『事故現場に再現された巨大なヒグマの像』

1915年12月9日は、日本の歴史上でも最悪と言われる獣害事件「三毛別熊事件」の初日、太田家を襲ったヒグマが、内縁の妻と預かっていた子供を殺害した日である。
その後ヒグマが撃ち殺された12月14日まで、全7人の死亡者(後遺症で死んだものも含めれば8名)と3人の重傷者を出した。
体長はおよそ2.7メートル、体重340キロという桁違いの大きさを誇ったその熊は、冬眠をし忘れたのはその巨体に合う巣穴が見つからなかったためだともいわれている。
人間の味を覚えて翌日10日に執り行なわれた太田家の葬儀にまで現われたそのヒグマは、そのまま立ち寄った明景家で腹の中の赤子を含む5人を殺傷したのだ。
しかし村人は、たった二日の惨状を経て、驚異的な解決法を採った。
一度失った獲物を取り戻そうとするヒグマの習性を利用するため、7人の死骸をおとりに使っておびき寄せたのである。
もはや生命も尊厳もかなぐり捨てて討伐隊を結成して立ち向かった結果、14日にヒグマを射殺することに成功。
人間には、目を覆いたくなるような多くの《悲劇》を乗り越え、現在の歴史を築いてきたのである。

(写真はWikipedia 三毛別熊事件より使用。Public Domain)

12月9日の不幸

1437年
【死去】ジギスムント(Sigismund)【王族/イタリア】

15世紀イタリアで神聖ローマ皇帝(1433年~1437年)およびローマ王(1410年~1437年)ハンガリー王(1387年~1437年)ボヘミア王(1419年~1437年)となった人物。ローマ皇帝カール4世の息子として生まれ、1378年にルクセンブルク公、ブランデンブルク選帝侯となる。1387年にハンガリー王に即位し即位後はオスマン帝国への対策を行なう。1410年にローマ王、1419年にボヘミア王に即位。ボヘミア王に即位後はキリスト教改革派フス派のヤン・フスを異端とし処刑したことで「フス戦争」が勃発、1434年まで同戦争が続くことに。晩年の1433年にローマ皇帝へ即位、1437年12月9日に老人性悪性骨格潰瘍により死去。没年69歳。

1565年
【死去】ピウス4世(Pius IV)【ローマ教皇/イタリア】

16世紀イタリアで第224代ローマ教皇(1559年~1565年)となった人物。法律家、ラグーザ大司教、ボローニャ副教皇使節を経て1549年に枢機卿となる。1559年にローマ教皇に即位し即位後はカトリック教会の公会議であるトリエント公会議を再開・完了させカトリック改革に寄与。1565年12月9日に死去。没年66歳。

1641年
【死去】アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck)【画家/ベルギー】

16世紀バロック期に活躍したベルギーの画家。幼少期から画家ヘンドリック・ファン・バーレンのもとで絵画を学び、1615年頃に画家として活動を開始、画家ヤン・ブリューゲル (子)と工房を開設。1618年に芸術家ギルド聖ルカ組合への入会し芸術家ピーテル・パウル・ルーベンスの助手となる。1620年にフランドルからイングランドへ渡り、イングランド王ジェームズ1世の依頼を受ける。翌年にイタリアへ移住し『ロメリーニ家の肖像』(1627年)といった肖像画を発表。1630年にハプスブルク家大公妃イサベル・クララ・エウヘニアの宮廷画家に就任。1634年ジェームズ1世以降もイングランドとの関係は続けられ『英国王チャールズ1世の肖像』(1635年)などを発表。晩年も画家として活躍し1641年12月9日に病により死去。没年42歳。

1669年
【死去】クレメンス9世(Clemens IX)【ローマ教皇/イタリア】

17世紀イタリアで第238代ローマ教皇(1667年~1669年)となった人物。ローマ教皇ウルバヌス8世の寵愛を受け、歌劇台本作者を経てローマ総督、教皇使節、国務長官などを歴任。1657年に枢機卿に昇進し、1667年にローマ教皇へ就任。就任後はローマ教皇庁の親族登用主義の廃止を行なう。1669年12月9日に脳卒中により死去。没年69歳。

1706年
【死去】ペドロ2世(Pedro II)【王族/ポルトガル】

17世紀末から18世紀初頭にかけてポルトガル王国ブラガンサ王朝の摂政および国王(1683年~1706年)となった人物。ブラガンサ王朝初代ポルトガル王ジョアン4世の息子として生まれ、1668年に兄王アフォンソ6世の摂政王太子となる。1683年にポルトガル王へ即位、即位中の1702年にスペイン継承戦争勃発。1703年にイングランドとメシュエン条約を調印、同年にイギリス、オーストリアと軍事同盟を締結。1706年12月9日に肝臓病により死去。没年58歳。

1915年
【獣害事件】「三毛別羆事件」

1915年12月9日朝、北海道苫前郡苫前村三毛別(現苫前町三渓)に住む太田家を体長およそ2.7メートル、体重340キロという巨大なヒグマが急襲。内縁の妻と預かっていた子供を喰い殺した。人間の味を覚えて翌日10日に執り行なわれた太田家の葬儀にまで現われたそのヒグマは、そのまま立ち寄った明景家で腹の中の赤子を含む5人を殺傷。14日に死骸をおとりに使っておびき寄せ射殺するまで、7人の死亡者と3人の負傷者を出したヒグマによる歴史上最悪の事件となった。

