『“ブラック・ベッツィー”を握ったシューレス・ジョー』(1913年撮影)

1951年12月5日は、メジャーリーグ史に残る天才バッターであり、1919年のワールドシリーズで起きた八百長事件「ブラックソックス事件」で永久追放されたメジャーリーガーの一人、ジョー・ジャクソンが死亡した日である。
18歳でメジャーデビューし、2年後に移籍したクリーブランド・ナップスで活躍。2年目の1911年には打率.408を記録し、当時最年少の24歳2カ月で4割打者となったジャクソン。
マイナーリーグ時代にサイズの小さいスパイクを嫌い裸足でプレーしたというエピソードから“Shoeless Joe(裸足のジョー)”と呼ばれ愛された若手スターであった。
同時期に活躍したタイ・カッブやベーブ・ルースと比肩しうる豊かな才能を持ちながら、
1915年には強豪のシカゴ・ホワイトソックスに移籍し、これからキャリアの全盛期を築こうとした矢先の1919年、球史に残る八百長事件「ブラックソックス事件」が起きてしまう。
シンシナティ・レッズとのワールドシリーズに3勝5敗で敗戦したホワイトソックスの主力選手達が賄賂のために八百長行為をはたらいたという報道から、翌年大陪審でその事実を認めることとなったのである。
その原因としては当時のホワイトソックスのオーナー、チャールズ・コミスキーが極度の吝嗇家であったことが背景にあったといわれているが、国技として愛されていた野球が汚されたとして、社会的な動揺となった。
当時32歳であったシューレス・ジョーは8人の追放者の中でも最も人気のあった選手であり、『ニューヨーク・タイムス』に報じられた少年ファンの彼への言葉「It ain’t true is it, Joe ?(嘘だと言ってよ、ジョー)」はその後記者による捏造だと明らかになったものの、当時の国民心理をよく現わしているエピソードだろう。
そしてジョーは、第一戦でのホームへの大暴投等などが疑われることとなったが、最後まで公式にその事実を語ることはなかった。
引退後、バー経営などで生活していたジョーは、死亡した翌日にテレビ出演しその事件の真相を語る予定であったとも言われている。
メジャーリーグ3位となる生涯打率.356という記録を残した紛れもない大打者は、なぜ八百長に関わることとなってしまったのか。
その真相が彼の口から明らかになることはなかったが、ジョー愛用のタバコジュースで染めた黒いバット“ブラック・ベッツィー”と、ハッスル・プレイで泥にまみれた黒いユニフォーム(オーナーが資金を出さなかったためと言われている)。
このふたつの“ブラック”が、今もファンの心を捕らえて離さないことも事実なのである。

(写真はWikipedia Joe Jacksonより使用。Public Domain)

12月5日の不幸

1791年
【夭折】ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)【音楽家/オーストリア】

ザルツブルグ生まれの不世出のクラシック音楽家であり、ハイドン、ベートーヴェンと並ぶ”ウィーン古典派三大巨匠”の一人。5歳で作曲をして以来、『魔笛』『ドン・ジョヴァンニ』『フィガロの結婚』からなる5大オペラ、交響曲、ピアノ協奏曲などあらゆるジャンルで膨大な名曲を遺した。『レクイエム K.626』作曲中の1791年11月20日から倒れ、12月5日深夜1時頃にウィーンの自宅で死亡した。没年3

1925年
【死去】ヴワディスワフ・レイモント(Władysław Stanisław Reymont)【小説家/ポーランド】

20世紀に活躍したポーランドを代表する小説家であり、ノーベル文学賞受賞者。幼少期から演劇に熱中し欧州を放浪。その後仕立て職人や鉄道職員を経て1890年にワルシャワへ移住。1894年から本格的に作家活動を開始。翌年ルポルタージュ『ヤスナ・グラへの巡礼』を発表し、小説家としてポーランド国内で高い評価を受ける。1899年、代表作のひとつ小説『約束の地』を発表し、その後1924年に発表した小説『農民』でノーベル文学賞を受賞。翌1925年12月5日に死去。没年58歳。

