【冤罪濃厚だった死刑囚】無念すぎる…235通の書簡から“恐怖の凄絶獄死”全容が判明! シベリア帰りの富山常喜の苦しい生涯
――人を殺した人と会う。死刑囚の実像に迫るシリーズ【18】
死刑囚が冤罪を訴え続け、死刑執行されないまま獄死する例は案外少なくない。有名なのは帝銀事件の平沢貞通や名張毒ぶどう酒事件の奥西勝だが、2003年に東京拘置所で獄死した富山常喜(享年86)もその1人だ。富山が獄中から支援者の男性に出していた手紙により、その凄絶な獄中生活がつまびらかになった。
■証拠が何もないのに死刑に
1963年の8月下旬のある日、茨城県波崎町(現・神栖市)で農業を営んでいた36歳の男性が自宅で突如苦しみ出し、搬送先の病院で死亡した。この事案をめぐり、殺人などの容疑で検挙されたのが富山だった。
富山は当時46歳。茨城県の那珂湊市で暮らし、魚類や野菜を入れる「木箱」の販売やラジオの修理業で生計を立てていた。警察は富山が死んだ男性の生命保険の受取人になっていたことなどから、保険金目当てで男性に青酸化合物を飲ませ、殺害したと断定したのだ。
だが実際には、富山は男性に多額の金を貸していたため、借金の取りっぱぐれがないように一時、男性の生命保険の受取人になっていたものの、事件前に保険会社に解約を申し入れていた。それにもかかわらず、保険会社側がノルマのため、富山に内緒で契約を継続していたというのが真相だった。裁判では、男性の死因が本当に青酸化合物による毒殺なのかについても疑問が呈せられ、決め手となる有罪証拠は無いに等しかったという。
富山の支援団体「波崎事件対策連絡会議」の代表・篠原道夫(87)はこういう。
「富山さんは理屈っぽいところがある人で、よく交番や市役所に文句を言いに行っていたため、警察にいやがられていたようです。そんな経緯もあり、この事件では警察から犯人だと決めつけられたみたいです」
富山は一貫して無実を訴えながら、1、2審共に死刑判決を受け、1976年に最高裁で死刑が確定してしまう。証拠が何もないことについて、裁判では「絶対に証拠を残さない、いわゆる完全犯罪を試みんとしたものとも見るべき」(1966年に宣告された水戸地裁土浦支部の死刑判決より)と判断されたのだ。
■毎朝、死刑執行の恐怖に脅えていた
富山は戦時中、徴兵されて朝鮮半島で国境警備にあたり、戦後はソ連の捕虜になって数年間、シベリアに抑留されていた。シベリアで過酷な強制労働に耐え抜いただけあり、精神力は強い人物だったようだ。篠原はこう言う。
「だからこそ取り調べで脅かされても自白せずに耐え抜けたのだと思います」
だが、死刑が確定すると、富山も強気のままではいられなかったようだ。ある時、篠原に宛てた手紙で次のように書いている(以下、<>内は富山の手紙より引用。原文ママ)。
〈土、日曜、祝祭日の外は来る日来る日の毎日が、ガチャガチャと扉を開けられる度びに、心臓が破裂するのではないかと思へるほどの恐怖心を味わわされる地獄の連続であり、若しも寿命を計る機械がありましたなら、恐らくは確実に毎日毎日相当の寿命を擦り減らされているのではないかと思います〉(1987年12月29日消印)
死刑が執行される際、死刑囚本人にそのことが通達されるのは当日の朝だ。それゆえに死刑囚たちは毎朝、生きた心地がしないと言われるが、富山も例外ではなかったのだ。
筆者は一昨年、冤罪死刑囚たちが獄中でしたためた書画を紹介した『絶望の牢獄から無実を叫ぶ』(鹿砦社)という本を制作した際、この手紙をはじめ、篠原が獄中の富山からもらった計235通の書簡を見せてもらった。それには、富山の死刑囚としての日々が克明に記録されていた。
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