『フランス版「Smoke on the Water」のレコードジャケットと、1971年のフランク・ザッパ(中央)とマザーズ・オブ・インベンションのメンバー」』

1993年12月4日は、ロックからジャズ、フュージョン、クラシックに至るまで幅広い活動で知られるミュージシャンのフランク・ザッパが死亡した日である。
そしてそれをさかのぼること22年前の1971年、彼の率いるバンド「マザーズ」がスイスのモントルーのカジノでライブを開催しており、そこで狂信的なファンが天井に向けてフレア・ガンを発射。
現場は瞬く間に火災となり、バンドはその機材全てを失った。
そしてその模様を後日描写したのが、「ディープ・パープル」の世界的ヒットソング『Smoke on the Water』となったのである。
そのカジノのステージはレコーディング施設としても数々の著名ミュージシャンが使用していた場所であったため、ディープ・パープルのメンバーも、モントルーのジェノヴァ湖の対岸に宿泊しており、その火事は彼らが見た最大の火事であったという。
その幻想的かつ暴力的な「水の上の煙」が、あのロック史に残る名曲に表現されているのだ。
フランク・ザッパの人生自体には《不幸》でしかなかった日がロック史における記念日であることは興味深く、さらにその日に彼の人生が終わったことまでを含めると偶然にしては揃いすぎているように思われる。
さらに不思議な事実は重なり、1976年の12月4日には、ディープ・パープルでリッチー・ブラックモアに代わって加入していたギタリスト、トミー・ボーリンが薬物過剰摂取で死亡した日でもあるのだ。
以上のことから、12月4日はディープ・パープルとフランク・ザッパにまつわる記念碑として永遠に記憶されるべき日であろう。

(右写真はWikipedia Frank Zappaより使用。Public Domain)

12月4日の不幸

1334年
【死去】ヨハネス22世(Ioannes XXII)【ローマ教皇/フランス】

14世紀フランスのアヴィニョン捕囚時期に第196代ローマ教皇(1316年〜1334年)となった人物。フランス南西部の裕福な中産階級の家に生まれナポリ王ロベルト1世の秘書、プロヴァンスのフレジュス司教、アヴィニョン司教を経て1312年に枢機卿に就任。1309年に教皇庁がアヴィニョンへ移動、1316年にアヴィニョン教皇庁初のローマ教皇へ即位。即位後は教皇庁の財政再建、三位一体の祝日の制定、聖職禄関係のための裁判所「ロタ法定」の確立などの行政改革、宗教政策面ではフランシスコ会清貧論争への介入、魔女狩りなどを行なう。1334年12月4日に胃ガンにより死去。推定没年齢90歳。

1642年
【死去】リシュリュー(Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu)【政治家・聖職者/フランス】

17世紀フランスの政治家およびカトリック教会聖職者でブルボン朝第2代フランス国王ルイ13世の宰相として知られる人物。フランスの小貴族の子として生まれ、聖職者となるため1607年に司教叙階を受け1609年にリュソン司教に就任。1614年に全国三部会へ聖職者代表として参加。この会でルイ13世の母后で摂政のマリー・ド・メディシスとその寵臣であったコンチーノ・コンチーニの目に止まり政界入り。1616年に国務卿となるも1617年にルイ13世と宮廷人ルインズ公シャルル・ダルベールによりコンチーニが暗殺されマリー・ド・メディシス政権が終焉。同年にルイ13世から宮廷から追放されることに。1619年に幽閉されていたマリー・ド・メディシスが逃亡、その後ルイ13世との調停を行ない成功を収めたことにより再び政界へ。1621年にダルベールが死去すると1622年に枢機卿、1624年に国務会議顧問官となり同年に首席国務卿(宰相)へ就任。宰相就任後は1626年に城代の地位廃止、決闘禁止令、王権の強化、ハプスブルク家への対抗作などを行なう。1627年に対立する改革宗教派ユグノーに対しイングランド王チャールズ1世が支援したためイングランド軍と戦争が勃発、1628年にユグノーの拠点ラ・ロシェル陥落に成功(ラ・ロシェル包囲戦)。1629年にルイ13世とともに北イタリア出征を行ないスペイン軍撤退に成功(マントヴァ継承戦争)。その後、母后マリーがリシュリュー失脚を企てるも失敗(欺かれし者の日)しコンピエーニュへ幽閉される。1632年に貴族モンモランシー公アンリ2世の反乱が勃発、鎮圧後はモンモランシー公を処刑。1630年にレーゲンスブルク駐在フランス大使がスペインと和平協定を結ぶとこれを拒否し1631年にスウェーデンと同盟を締結(ベールヴァルデ条約)。プロテスタント勢力へ加担したためローマ・カトリック教会と対立。1635年にスペインへ宣戦布告「三十年戦争」へ参加。1635年フランス国立学術団体アカデミー・フランセーズを正式に設立。1642年にサン=マール侯爵アンリ・コワフィエ・ド・リュゼら貴族による反乱が企てられるも失敗し同年にサン=マール侯を逮捕・処刑。晩年は病に侵されながらも政界で活動し続け1642年12月4日に結核で死去。没年57歳。