1926年
【死去】クロード・モネ(Claude Monet)【画家/フランス】

印象派を代表する19世紀フランスの画家。1859年にパリで絵の勉強を始め、ピエール=オーギュスト・ルノワールといった印象派の画家と知り合い、1865年に「サロン・ド・パリ」に初入選。1870年に「普仏戦争」が勃発するとイギリス・ロンドンへ移住するもその後パリへ戻り、1874年、後に「第1回印象派展」と呼ばれる展覧会を開き『印象・日の出』を出展。数回にわたり同展覧会へ参加したが、1880年に「第5回印象派展」への出展を拒否し印象派グループは解体へ。1886年、ニューヨークで印象派の展覧会を開催。1890年代に入ると『積みわら』といった連作を描き徐々に画家としての世界的な名声を得ることに。1900年代頃から『睡蓮』の連作を発表。晩年まで同連作を描き、1926年12月5日に肺ガンにより死去。没年86歳。

1973年
【死去】ロバート・ワトソン=ワット(Sir Robert Alexander Watson-Watt)【学者/イギリス】

20世紀に活躍したイギリスの物理学者で無線通信・レーダーの研究家、防空レーダーの発明者として知られる人物。大学で工学を学び、無線通信の研究を行なう。1915年から気象観測の機関で雷雲の観測に無線通信技術を応用する研究を行ない、1923年に実用化へ。1935年に電磁波による航空機探知システムを航空省へ提案し、同年特許が認定される。1941年、レーダー開発のため渡米。レーダー開発の功績により1942年にナイトの称号、1948年にヒューズ・メダルなどを受賞した。1973年12月5日、老衰により死去。没年81歳。

1974年
【死去】ピエトロ・ジェルミ(Pietro Germi)【映画監督・脚本家・俳優/イタリア】

イタリア・ネオレアリズムと呼ばれる社会派の作品で知られる20世紀イタリアの映画監督、脚本家および俳優。新聞売りなどを経て、ローマの映画実験センターへ入所。演劇科を学んだ後監督科へ移り、その後は俳優や助監督、脚本家として下積みを経験し、1945年の『Il testimone』で監督デビュー。1951年に『越境者』でベルリン国際映画祭銀熊賞、ヴェネツィア国際映画祭セルズニック賞を、『街は自衛する』ではヴェネツィア国際映画祭最優秀イタリア映画賞を受賞。以後、主演も行なった『鉄道員』(1956年)、『刑事』(1959年)といった作品を発表し国際的な知名度を得ることに。1962年『イタリア式離婚狂想曲』でアカデミー脚本賞およびカンヌ国際映画祭コメディ賞を受賞。1966年には『蜜がいっぱい』でカンヌ国際映画祭グランプリを受賞した。1974年12月5日、肺炎のため死去。没年60歳。

1983年
【死去】ロバート・アルドリッチ(Robert Aldrich)【映画監督/アメリカ合衆国】

20世紀に活躍したアメリカの映画監督で、主に西部劇の作家として知られる人物。祖父は政治家のネルソン・オルドリッチ、従兄は第41代副大統領のネルソン・ロックフェラー。大学中退後の1941年、アメリカの映画会社RKOへ入社。チャールズ・チャップリンなどの助監督を務め、1953年の『ビッグ・リーガー』で映画監督デビュー。デビュー後『ベラクルス』(1954年)、『キッスで殺せ!』(1955年)などを発表。その後、アカデミー賞衣裳デザイン賞(白黒)を受賞した『何がジェーンに起ったか?』(1962年)やゴールデングローブ賞助演女優賞を受賞した『ふるえて眠れ』(1964年)、『特攻大作戦』(1967年)などの作品を発表し世界的な知名度を獲得。晩年の1975年から全米監督協会の会長を務めていたが、1983年12月5日に腎不全で死亡。没年65歳。

