性と暴力が渦巻くカルト「人民寺院」のカリスマ教祖、その狂気と破滅
1978年11月18日、南米ガイアナ西部のジャングルにあるジョーンズタウンで900人以上が集団自殺するという衝撃的な事件が起きた。彼らに自殺を命じたのはジム・ジョーンズ。宗教団体「人民寺院」の最高指導者にして、ジョーンズタウンの名実ともにトップだった。ジョーンズは自らと教団の破滅を悟り、妻子を含む900人以上もの信者を道連れに前代未聞の集団自殺を図ったのである。
■カリスマ宗教家の誕生
ジェームス・ウォーレン・ジョーンズことジム・ジョーンズは、1931年に米国インディアナ州で生まれた。父親はKKK(クー・クラックス・クラン)の支持者で、ジョーンズが12歳の時に妻子を捨てて家を出て行った。信心深く福祉活動に熱心な母親の下、ジョーンズも熱心に教会に通い、聖書を学んでいたという。また、マルクスやレーニン、毛沢東などの本を読む早熟さも見せていた。しかし一方で、猫などの小動物を殺して葬儀ごっこをするような異常性も垣間見せていたという。
高校卒業後、ジョーンズは宣教師の娘マルセリーヌと結婚した。妻の勧めでメソジスト派の教会に通うようになり、自らも牧師として宣教を始めた。雄弁で話もうまく、人種差別撤廃を掲げた彼の説教はたちまち評判となり、とりわけ黒人などのマイノリティ層から大きな支持を得た。
次第に支援者も増え、1955年にはインディアナポリスに自らの教会「人民寺院」を立ち上げた。ジョーンズは食事やシェルターを提供するなどの社会福祉活動や差別撤廃運動に励み、私生活でも黒人やアジア系の子供を養子にして、自らの子と分け隔てなく育てた。反戦運動や公民権運動の盛り上がりもあり、ジョーンズは優れた社会活動家として評価されるようになった。とはいえ、信者の多くは黒人であるのに対し、ジョーンズをはじめ幹部は皆白人であった。
その一方、ジョーンズは核戦争に怯えるようになり、共産主義にも傾倒するようになっていった。そんな彼にある啓示が訪れた。それは『近いうちに核戦争で人類は滅びる。だが、ブラジルのベロオリゾンテと、カリフォルニア州ユカイアにいるものだけは生き残る』というものだった。ジョーンズはブラジルに旅行をした後に、ユカイアへと教会を移すことを決意する。
1963年に活動拠点をカリフォルニア州に移すと、ジョーンズはマスコミや有力政治家との関わりを深めていった。市長選の応援といった政治活動や社会福祉活動で評判と名声を上げる一方で、説教はより過激になり、自らをキリストやブッダの生まれ変わりだと称し始めた。「奇跡」で病気を治すような派手なパフォーマンスも行い、教会には大勢の信者と多額の寄付金が集まるようになった。
■教祖の異変
教団の急成長と共に、ジョーンズの秘めた異常性も徐々に表に出始めた。ジョーンズは性欲が強く、性的な強さを自慢するようなところがあった。当然、彼は多くの信者と男女を問わず関係を持ち、子供も数人産ませている。その一方で信者たちにはセックスを禁じた。これには少なくとも二つのメリットがあった。夫婦・家族関係の悪化した信者は人民寺院にさらに依存するようになるとともに、ジョーンズが人妻を口説くのも容易になるというわけだ。
教団での儀式にも性的なものが増え始めた。例えば、白人の信者に人種差別者でないことの証明として、黒人信者の性器を舐めるよう強制したという。異常な行為を強要されるようになり、信者たちは次々と教団を離れ始めた。ジョーンズは裏切り者を名指しで糾弾し、自分たちは迫害されていると訴えた。だが、醜聞がマスコミや世間を騒がすことはなかった。ジョーンズが握りつぶしたからだ。
■終わりの始まり
様々な問題を抱えつつも、ジョーンズと人民寺院は表向き成功を収めていた。だが、破綻のきっかけはすぐそばにあった。
