『イタリア共産党の祖、アントニオ・グラムシの墓参りをするパゾリーニ』

1975年11月2日は、イタリアを代表する映画監督、ピエル・パオロ・パゾリーニが暗殺された日である。
過激で変態的な性描写で悪名高い1975年公開の映画『ソドムの市』(原作はマルキ・ド・サドの『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』)の監督として知られるパゾリーニは、その作中にネオファシストや右派、資本主義への強い批判を込めていたとされるが、その撮影直後、激しい性的暴行の末に自らの愛車アルファ・ロメオによって何度も轢かれるという残酷極まりない方法で殺害された。
睾丸が潰される等のこの特徴的かつ過激な殺害方法は、イタリア・マフィアの伝統的なやり方であったが、犯人として名乗り出たのは同作に出演していた17歳の俳優、ピーノ・ペロージであった。
彼の証言によると、「パゾリーニと食事をした後に、肛門へ木の棒を挿入するプレイを強要されたことを拒絶したいあまりに、彼の車で何度も轢いてしまった」ということであった。パゾリーニは過去に少年への性的暴行のスキャンダルでイタリア共産党を離れていたこともあり、そのままペロージの単独犯行ということで有罪判決が下ったが、やはりその殺害状況に無理があったことは否めず、案の定、ペロージは2005年に29年前の自白を撤回、「家族の生命に危険が及ぶという脅迫下での虚言であった」と告白。
さらに「真犯人は南部イタリア訛りのファシスト3人組が行なったものだ」と改めて証言した。その自白を受け、ローマ警察は改めてその殺人事件の調査を再開したが、判事は「再審議には証拠不十分」という通り一遍の決定を下し、その死の真相には蓋がされる形となった。
パゾリーニの『ソドムの市』はそのスキャンダラスな性描写で世界を驚かせたが、パゾリーニ自身の最期もまた、作品に違わぬスキャンダル性を帯びている。

(写真はWikipedia Pier Paolo Pasoliniより使用。Public Domain)

11月2日の不幸

1843年
【死去】平田篤胤【国学者・神道家・思想家・医者】

荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)のひとりと呼ばれ、「復古神道」の大成者として知られる人物。出羽国久保田藩の大和田清兵衛祚胤の四男・胤行として生まれたが成人後に備中松山藩士の兵学者、平田篤穏の養子に。その後本居宣長の長男春庭の元に入門しその名を平田篤胤と改名。その向学で国学者として大成した。1804年に「真菅乃屋」を開き広く門弟を集め、最終的には1,300人以上の弟子を輩出し「復古神道」の成立に多大な貢献を果たした。その他幽界研究やインド学、シナ学、暦学なども極め、最晩年まで多彩な研究を続けたが、代表作『古史伝』も未完のまま1843年に病没。没年68歳。

1942年
【死去】北原白秋【詩人・作詞家・編集者】

三木露風と並び近代日本を代表する詩人。詩や短歌作品の他に『ちゃっきり節』『ペチカ』などの童謡で数多くの代表作を残した。晩年は糖尿病と腎臓病の合併症でほぼ全ての視力を失ったが詩作は続け、『万歳ヒットラー・ユーゲント』をその来日に合わせて発表する等、最晩年には国家主義的な活動となっていった。そのまま1942年11月2日に糖尿病と腎臓病の合併症で死亡。没年57歳。死後、多磨霊園に埋葬された。

1950年
【死亡】ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw)【劇作家・脚本家・教育者/アイルランド】

イギリス近代演劇の大家として代表作『ピグマリオン』『聖女ジョウン』『シーザーとクレオパトラ』を始め生涯53本もの戯曲を書き残し、1925年にノーベル文学賞を受賞したアイルランド人。最初は固辞したが、賞金を寄付するという条件付きでの受賞となった。私生活ではベニト・ムッソリーニを支持する社会主義運動家、菜食主義者としても知られている。1950年に自宅の庭仕事中に足を骨折、それが悪化し腎臓浮腫で死亡した。没年94歳。

