今回で4回目を迎える『軍艦島大特集』。前回からは、軍艦島最大の見所である西部地域に入ったが、今回はさらに奥へと進んでみたい。もちろん、この西部地域は、建物の倒壊の危険があるため、長崎市によって一般の立ち入りが禁止されている場所だ。
前回紹介した日給住宅(16~20号棟)に次いで見所となるのは、やはり65号棟(通称「報国寮」)だろう。軍艦島最大の建築物となる65号棟は、見る者を圧倒する。閉山から40年という時が流れ、コンクリートの劣化が進んでいるため、ボロボロとなった外壁が肉迫してくる。
総戸数は300戸以上を誇る65号棟は、上から見ると「コの字型」をしている。昭和20年(1945年)に北側の建物(旧棟)が建てられ、昭和24年(1949年)に東側(旧棟)の建物が増築された。そして、昭和33年(1958年)に南側の建物(新棟)が建てられている。南側の建物は、外壁面が薄緑色に塗られているために、旧棟よりも明るい色をしている。
65号棟の最大の特徴は、建物の5階以上の部分にテラスが設置されていることだろう。このテラスは、「縁側」として作られ、この部分が「軒先と縁側」となっている。65号棟は、鉄筋コンクリート造りの建物であるにもかかわらず、一般の木造平長屋の感覚が取り入れられている。
建物の内部もユニークだ。鉄筋コンクリート造りの建物の中に一般の木造平長屋を組み込むという日給住宅の発想は、65号棟にも引き継がれており、コンクリートに囲まれていなければ、木造平長屋そのものに見える。旧棟の間取りは、6畳2間と台所となっていて、新棟の間取りは、6畳+4.5畳+台所+内便所となっている。
65号棟(旧棟)には、様々な施設も入っていた。1階には、歯科医院があり、半地下部分には、美容理容室があった。美容理容室では、打ち掛けや振り袖、ウエディングドレスなどの貸衣装もやっていた。そして、屋上部分には、保育園(幼稚園) が入っていた。最盛期、この保育園は、220人の児童をかかえていたという。
「65号棟の旧棟は、戦時中に建築が始められた建物です。この時代は、鉄筋コンクリート造りの建物を建てることが許されていませんでした。終戦を挟んでその前後5年間がその時期にあたります。この10年間は、“日本建築史の空白の10年間”と言われています。しかしながら、物資の乏しい時代にこの建物が建てられたことは、軍艦島から産出される石炭が日本にとって重要な役割を担っていたことを物語っています」(阿久井喜孝氏(東京電機大学名誉教授))
軍艦島の西部地域には、20棟以上の建物が残されているが、65号棟を間近で見たときの迫力は、他の建築物とは比較にならない。65号棟は、日給住宅同様に、軍艦島を語る上で欠かすことのできない建築物なのだ。
※長崎市の特別な許可を得て取材・撮影をしています
■写真・文=酒井透:『未来世紀☆軍艦島』(ミリオン出版)、絶賛販売中!