1971年、ジョーンズの愛人グレース・ストーンが男の子を出産した。ジョーンズはこの子が自分の生物学的な子供だという公的書類を作成し、手元に置いて非常にかわいがった。しかし、グレースの方は教団の方針に疑問を抱き始め、ついには脱退を決意し、息子の養育権を求める裁判の準備を始めた。
この事態に頭を痛めたのはグレースの夫ティモシー・ストーンである。彼は人民寺院を支える幹部の一人であり、教団の後ろ盾でサンフランシスコ地方検事補の地位に就いていた。当初はスキャンダルを避けるため、離婚と親権を求めるグレースを説得しようとした。しかし、人民寺院に対する世間の風は変わりつつあった。教祖の異様な言動や、奇跡と称したイカサマがバレ始めたのである。ティモシーも最終的には教団を離れることを決意し、子供を取り戻す道を選んだ。
信者たち、そして愛人や側近の裏切りにショックを受けたジョーンズは、かねてから建設中だった南米ガイアナのジョーンズタウンへの移住を決意した。脱退者たちの告発がマスコミを賑わすようになり、人民寺院へのバッシングも始まっていた。1977年、ジョーンズは妻子(グレースの生んだ息子も一緒だった)と信者数百人を連れ、ガイアナへと逃げるように旅立った。
教団はジョーンズタウンをこの世の楽園だと喧伝したが、信者たちは過酷な労働と虐待にあえいでいた。パスポートや身分証明書はもちろん財産も取り上げられ、子供たちは両親から引き離されてまともな教育もされなかった。ジョーンズや幹部によるレイプや暴行も日常化しており、嫌気がさして脱走しようとした者も多数いたが、捕まれば衆人環視の中でオナニーさせられるような辱めを受けたり、集団リンチされたりした。
ティモシーらは教団の脱会者や信者の家族と共に反人民寺院のキャンペーンを行い、連れ去られた子供たちの返還訴訟を起こした。広がりつつある教団への批判を受け、アメリカ連邦議会のレオ・ライアン下院議員らによるジョーンズタウンへの視察が決まった。人民寺院、そしてジョーンズの破滅の時は近づいていた。
■教団の終焉
1978年11月14日、ライアン議員やマスコミ、信者の家族らからなる視察団がジョーンズタウンを訪れた。ジョーンズらは町の真実を隠匿した上で視察団を歓迎した。しかし、不衛生な小屋に老人たちが監禁されているなど、教団の異様な実態はすぐに明らかになった。ジョーンズも突然大声を上げる、涙を流すなどの異常な行動を示した。脱会希望者らは密かに視察団の元を訪れ、教団の異常な内情を語って助けを求めた。当初は教団に友好的だったライアン議員も態度を変え、脱会希望者16人を共に連れて帰ることを提案した。ジョーンズは渋々これを受け入れたと同時に、自らと教団の破滅を悟った。
11月18日。任務を終えた視察団一行を乗せた小型飛行機が出発しようとした時だった。突如、一緒に飛行機に乗っていた脱会希望者の一人がライアン議員をナイフで切りつけた。ジョーンズの差し向けた刺客が紛れ込んでいたのである。空港にはトレーラーが乗り込んできて、飛行機に向けて発砲を始めた。もちろんジョーンズが命じた襲撃である。この襲撃でライアン議員を含む5人が死亡、11人が重軽傷を負った。
襲撃犯たちが町に戻ると、ジョーンズは町の信者たちに「革命的自殺」をするように呼びかけた。ジョーンズタウンではかねてから自殺の予行練習が幾度となく行われていた。列に並んで毒入りのジュースを受け取り、それを飲み干すのである。これは教団に忠誠を示す儀式であり、練習の際は当然無害だった。食事係は儀式を免除されるのが常だったが、この時は違った。信者たちはこれが練習ではなく、本番であることを悟った。
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