1957年
【死去】徳冨蘇峰【評論家・ジャーナリスト・編集者・政治家】

現在の『東京新聞』の元となったひとつである"平民主義"を唱えた『國民新聞』を1890年に創刊し、全100巻から成る日本通史の大著『近世日本国民史』の著者として知られる人物。「日清戦争」後に平民主義から"国権論""国家膨脹主義"へと転向し、1897年には第2次松方内閣の内務省勅任参事官、そして1911年8月24日には貴族院勅選議員に任じられ国政に参加した。満州事変以降は第二次世界大戦へ向かう日本の軍部と強い関係を持ち、近衛文麿首相の「日独伊三国軍事同盟」や東條英機首相の「大東亜戦争開戦の詔書」の草案制作に協力していた。終戦後はA級戦犯容疑をかけられたものの老齢と三叉神経痛でそれを免れ、自宅拘禁に。そのまま1952年に『近代日本国民史』を完成させ、1957年11月2日に熱海の晩晴草堂にて死亡。没年94歳。絶筆の銘として「一片の丹心渾べて吾を忘る」を残した。死後、多磨霊園に埋葬された。

1960年
【自殺】山口二矢【活動家】

幼年時代から、同じく右翼思想を持っていた兄の影響を受けて政情を憂慮するという幼年期を送り、16歳で大日本愛国党に入党。17歳であった1960年10月12日に、社会党・浅村稲次郎書記長を刺殺した「浅沼稲次郎暗殺事件」を起こした主犯として知られる。犯行翌月2日、収監中の東京少年鑑別所で、「七生報国 天皇陛下万才」という文字を歯磨き粉で壁に記し、首吊りで獄中自殺。没年17歳。辞世の句は「国のため 神州男児 晴れやかに ほほえみ行かん 死出の旅路に」。

1963年
【暗殺】 ゴ・ディン・ジエム(Ngo Dinh Diem)【政治家・貴族/ベトナム】

貴族の家柄に生まれ、フランス統治下のベトナムを避け、亡命生活を送っていたが、1954年に帰国していたところ、フランスによって建国された傀儡政府、ベトナム国の初代首相に就任した人物。その翌年には国民投票の後押しを受けベトナム共和国(南ベトナム)を建国、その初代大統領となった。就任後は弟のゴ・ディン・ヌーを大統領顧問として独裁体制を確立、アメリカ政府のバックアップを受けベトナム民主共和国(北ベトナム)との対立関係を強めていった。しかし仏教徒弾圧など、徐々に国民への求心力を失っていくと、内政に口を出し始めた米ケネディ政権とも対立。アメリカ政府黙認の中、CIAのバックアップを受けた1963年ベトナム共和国の軍事クーデターにより殺害された。没年62歳。

1975年
【怪死】ピエル・パオロ・パゾリーニ(Pier Paolo Pasolini)【映画監督/イタリア】

教職から映画界に転身し、フェデリコ・フェリーニ監督作『カビリアの夜』等の脚本を手がけ、『アッカトーネ』で監督デビュー。過激で変態的な性描写で知られる1975年公開の代表作『ソドムの市』の撮影直後、激しい性的暴行の末に自らの愛車アルファ・ロメオによって何度も轢かれるという残酷極まりない方法で殺害された。犯人として名乗り出たのは同作に出演していた17歳の俳優、ピーノ・ペロージであったが、2005年に29年前の自白を撤回、「家族の生命に危険が及ぶという脅迫下での虚言であった」と告白、さらに「真犯人は南部イタリア訛りのファシスト3人組が行なったものだ」と改めて証言した。現在も事件の真相は不明。

2004年
【死亡】ザーイド・ビン=スルターン・アール=ナヒヤーン(Zayed bin Sultan Al Nahyan )【政治家・首長・アラブ首長国連邦】

アブダビ首長国の首長として生まれ、1971年に7つの首長国と合併し独立したアラブ首長国連邦の初代大統領となった人物。独立後も連邦のリーダーとして30年以上に渡り大統領を務めたが、1996年に頸部脊椎手術、2000年には腎臓移植手術を受ける等健康面で不安を見せ始め、検査入院中の2004年11月2日に死亡。没年86歳。そのまま皇太子のハリーファが首長に即位し、翌3日に第2代大統領に就任した。

2004年
【殺人事件】【イスラム事件】テオ・ファン・ゴッホ(Theodoor van Gogh)【映画監督/オランダ】

世界的画家、ファン・ゴッホの実弟テオの曾孫にあたる映画監督。過激なコラムニストとしても活動し、2001年のアメリカ同時多発テロ以降は反イスラム主義の姿勢を強め、2004年にイスラム社会における女性への虐待をテーマにした映画『Submission』を監督した。その描写がイスラム勢力から強い反発を招き、原作者の政治家、アヤーン・ヒルシ・アリとともに殺害予告を受け、そのまま26歳のモロッコ系オランダ人のモハンマド・ボウイェリによって殺害。8発の銃弾が打ち込まれ、喉は切り裂かれ、胸には2本のナイフが突き刺さっていたという。没年47歳。