1986年
【死去】エドワード・ユード(尤德)(Edward Youde)【政治家/イギリス】

1980年代にイギリスの植民地であった香港を統治(香港総督)した人物。1947年、外務省へ入省。1974年から中国の英国大使、1982年には香港総督(1982年~1986年)へ就任。1986年12月5日、英国大使館内で心臓発作を起こし死去。没年62歳。

1988年
【鉄道事故】「中央線東中野駅追突事故」

1988年12月5日に中央本線東中野駅で、津田沼発中野行下り中央線各駅停車(習志野運輸区所属ラシ336編成103系)と千葉発中野行下り中央線各駅停車(三鷹車両センター所属ミツ6編成201系)が起こした追突事故。事故原因は遅延回避のため、後続列車であった千葉発中野行下り中央線各駅停車の運転士が停止信号にも関わらず津田沼発中野行下り中央線各駅停車が停車中の東中野駅へ進行したため。この事故により後続列車の運転士1人・乗客1人が死亡、116人が負傷。国鉄分割民営化後、初の乗客を死亡させた事故となった。

2000年
【急死】鈴木その子【美容・料理研究家】株式会社トキノ(現・株式会社SONOKO)を創業し、独自のダイエット法で成功を収めた美容研究家。晩年はその過剰に色白なルックスを活かし”美白の女王”の名でテレビ・バラエティ番組で活躍した。1999年3月に腸閉塞を発症、翌年11月下旬には風邪で入院。そのたった1週間後に肺炎で急死した。没年68歳。戒名は「白蓮院妙容日苑大姉」。死の12日前には『笑っていいとも!』に出演していた。
2002年
【死去】ネ・ウィン(Ne Win)【政治家/ビルマ】

1950年代にビルマ独立運動を行なったビルマの軍人および政治家。1941年、青年活動家グループ「三十人の志士」のひとりとして軍事訓練を受ける。同年、バンコクで「ビルマ独立義勇軍」を結成し翌年ゲリラ班班長として日本軍とともにビルマへ進軍。1945年、日本の敗戦を知り対日蜂起へ。1948年にビルマが独立すると国防相へ就任。1962年にクーデターを起こし連邦革命評議会議長へ就任、1974年にビルマ連邦社会主義共和国第4代大統領へとなり以後、1988年に民主化運動が起こるまで独裁政治を行なった。1988年に議長を辞任するも晩年まで政界に影響力を持ち続け、2002年12月5日に老衰により死去。没年92歳。

2007年
【無差別殺人事件】【大量殺人】「ウェストローズ・モール銃乱射事件」

2007年12月5日、アメリカ・ネブラスカ州オマハの百貨店フォン・マウアーで、ロバート・A・ホーキンス(当時19歳)が起こした銃乱射事件。ホーキンスは養父宅からおよそ30個の弾倉とCentury WASR-10を盗み、セーターの下に隠し持ち同百貨店へ入店。エレベーターで3階へ向かい降りた後およそ6分間にわたり銃を乱射した。この事件により一般人8人が死亡し4人が負傷、犯人のホーキンスは拳銃自殺した。ホーキンスは事件前、母親に自殺予告を残していた。

2012年
【死去】中村勘三郎【歌舞伎役者】五代目中村勘九郎としての天才子役ぶりで話題になった歌舞伎役者。ミュージカルや現代劇に端役から進出したほか、「コクーン歌舞伎」や「平成中村座」を立ち上げ現代劇作家と新しい概念の歌舞伎を追求したことで知られる。急性呼吸窮迫症候群で57歳没。
2013年
【死去】ネルソン・マンデラ(Nelson Rolihlahla Mandela)【政治家・人権活動家/南アフリカ】若くして反アパルトヘイト運動に参加し、1964年には国家反逆罪により終身刑の判決を受け、27年間もの投獄を経て釈放、その後第8代南アフリカ共和国大統領となった政治家。1993年にはその功績からノーベル平和賞を受賞している。2001年7月に前立腺癌が発覚したが放射線治療を受け、2013年、肺の感染症でヨハネスブルグの自宅にて死去。没年95歳。