1679年
【死去】トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes)【哲学者/イングランド】

17世紀イングランドの政治哲学者でルネ・デカルトとともに近世哲学の先駆者のひとりとして知られる人物。大学卒業後の1608年に第2代デヴォンシャー伯爵ウィリアム・キャヴェンディッシュの家庭教師となる。1620年に哲学者フランシス・ベーコンの助手となり口述筆記やラテン語翻訳を行なう。1629年に歴史家トゥキディデスの『戦史』の翻訳を発表。1631年に第3代デヴォンシャー伯爵ウィリアム・キャヴェンディッシュの家庭教師となる。1636年にガリレオ・ガリレイと出会う。1637年に感覚についての著書『小論文 (Little Treatise)』を発表。1640年にパリへ亡命し1642年に匿名で哲学書『市民論(De Cive)』を発表。1645年にパリに亡命したイングランド王太子(チャールズ2世)の数学教師となる。1647年にイングランド国教会の洗礼を受ける。1651年に代表作となる政治哲学書『リヴァイアサン』を刊行。以降、『物体論(De Corpore)』(1655年)『自由、必然、偶然に関する諸問題』(1656年)『ビヒモス(Behemoth)』(1668年)といった政治学書などを発表。1674年に叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』を翻訳。晩年まで活動を続け1679年12月4日に脳卒中で死去。没年91歳。

1696年
【死去】明正天皇【天皇】

江戸時代に第109代天皇(1629年〜1643年)となった人物。第108代天皇後水尾の娘として生まれ、1629年に称徳天皇以来859年ぶりに女帝として天皇へ即位。後水尾天皇から譲位の相談を受けた中和門院は、主要な公家10人余に覚書を配布した。その二条目は次のようなものであった。即位後は後水尾上皇による院政が行なわれ、1643年に伊保弟・紹仁親王(後光明天皇)に譲位し太上天皇となる。その後、出家し太上法皇となり1696年12月4日に死去。没年74歳。

1902年
【死去】チャールズ・ダウ(Charles Henry Dow)【ジャーナリスト・証券アナリスト/アメリカ合衆国】

19世紀アメリカのジャーナリストおよび証券アナリストで相場理論「ダウ理論」で知られる人物。1872年から編集者、新聞記者といった職に就き主にニューヨーク証券取引所相場に関する記事を執筆。その後「ダウ理論」を提唱し1882年に経済新聞社ダウ・ジョーンズを設立し1889年に経済新聞『ウォールストリート・ジャーナル』を発行。1896年から同紙にダウ・ジョーンズ工業平均株価を掲載。1902年12月4日に死去。没年51歳。

