『ツタンカーメン王の埋葬室を開くハワード・カーターとそのアシスタントたち』(1923年の公開イベントを翌年再演したもの)

1922年11月5日は、イギリスの考古学者、ハワード・カーターがエジプト“王家の谷(Valley of the Kings)”にある『ツタンカーメン王の墓(KV62)』を発見した日である。
そのカーターの発掘作業のスポンサーであったカーナヴォン卿が、その公開直後である翌年4月5日に急死したため(蚊による感染症)、「ツタンカーメン王の採掘に関わった人物が次々と死ぬ」という『ツタンカーメン王の呪い』伝説がまことしやかに広まった。
しかし、発見者のカーターがこの発見の後17年も生きたように、その“伝説”は、全く根も葉もない噂であった。
単純に、《権力者の墓を暴く》という行為自体への恐れが世界規模で共有されていたということであろう。
しかし、ツタンカーメンの墓には、カーター以前に少なくとも2回、誰かが入っていた痕跡があったという。果たして、その二人はなんの目的であったのか、そしてカーターより以前に死亡したのか——《伝説》には、未だ“余地”が残されている。

(画像はWikipedia KV62 より。Public Domain)

11月5日の不幸

1559年
【死去】狩野元信【絵師】

室町時代・戦国期に活躍した狩野派の絵師で父である狩野派の祖・狩野正信の画風を継承しつつ大和絵の技法も取り入れ、狩野派の画風を大成させたことで知られる人物。製作年が判明している初期の作品として1507年の『細川澄元像』、1513年の『鞍馬寺縁起絵』などがある。大作としては1539年からおよそ15年間を費やした石山本願寺の障壁画制作が知られている。1559年11月5日に死去。没年83年。

1801年
【死去】本居宣長【国学者・医師】

賀茂真淵・荷田春満・平田篤胤らとともに「国学の四大人(しうし)」のひとりとして知られる江戸時代中期から後期にかけて活躍した国学者および医師。1752年に医師を目指し京都へ遊学、この頃に漢学や国学なども学び、特に国学へ興味を持つ。1758年、京都から故郷の伊勢国松坂へ戻り医師を開業。医師をしながら『源氏物語』の講義なども行ない、1757年に賀茂真淵の著書『冠辞考』に影響を受け本格的に国学研究の道へ。1763年に賀茂の元へ入門。その後、学者として活躍し、随筆『玉勝間』(1795年〜1812年)、『古事記伝』(1797年)、『地名字音転用例』(1800年)などを刊行。1801年11月5日に死去。没年71歳。

1888年
【死去】狩野芳崖【日本画家】

幕末から明治にかけて活躍した狩野派の日本画家で"近代日本画の父"といわれる人物。長府藩(現・下関市長府印内町)狩野派の御用絵師の家に産まれ、同じく狩野派の勝川院雅信の元で画道を学ぶ。幕末から絵師として絵馬などを製作。明治維新後は養蚕業で失敗し、生活費を稼ぐために襖や杉戸絵などを描くも困窮した生活が続き、1879年に日本画家・木村立嶽の紹介で島津家雇となる。1882年、アメリカの美術史家フェノロサと出会い、新・日本画の創生を託されたことをきっかけに『仁王捉鬼図』(1886年)を製作。同作品により芳崖は人気画家となり、東京美術学校の教官に任命へ。しかし、すでに肺を患っていたため、『悲母観音』を完成させた4日後の1888年11月5日、教官となることなく肺炎のため死去。没年61歳。

1918年
【死去】島村抱月【文芸評論家・演出家】

東京専門学校(現早稲田大学)を卒業後の1898年に読売新聞社会部主任に。その後早稲田大学文学部教授となり、『早稲田文学』誌を復刊し自然主義文学運動の中心的人物となった文芸評論家。1906年に坪内逍遥とともに文芸協会を設立し、日本に於ける新劇運動の祖となるが、1913年に自らの研究所の看板女優・松井須磨子との不倫が報じられ文芸協会から脱退。しかし同年須磨子とともに設立した芸術座での公演、トルストイの『復活』が人気を博し(1914年)、須磨子の歌った劇中歌『カチューシャの唄』が2万枚のセールスを記録する大ヒットに。しかし直後の1918年11月5日に、当時流行したスペイン風邪で死亡した。没年47歳。その死の約2カ月後である1月5日に、松井須磨子も後追い自殺を遂げた。

1933年
【死去】片山潜【思想家・運動家】

岡山師範学校中退後の1884年に渡米。アンドーヴァー神学校、エール大学神学部等で社会的キリスト教を学び、帰国後の1897年に日本人初の隣保館・キングスレー館を設立。その一方で1897年に機関誌『労働世界』を創刊し、労働運動に身を投じた。1901年に民主社会党に入党し、1906年には日本社会党の結党に参加。国際共産主義運動指導者として活動を続けたが、1911年に東京市電ストライキの指導を咎められ逮捕された。1912年の恩赦により出獄した後の1914年にアメリカに亡命。1917年のロシア革命に共鳴しアメリカで共産主義運動家として活躍し、1921年からはソ連に渡り、コミンテルン常任執行委員会幹部となり、同地から日本共産党の活動に携わった。1933年11月5日に敗血症で死亡。没年73歳。葬儀にはソビエト市民の他、ヨシフ・スターリンや野坂参三等の要人も参列した。その遺骨はクレムリン宮殿の壁に埋葬されている。

