“怪奇小説”以上の悲劇… エドガー・アラン・ポーはなぜ他人の服を着て倒れていたのか? 謎すぎる最期と「4つの死因説」

路上で倒れていた「怪奇文学の父」の最期
1849年10月3日、ボルティモアの路上に一人の男が倒れていた。意識は朦朧とし、着ている服は自分のものではなく、なぜ自分がそこにいるのかも説明できない状態だった。その男こそ、「大鴉」「アッシャー家の崩壊」で知られる怪奇文学の父、エドガー・アラン・ポーだった。
病院に搬送された後も、彼は幻覚と昏睡を繰り返し、発見からわずか4日後に息を引き取った。享年40歳。医師は死因を「脳の充血」と記録したが、その死亡診断書は現存しない。177年が経った現在も、ポーの最期は謎のままだ。

波乱すぎた40年の生涯
ポーの人生は、まるで彼自身が書いた怪奇小説のような展開の連続だった。2歳で両親を亡くし、バージニア州リッチモンドの富裕な商人ジョン・アランの家に引き取られるも、正式には養子になれないまま育った。
1826年、バージニア大学に入学するが、金銭管理をめぐる養父との対立が深まり退学。その後ボストンで初の詩集を自費出版し、偽名で陸軍に入隊。サウスカロライナ州フォート・モルトリーでは軍曹にまで昇進した。さらにウェストポイント陸軍士官学校に入学するが、1年も経たずに退学処分を受けている。
文学活動を続けながらも、その後の人生は職を転々とし、酒との闘いが続いた。1835年には13歳の従妹ヴァージニア・クレムと結婚。1845年には「大鴉」がニューヨークの夕刊紙に掲載されて一躍有名になるが、妻は結核で死去し、精神的な安定は崩れていった。婚約しては破談になり、飲酒問題は悪化するばかり。そして1849年の秋、彼はリッチモンドからニューヨークへ向かう途中に消息を絶ち、ボルティモアの路上に現れた。
専門家も首を傾ける「4つの死因説」
ポーの死に関しては、長年にわたっていくつかの仮説が提唱されてきた。どれも完全には証明されておらず、それぞれに一定の説得力がある。
まず有力視されているのが「選挙不正説」だ。ポーが発見された1849年10月3日は、選挙前日にあたる。当時のアメリカでは、ギャングが一般市民を拉致し、別人に変装させて複数回の投票を強制するという悪質な選挙不正が横行していた。この行為は「クーピング」と呼ばれ、被害者には大量のアルコールが飲まされた。他人の服を着て泥酔状態で発見されたポーの状況は、この手口と一致する。
次に「脳病変説」がある。ポーが生前にアルコールへの異常な低耐性を示していたことを根拠に、脳に何らかの病変があったと指摘する医師もいた。さらに死後20年ほどして遺骨が移葬された際、頭蓋骨の中に石灰化した腫瘍らしきものが発見されたという記録も残っている。脳腫瘍や石灰化病変の類いだが、当時の医学では詳しい分析は難しかっただろう。

症状の一致という点で最も整合性が高いのが「狂犬病説」だ。発見時のポーは混乱し、極度の疲弊状態にあり、幻覚を見ていた。これらはすべて狂犬病の末期症状として知られる。発見から死亡までの4日間という経過も、感染から死亡までの典型的な進行と一致している。地味に見えるが、医学的な根拠という点では最も強力な仮説かもしれない。
「毒殺説」も存在する。一酸化炭素や水銀による中毒死の可能性が指摘されたが、毛髪分析によって石炭ガス(一酸化炭素)は除外されている。水銀については血液中から検出されたものの、致死量には達していなかった。可能性としては最も低い部類に入る。
そしてもうひとつ、幽霊の話を抜きにはできない。ポーゆかりの地、リッチモンドのポー博物館、サウスカロライナ州のサリヴァンズ島、そして彼がボルティモアで愛したバー「ザ・ホース・ユー・ケイム・イン・オン・サルーン」では、今も幽霊目撃情報が後を絶たない。生前に怪奇と幻想を書き続けた男が、死後も幽霊として語り継がれるというのは、出来すぎた話のようでもあり、実に彼らしいとも言える。
「脳の充血」という公式見解とともに、消えた死亡診断書。ポーの最期は、彼の作品と同様に、答えのない問いを読者に手渡したまま幕を閉じている。
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