1957年
【自殺】【夭逝】愛新覚羅慧生(あいしんかくら・えいせい)【皇族】

20世紀清朝最後の皇帝溥儀の姪として知られる人物。溥儀の弟・溥傑と高家公家の嵯峨浩の子として満州国に生まれ、1939年に溥儀とともに東京へ。1943年に学習院幼稚園に通うため嵯峨家に預けられる。1945年に「第二次世界大戦」が終了、1947年に満州から中国大陸を流転していた浩と妹・嫮生(こせい)と生活を開始。1953年に中国の周恩来首相の計らいにより溥傑との文通が認められる。1956年に学習院大学へ入学し男子学生・大久保武道と交際を始めるも悩んだ末に1957年12月4日に天城山で大久保のピストルで心中死(天城山心中)。没年19歳。

1959年
【テロ】【国際事件】「新潟日赤センター爆破未遂事件」

1959年12月4日、警視庁の取り調べにより新潟県新発田市内のバーにいた韓国工作員2人の鞄の中からダイナマイト計12本が発見され爆発物取締罰則違反の現行犯で逮捕された。さらに新潟駅では同工作員のガソリンを入れたウィスキー箱も発見され、工作員らが新潟日赤センターを爆破しようとしていたことが判明。その後、事件は韓国代表部・金永煥三等書記官らが指揮をとっていたことが公表された。

1971年
【群衆事故】【火災】【放火事件】「モントルーカジノ火災」

1971年12月4日、フランク・ザッパのバンド「マザーズ」がスイスのモントルーのカジノでライブを開催。そこで狂信的なファンが天井に向けてフレア・ガンを発射したために瞬く間に火災となり、バンドはその機材全てを失った。そのカジノのステージはレコーディング施設としても数々の著名ミュージシャンが使用していた場所であったため、ディープ・パープルのメンバーも、モントルーのジェノヴァ湖の対岸に宿泊しており、その火事を見た彼らはその模様を翌年『Smoke on the Water』として発表。世界的なヒットとなり、ロック史にまで残る名曲となった。

1972年
【海難事故】【未解決事件】「メアリー・セレステ号事件」

1972年11月7日にニューヨークからジェノバへと出港していたメアリー・セレステ号が行方不明に。そのままポルトガル沖を無人のまま漂流していたところを12月4日に発見された。船には6カ月分の食料が残された状態で、血痕や争った形跡と、血塗れの件が残されていたが、真相は不明のまま現在に至る。

1976年
【薬物過剰摂取】【夭折】トミー・ボーリン(Tommy Bolin)【ミュージシャン/アメリカ合衆国】

ロック・バンド「ゼファー」「ジェイムス・ギャング」等で活躍後の1975年にリッチー・ブラックモアの後任として加入したギタリスト。1976年7月のディープ・パープルは解散後は自らのバンドを結成するなど活動していたが、1976年12月4日に前座として参加していたジェフ・ベックのツアーで滞在中のフロリダ州マイアミのホテルで死亡。没年25歳。死因は長年にわたり過剰摂取したヘロインのオーバードース。

1991年
【倒産】「パンアメリカン航空倒産」

1927年3月14日に創業し長らくアメリカ最大手の航空会社として君臨したパンアメリカン航空がこの日をもって倒産。原因は高価格貸したコストの削減ができなかったことと1970年代のジミー・カーター政権下で導入された航空自由化政策の悪影響など。

1993年
【死去】フランク・ザッパ(Frank Vincent Zappa)【ミュージシャン・作曲家/アメリカ合衆国】

ロック・バンド「マザーズ・オブ・インベンション」のリーダーとしてデビューし、サイケデリック・ロック、アシッド・ジャズ等多くの現代ポップシーンに影響を与えたミュージシャン、ギタリスト。晩年はクラシック音楽やコンピューター音楽の作曲にも進出していた。生涯60枚以上のアルバムをリリースした多作な人物として知られ、代表作に『Freak Out !』『We’re Only in It For the Money』『Hot Rats』『Over Night Sensation』等がある。また、検閲機関への抗議活動や大統領選出馬を含む政治的発言でも知られる人物であった。ディープ・パープルの1972年の大ヒット曲『Smoke on the Water』のモデルになったのはザッパが1971年にモントルーのカジノでライブを開催した際に狂信的なファンが起こした火災であるが、その12月4日に、前立腺ガンで死亡した。52歳没。