1942年
【死亡】清浦奎吾【政治家・官僚】

司法官僚から貴族院議員となり政治家となり、1924年1月7日に第23代内閣総理大臣に就任した人物(〜1924年6月11日)。ほぼ全ての閣僚を貴族院議員から選んだ超然内閣であったために、護憲派による第二次護憲運動の元となり、5カ月で総辞職となった。その他にも司法大臣、農商務大臣、内務大臣、枢密院議長等の要職を歴任したことでも知られ、司法官僚時代には治罪法(現在の刑事訴訟法)の制定に関与した人物としても知られている。1942年11月5日に92歳没。

1969年
【社会事件】【未遂事件】「大菩薩峠事件」

1969年11月5日、赤軍派53人が凶器準備集合罪で警視庁により逮捕された事件。この時、赤軍派は武装し大型車で首相官邸および警視庁襲撃を行ない、人質をとった後、獄中の活動家を奪還するという作戦を企てていた。「11月闘争」と称したこの作戦の武装訓練を大菩薩峠の山中付近で実施するため、山梨県甲州市の山小屋「福ちゃん荘」に潜伏していたところ逮捕となった。事件後、塩見孝也といった主要メンバーが逮捕されたため、赤軍派の弱体化に繋がった事件であった。

1990年
【射殺】メイル・カハネ(Meir David Kahane)【政治家・活動家/アメリカ合衆国】

ユダヤ人極右組織であるユダヤ防衛同盟(JDL)などを創設し"ユダヤのヒトラー"と呼ばれたアメリカの政治活動家および政治家。ユダヤ教のラビを経て、1968年にJDLを結成。ユダヤ主義を掲げ、ビル爆破や敵対する政治家・知識人を暗殺するなど犯罪行為を繰り返したため、アメリカから追われ1971年にイスラエルへ移住。移住後、すぐにカハ党を結成し選挙に出馬。1984年に国会議員となり、排外的差別思想とされる「カハネ主義」に偏った法案の成立を目指した。このため翌年に反人種主義法が成立、カハ党は政府から閉め出されることとなった。1990年11月5日、演説中にエジプト人エル・サイード・ノサイルにより射殺された。没年58歳。犯人のサイルはパキスタンのテロ組織と関係があったとされている。

1996年
【死去】安田伸【ミュージシャン・俳優・コメディアン】

1957年にハナ肇とクレージーキャッツに加入し、テナーサックスやクラリネットを担当したジャズミュージシャン。『シャボン玉ホリデー』でなべおさみと共演した「キントト映画の監督コント」の助監督役で人気を博した。バンド内では作曲を担当し、『クレージーキャッツショー』のテーマ曲などを手がけた。私生活では美容研究家・竹腰美代子と結婚。晩年は肝臓ガンを患い、1996年に急性心筋梗塞で死亡。没年64歳。

2000年
【自殺】高野光【プロ野球選手・プロ野球指導者】1983年に4球団競合の末にドラフト1位でヤクルトスワローズに入団し、入団初年度に開幕投手を務める。その後も同球団のエースとして活躍するも、1989年に右肘を故障。渡米し靭帯移植手術受けてリハビリの後に復活したが、故障の影響もあり33歳で引退。引退後はオリックス・ブルーウェーブ、台湾、韓国等でコーチを務めたが、韓国から帰国後の2000年に精神疾患を患う。同年11月5日に家族の制止を振り切って自宅マンション7階から飛び降り自殺。没年39歳。
2002年
【死去】范文雀(はん・ぶんじゃく)【女優/台湾】

広島生まれ広島育ちで、台湾籍の父を持つ日中ハーフの台湾籍女優。1968年にデビューし、1970年に人気テレビドラマ『サインはV』のジュン・サンダース役で人気を博し、全国的な知名度を獲得。その後も映画『野良猫ロックシリーズ』ドラマ『プレイガール』等の人気作品で女優として独特の存在感を放った。私生活では俳優の寺尾聰と1973年に結婚したが、翌年離婚している。1998年頃から悪性リンパ腫を患い、半年ほど入院。その後も活動を続けていたものの、11月5日に心不全で死亡。没年54歳。

2005年
【死去】ジョン・ファウルズ(John Fowles)【小説家・随筆家/イギリス】

オックスフォード大学卒業後、フランス、ギリシア、イギリスで教師として働いたが、1963年に発表した処女小説『コレクター』が1965年に映画化され一躍人気作家に。小説出版以降は諸説家に専念し、『The Magus(魔術師)』『The French Lieutenant's Woman(フランス軍中尉の女)』等の作品が映画化される等、20世紀イギリス文学の代表的な作家、特にイギリス文学のポストモダニズムの祖として長らく活躍した。1990年に最初の妻であるエリザベスがガンで死亡した後の1年間は仕事ができないほどであったが、1998年にサラと再婚し晩年を送り、2005年に心不全で79歳没。

2010年
【国際事件】【流出事件】「尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件」

2010年11月5日、海上保安庁・石垣海上保安部が録画し、保管していた巡視船「みずき」と中国漁船との衝突映像が「sengoku38」というアカウント名でYouTube上に流出。流出させた人物は当時海上保安官であった一色正春で流出させた映像は計44分に及んだ。