【第1回はコチラ】
2015年のユネスコの世界文化遺産登録に向けて、その航海を続けている軍艦島(長崎県長崎市端島)。
かつて軍艦島は、海底炭鉱の島として栄え、1960年(昭和35年)の最盛期には5300人もの人が暮らしていた。しかし、74年に閉山となってからは、40年近くもの間無人島となっていた。そして今年9月、政府が「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の構成資産のひとつとして、ユネスコに推薦することを決めると、国内外からの注目度はグンと上がった。
世代を超えて日本の近代化遺産に注目が集まっている今、本連載『軍艦島大特集』では、同島に残されている“炭鉱の遺構を順次紹介していこうと思う。
今回は、島の玄関口となる東部地域からアプローチしてみよう。
まず、長崎港などから出ている“軍艦島クルーズ”で観光上陸すると見えてくるのが、選炭施設や貯炭場、竪抗、捲座などの遺構だ。このあたりは、鉱業所と呼ばれていたところで、海底の奥深くで産出された石炭を陸上に上げていた場所だ。往時は、炭鉱の“シンボル”となっている竪抗櫓(たてこうやぐら)が立っていて、選炭された石炭の船積みがされていた。
炭鉱の面影を今に伝えるものが、遊歩道を1/3くらい歩いたところに残されている。第二見学所のすぐ前にあるのが、第三竪抗捲座跡や第二竪坑桟橋だ。中世のヨーロッパを思わせるような捲座跡は、建物の外部の壁のようにも見えるが、実際には内部の壁である。捲座というのは、竪抗櫓に設置されているケージをワイヤーロープによって昇降させるための機械(巻上機)が備えつけられていた建物のことをいう。この奥には、鉱員用の共同風呂も残されていて、閉山時には、資材倉庫として使われていた。
そのまま遊歩道を南に向かって歩いて行くと、鍛冶工場などの横を通って第三見学所にたどり着く。ここから見ることができるのは、国内最古のコンクリート建築のアパートである30号棟だ。実は、ここが“軍艦島クルーズ”の最大のハイライトである。
30号棟が建てられたのは、大正5年(1916年)。もうすぐ100歳を迎える。戸数は約133戸で、下請業者の住居として使われていた。中央部分が吹き抜けになっていて、上から見ると「回の字型」となっている。当初は4階建てだったが、後から増築されて7階建てになった。1階には、給料の支払窓口もあった。長年、風雨や潮風、直撃する台風に晒されていたことによって劣化が進んでいるが、厳しい労働条件の下、労働力を確保するために、頑丈な建物を作る必要があったことを今に伝えるものとなっている。
島の東部地域に細長く伸びている遊歩道。ここからは、様々な炭鉱の遺構を見ることができる。次回からは、島の内部に進んでみたい。【続く】
(取材・文・写真=酒井透)※長崎市の特別な許可を得て取材・撮影をしています