1999年
【夭折】大翔鳳昌巳【大相撲力士】

1990年1月に立浪部屋からデビューし1993年1月場所に小結まで昇進した大相撲力士。1997年1月からは怪我の影響もあり十両に陥落し、そのまま現役生活を続けていたが、1999年3月場所後の精密検査膵臓ガンが発見され(本人には急性膵炎と告知)、同年6月に現役引退。幕内通算222勝261敗27休。準年寄・大翔鳳となったものの闘病生活となり、そのまま1999年12月4日に死亡した。没年32歳。

2005年
【死去】グレッグ・ホフマン(Gregg Hoffman)【映画監督/アメリカ合衆国】

1980年代から2000年代初頭にかけて活躍したアメリカの映画プロデューサーで映画『ソウ』シリーズで知られる人物。大学で法と経済学を学び1989年に『Monster Rain』で映画界へ進出。その後、2004年から映画『ソウ』シリーズのプロデュースを行なうことに。2005年12月4日『ソウ3』『ソウ4』の撮影中に死去。没年42歳。

2011年
【死去】ソクラテス(Sócrates)【サッカー選手・医師/ブラジル】

1982年、1986年のワールドカップにテレ・サンターナ率いるブラジル代表の一員として出場した名選手。ジーコ、ファルカン、トニーニョ・セレーゾとの”黄金の4人”で中盤を形成した魅力的な攻撃サッカーで世界を席巻したが、優勝をすることはできなかった。現役引退後はスポーツ・クリニックを経営していたが、重度の喫煙と飲酒が原因で消化器出血と肝臓疾患を併発。最終的には腸内感染症からの敗血症により死去。没年57歳

2014年
【死去】原一平【芸人】

昭和から平成にかけて活躍した芸人で主に映画『寅さん』の車寅次郎のものまねで知られる人物。浪人生活しながら『NHKのど自慢』へ出場したことをきっかけにコメディアンを志し上京。上京後は営業社員を経てものまね芸人として芸能界へ入り渥美清のものまねで人気を博す。その後、渥美清公認の寅さんとして寄席やテレビ、ラジオ、映画などに出演。以降、東京演芸協会の副会長・専務理事、日本演芸家連合常任理事などを歴任。2014年12月4日に脳梗塞で死去。没年76歳。

2015年
【轢死】【列車事故】櫻井孝昌【編集者・プロデューサー】

平成に活躍した編集者およびメディアプロデューサーでポップカルチャー研究家としても知られる人物。大学卒業後、光文社の編集者となる。退社後は世界各地における日本のポップカルチャーについて研究。以降外務省の派遣講師として日本のポップカルチャーを世界に紹介する活動を行ない、自身の活動をまとめた著書『アニメ文化外交』(2009年)などを発表。活動中の2015年12月4日に駅のホームから転落し轢死。没年49歳。

2016年
【死去】荒川博【プロ野球選手】

昭和に活躍したプロ野球選手で野球コーチ・監督、野球解説者としても知られる人物。大学在学中に東京六大学リーグに参加、卒業後の1953年に毎日オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)へ入団。同年に初出場し唯一新人としてオールスターゲームへ選出される。1961年に現役を引退、翌年にに巨人一軍打撃コーチに就任。就任後は同チームを7度のリーグ優勝・日本一に導く、王貞治へ“一本足打法”を指導するなどの功績を残す。1968年に阪神タイガーズのジーン・バッキーと乱闘を起こす(バッキー荒川事件)。1970年にコーチを引退、その後はフジテレビ・文化放送解説者や野球指導者を経て1974年にヤクルトアトムズ(現・東京ヤクルトスワローズ)の監督に就任。1976年に同チームの監督を辞任し再び野球解説者へ。晩年は野球評論家や野球教室「荒川道場」主宰者などで活躍し2016年12月4日に心不全で死去。没年86歳。