帰郷。帰郷後は『スタンチク』(1862年)などを発表し1864年にクラクフ科学協会のメンバーとなる。1865年に『スカルガの説教』でパリ・サロン金賞、1867年に『レイタン、ポーランドの没落』でパリ万国博覧会金賞を受賞。以降も『グルンヴァルトの戦い』(1878年)『ラツワヴィツェの戦い』(1888年)などの作品を発表し、1893年11月1日に消化性潰瘍で死去。没年55歳。

1925年
【自殺】マックス・ランデー(Max Linder)【俳優・映画監督・脚本家・映画プロデューサー/フランス】

1910年代、チャールズ・チャップリン登場以前のサイレント映画において世界的な《喜劇王》として君臨した喜劇俳優。1925年10月31日にバルビタールの過剰摂取と手首の静脈切開で当時20歳の妻と心中を遂げた。没年41歳。第一次大戦に従軍した時の経験が、慢性鬱病を発祥させる原因になっていたといわれている。

1955年
【大量殺人】【爆破事件】「ユナイテッド航空629便爆破事件」

1955年11月1日にニューヨーク発シアトル行きユナイテッド航空629便(ダグラス DC-6)が経由地のコロラド州デンバー国際空港から離陸およそ10分後に空中爆発。機体のほとんどが飛散し乗客教員合わせた44人全員が死亡した。調査の結果、機体は爆破されたことが発覚、FBIがドライブイン経営者ジョン・ギルバート・グレアム(当時23歳)を逮捕した。犯行はグレアムの母親デイジー・キングにかけた生命保険およそ37,500ドルを目当てに行なわれ、キング夫人の荷物にダイナマイト25本と起爆装置を仕込んだことをグレアムが自白。その後、有罪判決となり1957年にグレアムの死刑が執行された。

1962年
【レース中事故死】【夭折】リカルド・ロドリゲス(Ricardo Rodríguez)【レーシングドライバー/メキシコ】

メキシコのF1ドライバー。17歳でル・マン24時間耐久レースに出場、翌年18歳で2位に入賞(現在も同レースの最年少記録)する等、若くして活躍していたリカルドはフェラーリのドライバーに抜擢され、将来を嘱望される若き才能であった。地元で初開催されたメキシコGPにおける練習中に、カークラッシュで即死。没年20歳。2歳年上の実兄、ペドロ・ロドリゲスもまた、レースの最中に死亡している。その悲劇にちなんで「リカルドロペス・サーキット」と命名されていメキシコのサーキットは、1971年以来、「エルマノス・ロドリゲス・サーキット(ロドリゲス兄弟サーキット)」に名前を変更した。

1997年
【死去】小坂一也【俳優・歌手】

高校中退後の1954年に『ワゴン・マスター』でデビューして以来、”和製プレスリー”としてアイドル的人気を博したカントリー・シンガー。その後は俳優に転身し、テレビ、映画で活躍した。食道ガンで62歳没。

1999年
【死去】千秋実【俳優】1949年の『野良犬』以来、『羅生門』『七人の侍』等11本もの黒澤明の映画作品に出演、黒澤組の定連として知られた俳優。1985年の伊藤俊也監督『花いちもんめ。』で第9回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞、ブルーリボン賞主演男優賞を獲得した。急性肺不全で82歳没。
2003年
【死去】吉村大志郎(ネルソン吉村)【サッカー選手・指導者/ブラジル・日本】

サンパウロ生まれの日系2世。1967年に日本サッカーリーグ初の外国籍の選手としてヤンマーディーゼルサッカー部に加入。同期入団の点取り屋、釜本邦茂とのコンビで同クラブを黄金期に導いた。1970年には「吉村大志郎」に改名し日本国籍に帰化。以降、日本代表として国際Aマッチで7得点を記録。32歳で現役を引退後は、ヤンマーでコーチ、監督を歴任した。日本リーグ通算成績189試合出場30得点54アシスト。2003年11月1日に兵庫県尼崎市の病院において脳出血のため56歳没。死後の2010年8月17日、日本サッカー協会により吉村の日本サッカー殿堂入りが発表された。

2006年
【死去】ウラカン・ラミレス(Huracán Ramírez)【プロレスラー/メキシコ】

アクロバティックなフォール技として人気の高い「ウラカン・ラナ(正しくはウラカン・ラナ・インベルティダ/高角度飛びつき後方回転エビ固め)」を編み出したことで知られるメキシコの人気ルチャドール。1952年のルチャ・ムービー『ウラカン・ラミレス』に出演したことがきっかけで同名マスクマンとしてデビュー。メキシコのみならず、アメリカ、日本のマットでも人気を博した。1987年に現役引退。2006年11月1日に心筋梗塞で80歳没。実兄に現オリンピック・マルセイユ監督のサッカー指導者、ルディ・ガルシアがいる。

2006年
【死去】永沢光雄【ノンフィクションライター】

風俗雑誌編集者等を経て1988年よりフリーライターとして独立。1996年に出版した代表作『AV女優』が社会的な話題に。その他の著書に、2002年に下咽頭ガンのため声帯を除去した経緯を綴った2005年の『声をなくして』等。2006年11月1日に過度の飲酒による肝機能障害で死亡。没年47歳。東北学院榴ヶ岡高等学校時代の同級生に漫画家の荒木飛呂彦がいる。