1916年
【死去】夏目漱石【小説家・教員】

明治から大正期にかけて『吾輩は猫である』『坊っちゃん『三四郎』『こゝろ』等数々の小説を発表した戦前の日本を代表する小説家。1984年11月から現在に至るまで千円札に肖像が使用されていることでも知られる。晩年は胃潰瘍と糖尿を患い、『朝日新聞』に『明暗』を連載中の1916年12月9日に胃潰瘍で死亡。没年49歳。

1948年
【国際事件】「ジェノサイド条約締結」

1948年12月9日、国連第三回総会決議でジェノサイド再発防止のためのジェノサイド条約が全会一致で締結。

1975年
【死亡】ウィリアム・A・ウェルマン(William A. Wellman)【映画監督・俳優/アメリカ合衆国】

1927年の監督作『Wings(つばさ)』で第1回アカデミー作品賞を受賞したアメリカを代表する監督。1937年の『A Star Is Born(スタア誕生)』等数々のヒット作を手がけ、1975年12月9日白血病で死亡。没年79歳。

1986年
【芸能事件】「フライデー襲撃事件」

交際していた女子専門学校生への『フライデー』誌記者の強引な取材態度に腹を立てたビートたけしが、1986年12月9日深夜3時頃にたけし軍団11人を引き連れて講談社同誌編集部に押し入った事件。担当者を出すように言ったが、そのまま乱闘となり、編集部員、編集長らが重軽傷を負う結果となった。この結果、判決が確定するまでの8カ月間、たけしは芸能活動を自粛し謹慎処分に。その後の公判により懲役6カ月執行猶予2年の刑が確定した。

1989年
【死亡】開高健【小説家・随筆家・編集者】

大阪市立大学在学中に北尾書店に入社し編集やコピーライターとして活動。この時トリスウイスキーの「人間らしくやりたいナ」などを手がける。同社の社員時代の1958年に小説『裸の王様』で芥川賞を受賞。戦後期を代表する小説家として人気を博すが、その一方で遅筆が原因でトラブルも多かった。また、1968年に毎日出版文化賞を受賞した『輝ける闇』等のノンフィクションや釣りや食事等の趣味人としての知識を活かしたエッセイ・紀行文など様々なジャンルで幅広く著作を発表し続けた。1989年に食道ガンの手術後、食道ガンに肺炎を併発し死亡。没年58歳没。死後、その功績を称え1992年から2001年まではTBSブリタニカが「開高健賞」を、2003年からは集英社が「開高健ノンフィクション賞」を創設した。また、生前すごした神奈川県茅ヶ崎市に「開高健記念館」がある。

1992年
【国際事件】「ダイアナ妃・チャールズ王子別居生活合意」

1992年12月9日、イギリスのダイアナ妃とチャールズ皇太子の合意により夫妻が別居生活となることが公式に発表。

2014年
【死去】堀内護【ミュージシャン・音楽指導者】

昭和から平成にかけて活躍したシンガーソングライターでフォーク・ロックグループ「ガロ」のメンバーとして知られる人物。由美かおるのバックバンド、日高富明・松崎しげるとのGSバンド「ミルク」を経て1970年に大野真澄、日高と「ガロ」を結成。以降『学生街の喫茶店』(1972年)『君の誕生日』『ロマンス』(1973年)を発表。1976年に同バンドを解散、解散後はソロ活動を始めるもヒット曲に恵まれず、オートテニス場を開業。その後は音楽指導者、楽曲提供などを行ない、2014年12月9日に胃ガンにより死去。没年65歳。

2015年
【死去】野坂昭如【作家・作詞家・歌手・タレント】

代表的小説『火垂るの墓』や処女小説『エロ事師たち』で知られた昭和期を代表する小説家。作詞家としては童謡『おもちゃのチャチャチャ』等を手がけたほか、『マリリン・モンロー・ノー・リターン』『黒の舟歌』『バージン・ブルース』等の代表曲として知られる歌手としても活躍した。東京地検が、編集長を務めた『面白半分』1972年7月号に掲載した永井荷風作といわれる小説『四疊半襖の下張』が東京地検によりわいせつ文書販売の罪で起訴された『四疊半襖の下張』でも世間を賑わせた(結果的には最高裁まで争われわいせつ文書に当たるとの判決。野坂に罰金10万円、面白半分社佐藤嘉尚社長に罰金15万円が下った)。晩年はテレビタレントとしても活躍、友人の大島渚の結婚30周年記念パーティーで殴り合いを演じるなど、トラブルメーカーとしても知られた。2003年に脳梗塞で倒れて以降は執筆とリハビリに専念し続け、2015年12月9日に心不全で89歳没。

2018年
【死去】重由美子【セーリング選手】

1990年代から2000年代にかけて活躍したセーリング選手でオリンピックヨット競技で日本人初の銀メダリストとなった人物。ヨットハーバー勤務を経て1996年の「アトランタオリンピック」ヨット女子470級に木下アリーシアと出場し日本選手として初の銀メダルを獲得。2000年「シドニーオリンピック」ヨット女子470級に出場。2018年12月9日に乳ガンで死去。没年53歳。