『アガサ・クリスティの発見を伝える英「デイリー・スケッチ」紙』

1926年12月3日は、同年7月に発表された『アクロイド殺し』で世界的な推理小説家に登り詰めたばかりのアガサ・クリスティが、突然11日間の失踪をした最初の日である。
20世紀初頭のイギリスで起きた“世紀の失踪事件”は、全世界的に報じられ、アメリカの『ニューヨーク・タイムズ』紙でも大々的に扱われるほどの事件であった。
本人が晩年に記した伝記でも全く触れられていないために、いまだ真相は明らかになっていない。
しかし、夫との不和が大きな原因であったのは明らかで、アガサはライセンスの切れた免許証で車に乗り、ヨークシャーの保養地にあるスワンハイドロパシックホテルに、夫の愛人であるテレサ・ニール名義で宿泊していた。
その間、1,000人以上の警察官と15,000人ものボランティアが捜索に関わり、飛行機でも捜査に加わるという大規模なものとなった。
そしてこの大捜索劇は、“同業の大物”として捜査協力を依頼されたコナン・ドイルが「霊媒師に彼女の手袋を渡す」という珍奇な捜査を披露する事態にまで発展した。。
しかし10日間の間、誰にも見つからず、11日目になり、ようやくホテルに滞在しているところを発見された。
それからたった100年も経過していない現代に於いて、世界で最も有名な人物が10日間も失踪することなど不可能に近い。
そのことは果たして、人間にとって《幸福な社会》であるといえるのだろうか?

(写真は英『Daily Sketch』紙1926年12月15日版)

12月3日の不幸

311年
【死去】ディオクレティアヌス(Gaius Aurelius Valerius Diocletianus)【ローマ皇帝/イタリア】

3世紀から4世紀にかけてのイタリアでローマ皇帝(284年〜305年・286年〜305年(東方正帝))となった人物。一兵卒からプラエフェクトゥス・プラエトリオ(近衛隊長官)を経てローマ皇帝ヌメリアヌスの死後、284年に皇帝に即位。286年に軍人のマルクス・アウレリウス・ウァレリウス・マクシミアヌスに皇帝権を分与、マクシミアヌスを西方正帝、自身を東方正帝とすることに。以降、ローマ帝国の分担統治制度が確立(テトラルキアの第一段階)。292年に東西それぞれに「正帝(アウグストゥス)」「副帝(カエサル)」をの称号を与えテトラルキア(四分統治)を開始。翌年にガイウス・ウァレリウス・マクシミアヌス・ガレリウスを副帝に任命。298年にペルシアと講和しメソポタミア地方からティグリス河彼岸一帯を統治下に。即位中は官僚制の整備やドミナートゥス(専制君主制)を確立。その後、キリスト教徒との軋轢が生まれ303年にキリスト教徒への強制的な改宗、聖職者の逮捕・投獄などの勅令を発令。305年に退位した後はクロアチアにディオクレティアヌス宮殿を作り隠棲生活を行ない311年12月3日に死去。没年67歳。

1137年
【死去】ロタール3世(Lothar III.)【貴族・神聖ローマ皇帝/ドイツ】

12世紀ドイツの貴族で神聖ローマ皇帝(1133年 – 1137年)およびローマ王(1125年〜1137年)イタリア王(1125年〜1137年)となった人物。ドイツの貴族ズップリンブルク家に生まれ、1106年にローマ皇帝ハインリヒ5世からザクセン公に任命される。その後ハインリヒ5世と対立し1115年にローマ帝国軍を破りザクセンから王権を排除する。1123年にアイレンブルク伯兼マイセン辺境伯ハインリヒ2世の相続に神聖ローマ帝国領邦君主ヴィプレヒト2世が指名されたことに反発、ハインリヒ2世の従叔父コンラート1世とともにヴィプレヒト2世を追放させる。その後、1125年にローマ王、イタリア王となり、1133年に神聖ローマ皇帝に即位。1136年にイタリア南部のシチリア王国への軍事遠征を行なうも失敗に終わり遠征帰路中の1137年12月3日に死去。没年62歳。

1839年
【死去】フレデリク6世(Frederick VI.)【王族/デンマーク】

18世紀から19世紀初頭のデンマークの王族で最後のデンマーク・ノルウェー王(1766年〜1808年)となった人物。デンマーク・ノルウェー王クリスチャン7世の息子として生まれ、1784年からクリスチャン7世の摂政として従事。摂政として1788年に自由主義改革などを行なう。1801年にイギリスとの貿易問題から「コペンハーゲンの海戦」が勃発、以降対イギリスとしてフランスへ接近。1808年にクリスチャン7世が死去したためデンマーク・ノルウェー王へ即位。その後1814年に「ナポレオン戦争」で敗退したためキール条約によりノルウェー王位を喪失、以後デンマークは絶対王政から民主化へと向かうことに。晩年は天文学のパトロンなどを行ない、1839年12月3日に死去。没年71歳。

1919年
【死去】ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)【画家/フランス】

同時代を生きたモネやセザンヌ、ドガと共にフランス印象派を代表する作家であり、繊細で幻想的な色使いとタッチの女性画で知られる画家。代表作に『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』『ラ・グルヌイエール』『大水浴図』等多数。仕立屋の息子に生まれ、様々な職業を経て1965年のサロン・ド・パリへの初入選などで画家としてのキャリアをパリでスタート。1870年の「普仏戦争」に兵士として参加するも、赤痢にかかり帰国。直後の1874年1月に「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社」を設立し、そこを母体とした「第1回印象派展」を同年4月に開催。その中心的作家として知名度を獲得。その後精算のために同社は1874年末に解散となったが、印象派展は1886年の第8回まで開催された。その後パリのサロンに活躍の場を求め復帰し、徐々にその画家としての地位を確立。1890年にレジオンドヌール勲章の授与を打診されるも辞退。1904年に大回顧展が開催され、名実共に世界的画家の地位を確立した。晩年は南仏のカーニュ=シュル=メールのレ・コレットの別荘で過ごし、彫刻作品なども手がけた。1911年にレジオンドヌール勲章4等勲章を受章、1919年にレジオンドヌール勲章3等勲章を受賞。同年12月3日に肺充血で死亡。没年78歳。なお、死後の1990年にはゴッホなどと世界的名画高騰の主役となり、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』が7100万ドル(約108億8,430万円)で落札された。

1966年
【暴動】「マカオ一二・三事件」

1966年12月3日にポルトガル領マカオのマカオ総督府前で中国共産党系の住人を中心としたデモ隊とポルトガルの警察隊との間で発生した小競り合いからデモ隊が暴徒化。マカオ史上最大の暴動へと発展した事件。この暴動により8人が死亡、212人が負傷、62人の逮捕者がでることとなった。

1999年
【死去】スキャットマン・ジョン(Scatman John)【ミュージシャン・シンガー/アメリカ合衆国】

喉頭ガンで57歳没。